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キメラ

その生き物を見たのは、木曜日のお昼頃の公園だった。
変な犬だった。
気のせいかと思ったけれど、何回見ても変な犬だった。
頭はゴールデンレトリーバーみたいに大きく、優しそうな眼差しをしているのに、胴体はダックスフンドのように細長く、あと数センチ脚が短かったら這いつくばっているみたいになってしまう。その賢そうな表情に反して、尻尾はこの間古い映画でみた羽ペンみたいにゆらゆらと軽薄そうに揺れていた。後から調べてわかったことだけれど、あの羽ペンみたいな尻尾はロングコートチワワの尻尾にそっくりだった。私は小さい頃チワワに吠えられてからあの小さいけれど恐ろしい牙を持った生き物を信用していないので、尻尾にだけいい印象を抱かなかった理由はチワワか、と妙に納得した。

その犬を見たとき、わたしと河合くんは公園のベンチでおにぎりを食べていた。
背の高いビル群のよく磨かれたガラスが、3月初めの冬の気配を引き摺った太陽を反射する中、私たちのいる谷坂公園だけは気の抜けた炭酸みたいな、どこか間の抜けた空気が漂っていた。
「みて、変な犬がいる」
わたしは隣に座った河合くんの肩を手の甲でそろ、と触った。
「うん」
芯のない返事が返ってくる。河合くんはわたしが握ったおにぎりを左手に、右手で携帯を握りしめていた。彼の目は右手に釘付けで、首がティラノサウルスみたいにしなっている。ちらりと横目で覗いた画面には、麻雀牌のようなものが見えた。あ、またかあ。河合くん、きっとおにぎりの具が何かも、わかってないんだろうな。わたしは自分の分のおにぎりをタッパーから出して、巾着から大判の海苔が入ったジッパーを取り出した。今日の具は、シーチキンと明太高菜。どっちも、美味しいのにな。麻雀って、そんなに楽しいのだろうか。

河合くんは、大学の二個上の先輩だった。
私が入っていた水族館サークルの飲み会や活動にいつもいるけれど、サークルには所属していないことになっている、不思議な存在だった。普通に考えたら変な人だったけれど、河合くんはどの先輩とも親しく、どの輪の中に割って入っていっても、まるでそこにずっといたような感覚にさせてしまう人だった。手品みたいな人、と私は居酒屋の空気に当てられてのぼせた頭で考えていた。サークル長に肩を叩かれて笑う河合くんは、一度もこちらを見なかった。

河合くんと親しくなったのは、サークルに入って半年目の、私にとっては3回目の水族館散策の日だった。
その日私は一人で水族館を見て回っていた。水族館サークルには私と同じ一年生が30人ほど入っていたけれど、なんだかあまり親しくなれないまま、半年の期間が経ってしまっていた。人見知りではないけれど、「つるむ」ということが苦手な私は、今回も上手にグループ割りに紛れ込むことができなかった。サークルで唯一仲良くなった藍ちゃんは掛け持ちバイトで忙しく、今回はパス、と素気無く断られてしまった。

「みんなは?」
仕方がないので一人でぼうっとアジの群れを眺めていると、後ろから声を掛けられた。河合くんだった。
わからないです、と答えると、河合くんはふうん、と言って私の後ろにあった小さなベンチに腰掛けた。聞いたくせに、そんなに知りたくもなさそうな様子に、好きだな、と思った。河合先輩も(この頃はまだ先輩、と呼んでいた)一人で見て回っているんだろうか。
「先輩は、サークルには入らないんですか。」
「多分。気が向いたら入るかも」
きっと、入らないんだろうなと思った。私越しに円柱型の水槽を見つめる彼は珍しく笑っていなくて、その顔を正面から見たことが初めてだったことに私は気づいて、不意に緊張してしまった。
そのあと、言葉もなくすとんと彼の隣に腰掛けて、水族館散策が5回目になる頃には、なんとなく河合くんと呼ぶようになっていた。6回目を迎える前に、河合くんは私の彼氏になった。

今なら、あの時彼の隣に座ろうとした私にこう囁くだろう。河合くんは、私のことを知っていて声を掛けたのかな。それとも、きらきらと乱反射するダイヤ型のアジの群れを私越しにただ見ていただけの河合くんに、勝手にのぼせ上がっていただけなんだろうか。たまたま、隣に座ったのが私だっただけで。ねえ、どう思う?

