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私の大事な人たちは、私が勉強できるから一緒にいるわけじゃない。

私に教えられることはなくても、私と仲良くしてくれる人たちと大学で出会いました。やっと、「勉強できる女の子」ではなくなった私を認められました。


 私は小学生の頃、いじめとは言わないまでも女子に無視されたり、陰で悪口を言われたり、そんな些細な嫌がらせをされたことがあります。

 で?だから何だよと、自分では思うのですが、そのころの経験が意外にも私のメンタルの弱さに深く深くかかわっている事が、最近分かったのです。

 幼稚園から小学校低学年の頃の私は、空気は読めないし衝動的だしで、いわゆる癖が強いガキンチョでした。一年前に発覚したのですが私はどうやらADHDの傾向が強いようで、その特徴を余すことなく満たした子供時代でした。また、当時の私は勉強ができる事・足が速かったこと・お歌が意外とうまい事の3つを鼻にかけていたので、かなりかなり嫌な奴でした。また、本が好きすぎて教室移動を忘れてしまったり、話しかけられたのに本から目が離せず返事をしなかったりで、のめり込み方が尋常ではありませんでした。
そりゃあ、友達がなかなかできないわけです。

 時々、当時の事を思い出します。みんな運動場へ遊びに行ってしまって誰もいない教室で、読んでいた本からふと顔を上げた時の、ゆったりとした時間とはためくクリーム色のカーテンが、私の「お昼休み」の記憶です。もう朧気ですが。

 当然ですが人気者からは程遠く、家族ぐるみで仲が良かった親友が小学二年生の時に引っ越してからは、友達付き合いでとても苦労しました。
 空気が読めないので、憧れの女子グループに入ろうと一生懸命話しかけたりくっついていたりしました。が、身分違いで残念ながら嫌われてしまいました。そのグループには時々入れてもらえて遊ぶこともあったのですが、好きな人を教えた翌日にグループから抜けてと言われたり、グループ内の喧嘩に巻き込まれたり、まあドロドロしていました。一方で私に興味を持ってくれる女の子たちもいたのですが、最低なことに邪険にしていたように思います。ひどいですね。
 でも、小学四年生の時に時流が変わりました。私が本格的に勉強ができるようになったのです。どういうことかというと、テストやプリントでほとんど満点、授業ドリルもすごいスピードで終えるものですから、授業中の課題を解き終えると、先生から「読書をするか、ほかに終わった人の丸付けをしてね。分からない人がいたら、教えてあげてね」と言われることが増えたのです。
 すると、私が憧れていた女の子から、算数の文章題を教えてと声を掛けられました。嬉しくてうれしくて、本を放り出して、その子の席まで飛んでいきました。私は一生懸命に割り算の文章題の解き方を教えました。その子のほかにも、似たような問題で分からないところがある男の子や、私に意地悪した女の子がわらわらと集まってきました。「教えるの上手いね」と言われました。
 すごく気持ちがよかった。人気者になれた気がしました。
 これが、だんだん授業でよく見る光景になってきました。すると、憧れの女の子たちの一部から、「宿題を教えてほしい」とお声がかかるようになりました。宿題をするのは放課後、つまり放課後の遊びのお誘いを頂いたのです!
 憧れのグループの子たちに、認めてもらえたような気がしました。その子のおうちにお邪魔して、宿題を終えたら一緒に遊びました。夢にまで見ていた光景で、私は酔ってしまいました。

 ここできっと、私はクラスで勉強が一番できる事の副次的な効果「みんなに頼ってもらえる」の味をしめたのでしょう。
 5年生6年生の時にはまたひと悶着あって憧れの一軍グループとは疎遠になってしまいましたが、相変わらず勉強はできました。私はあの子たちより頭いい、と何を言われても強気でいられるようになりました。成績順位は人間関係の優位性に役立つと分かってしまったのです。あの時の気持ちよさに、私は取りつかれたのだろうと思います。

 中学受験をして、地域の中高一貫に入りました。そこでは、もといた塾の成績のうわさが独り歩きして、「ポイシーはトップレベルに頭がいい」という認識が広まっていました。実際は良くて15位前後。トップ10には程遠い学力でした。私以上に頭がいい人はもっともっとたくさんいたのですが、私はこの学校でも一番の頭がいい子になろうと、必死に勉強しました。睡眠も削りました。東大に入って、みんなから尊敬されるのだ、と息巻いていました。実は、マンガと出会ってしまったのはこの時期なので、しょっちゅう誘惑に負けては「だめだダメだ」と自分を責めました。
 そんな中学時代のガタが、高校生になってからきました。成績順位は下がりつづけ、勉強と漫画と睡眠のどれも捨てられず、高2で部活をやめてしまいました。それでも、高校三年で特進クラスから外れました。すごく絶望しました。でも、不思議なことに、成績が下がっても友人ができました。ここで、「おや?」と思い始めました。
 また、中高においては学年に一人親友がいて、その子がいる安心感で人間関係において精神的に支えられてきました。彼女には感謝してもしきれません。

 そしてなんだかんだ、かつてなめ腐っていたそこそこの大学に滑り込みで合格しました。いざ入学してみると驚いた。
 ありえないほど素晴らしい人たちばかり。私はぎりぎり合格したので大学では私より頭のいい人たちばかりだったのですが、わからないことを教えてもらってばかりなのに仲良くしてくれました。何かを教えられない私を、見放さないでいてくれる人がこんなにいたのかと、目が覚めるような思いでした。

 でも、大学の就活と同時に、ゼミが始まりました。ゼミで、私は圧倒的に劣等生でした。発言は的を射ず、先生の話が全然理解できない。毎週悔しくて、やらなきゃやらなきゃと教科書を読むもわからず、気づけば眠ってしまう。コロナ禍でゼミ以外の人との交流がほとんど絶たれ、ポンコツな私を見放さないでいてくれる人たちと話す機会も減りました。いつの日か、失敗続きの就活もストレスに加わり、私は本当にダメな人間だと思いふさぎ込むようになりました。

 けれども、コロナ禍が長期化するにつれて友人から「会わないか」「話さないか」と声をかけてくれるようになりました。一緒に話すと、一気に自分が認められるような気がしました。ある時、ゼミの同期に、「私は何を言ってもダメだし聞いてばかりで何も提供できない。ごめんね…」と劣等感を打ち明けました。

「え?マジで言ってる?」と返されました。そんなことないし、それで悩んでたの?とあっけからんとして、「発言とか積極的にしてくれてるだけで役に立ってるよ」と言ってくれました。泣きそうでした。

 こんな歪み方をしたのは、「成績が良くなければ人は私を認めない」という思い込みによるものです。いや、思い込みというには割と事実なのかもしれません。それでも、できない奴は嫌われる、という原理に支配されすぎていました。そして、その原因は小学校の「勉強を教える事で仲良くなれた経験」にあったのでしょう。無意識にこの経験を引きずっていたことが分かり、一気に肩の力が抜けました。

 成績という結果がでなくても、私が頑張っている過程を見てくれている人たちは、私を見捨てません。ていうか、友人たちをそんな人間であると無意識に思っていたことがむしろ申し訳ないくらいです。

 私の大事な人たちは、私を大事にしてくれる。勉強という価値に寄ってきた、小学校の子たちとは違うのです。

いい加減、今そばにいる人たちと生きよう。「頑張らなきゃ、頭良くならなきゃ」と目を真っ赤にしている小学生の私に、大丈夫だよ、と声を掛けました。

そんな大事なことに気付けた今、私は何でもできるような気がしてきます。

#一人じゃ気づけなかったこと

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