人当たりの良かった河合くんは、私がほとんど知らない間に就職活動を終えていて、大学を卒業した後、大手の銀行に就職した。私でも名前を知っていて、街でたくさん広告を見る会社だった。3月の終わりがけに行われた卒業式では、河合くんは私が知らない沢山の人に囲まれていた。私は遠巻きに眺めながら、あの日水族館で見たのは河合くんはまぼろしだったのかな、なんて思ったりもした。私が立っている日陰にはまだ2月の刺すような寒さが漂っているような気がした。

河合くんが変になったのは、彼が社会人になって二ヶ月が経ったころだった。彼は入社から二ヶ月経ったある日、会社でパソコンに向かいながら倒れたらしい。そのまま、河合くんは会社を辞めた。お医者さんは、ストレスが原因という。私にはよくわからなかった。意識を失うほどのストレス。河合くんは、倒れる前に何を考えたのだろう。彼が就職してから、一定の期間、私たちは連絡を取らないことを決めていた。河合くんが言い出したことだった。多分、忙しくて連絡取れなくなると思う。だから最初からしないことにする。私はそれに、うん、わかったと答えた。間違っていることだとも思わなかったし、新しい環境に慣れるのはきっと大変だから、と納得した、その時は。だから私は、何も知らない。サークルのみんなや、卒業した先輩たちに聞かれた時は適当に誤魔化している。後から聞いたことや、そこから私が想像したことを、まるで河合くんが言ったみたいに話している。

河合くんは、何も話さなかった。二ヶ月間のことも、今何を思っているのかも。時々私が電話をかけると、河合くんはうん、と答える。メッセージは何時間経っても返事をくれないけど、電話だったらすぐに出てくれる。だったら、と思って電話越しに色々聞いたけど、電話はいつの間にか切れていた。だからもう、何も聞かないことにした。私は5日に一回、電話をかける。
「明日、お昼ご飯食べない」
そうすると河合くんは必ずうん、と言ってくれる。その度に私は安心して、いそいそとおにぎりを握る。料理にあまり自信がなくて、自分で食べるにはいいけれど、おかずを河合くんに渡すのはなんだか気が引けたので、いつもおにぎりを持っていく。おかずがない代わりに具にはこだわった。必ず一手間加えた、自分で作ったものを包む。河合くんは食べてくれる。公園にも、来てくれる。麻雀を片手に、まだ。

「キメラみたいだねえ。キメラ犬」
レトリーバーダックスフンドチワワ犬は気持ちよさそうに日差しに目を細めて、時折芝生の匂いを嗅いでは、尻尾をふわふわとなびかせていた。
キメラドッグを眺めている間に、河合くんはおにぎりを食べ終わっていた。右手の麻雀はいつ頃始まって、いつ頃終わるのか皆目見当がつかない。画面と河合くんの目は、もうすぐくっついてしまいそうだった。河合くんは、歯に舌を当ててチチッと鳴らす。ご飯を食べた後の彼の癖だった。そのことを話すと藍ちゃんは嫌がったけれど、私は彼のその癖がおじいちゃんみたいで、好きなのだった。多分、さっきまでは。

キメラ犬を見ていたら、鼻の奥がつんと痛んで、いろんな河合くんが蘇ってきた。
頭は、水族館の河合くんがいいな。チチッと舌を鳴らす彼も良かったけれど。体はどうしよう。卒業式のスーツ姿も良かった。でも、水族館のあの日の、白いスタンドカラーシャツの河合くんも捨てがたい。隣に座った彼は、清潔な香りがした。尻尾は。河合くんは尻尾がないからなあ。
あのキメラ犬も、尻尾だけ柴犬に変えられたらいいのに。ふわふわの芝生みたいな、クルンと巻いた尻尾。そうしたら、もっと好きになれるのにな。
水族館の河合くんは、もう選べないのだろうか。理想の河合くん、キメラみたいな河合くん。私は一体何を間違えたんだろう。

「河合くん、もう会うのやめよっか」
うん、と河合くんは答えた。まだ麻雀牌を見つめているのか、もうなんでも良かった。ベンチから立ち上がっても、河合くんは何も言わなかった。私も、振り返らなかった。
残りのおにぎりは家に帰ってから食べよう。4つ作っても、河合くんはいつも一つしか食べない。
キメラ犬が、バウ、と一際大きく吠えた。


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