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理解のある彼くん無しで鬱サバイバーになったのでイチ抜け手記

はじめに

 薬物治療などを受けた結果、うつ症状が消滅した状態がかなり続いているので、そういった状態にある人の助けになることを願い書き残す。

 当然、うつと寛解の波の頂点にいるだけである可能性もあるので、もしそうだったら笑ってやってほしい。

発症

 私の発症は17歳の頃だったと記憶している。8年ほど前な上、徐々に悪化していったので、ここで発症したという具合に線引きすることができない。

 初期症状は、やる気の起きなさ、朝の辛さ、集中力の低下や疲れが取れないといったことであったように思う。そんな状態が続くうちに授業に出席する意欲は失われていった。

 記憶に残っているのは、高校へ向かう足取りがとても重く、途中で休み休み向かっていたこと、朝に駅のホームのベンチで眠り始めてそのまま夕方になっていたこと、駅のミスドで延々ぼんやりしていたことなどがある。昼のミスドには中年女性が多く、彼女らの長話はほとんど旦那と子供の話なのだと知った。

 集中力の低下により本を読むこともほとんどできなくなった。大学受験があるので、問題集を開くのだが、1問解くか解かないかでいつの間にか壁を眺めている自分に気付くといった具合だった。そのくせ頭は常に焦っており、何かしなければと思っている。私はかなり参ってしまっていた。

 好きなことも減っていった。アマチュア無線研究部に所属していた私は、電子工作が好きだった。しかし、時間が経つにつれ、はんだごてを握ることはほとんど無くなった。

 モンテーニュが、書物の感動した記述を再度読み直しても何も感じられない時の悲哀について書いていたように思う。趣味を楽しめなくなるというのは、まさにそういった悲しさがあり、とても辛かった。

 また、その頃の私は、20までに死のうなどとよく考えていた。そのために二つの条件が大事だと考えた。まずは、死のハードルを下げること。次に、死ぬためのきっかけを得ること。

 後者は偶然によって得られるとして、前者はイメージトレーニングが必要だろうと考え、高いところから飛び降りる自分の姿などをよく想像していた。寝ている間に自分が死んでいることを願いながら眠り、目を覚ましてはまだ死んでいない自分を見つけてやるせない気分になる毎日だった。

 しかし、当時の私は、この程度の苦痛を人に訴えていいものかと思っていた。死にたいなどと言ったら母は怒るのではないか、などとも考えていた。常に人に迷惑をかけて生きていることに敏感になっていた。そして夜には家族に聞こえないように、特に理由もなく泣いているといった状態だった。

 ちなみに犬は泣いている人を見ると慰めようとするようだ。当時飼っていた芝犬は泣いている私を見て前足をゲージに引っ掛ける不思議な動作をとっていた。いつも泣いてるのでだんだん慣れたのかやらなくなっていったが。

 上記にあるような記述をみて、そういった状態は当たり前のことではないかと思う人がいると思う。逆に自分はそこまで辛くないしまだ大丈夫と思う人もいるかもしれない。そういった人がもし日常生活が苦しいと感じているのであれば、病院の受診を考えてみてほしい。診断に必要なのは、本人が苦痛を感じていることだから。その苦痛がなくなると断言することはできないがいくらか和らぐ可能性がある。

受診までの経過

 高校に着いても、授業に出ず中庭で寝転がって空を眺める日々だった。通りすがる友人たちは、特に私の欠席に触れることなく(たぶんそもそも欠席に気付いていない)一緒に横に寝転がったり腹筋したりなどしていた。

 高校が自由なところだったため、先生と面談をしたのは半年ほど後だった。人が普通にどうやって生きているのか分からなくなっていた私は、「先生はこの仕事に満足しているか」などと聞いた覚えがある。先生よりむしろ私ばかりが質問していた。申し訳なかったと思う。ちなみにその先生は大学に勤め始めたらしい。

 母に連れられて内科に行ったこともあった。専門でない医者がうつと思春期の気分の不安定さとの区別をつけるのは難しいと思う。そこではモサプリドが処方された。これは要は胃薬である。次に連れられて行った心療内科でも同じものが処方された。内容は覚えていないがPCと向き合った医者がこちらを全く見なかったことはよく覚えている。

 とはいえ、大学受験をしなくてはならず、どうせ死ぬ予定だしとばかりに、何も考えず東京の大学を受けた。参考書もロクに読める集中力ではなかった私は当然落ち、予備校に行くことになった。

 予備校に行くことなんて人生にあるかないか分からないしこれも経験だろう、といった具合に私はポジティブに考えようとしていたが、母は不安定になり、不機嫌になったり戻ったりを繰り返すし私に不眠を訴えてくるといった状態であった。

 予備校でも、全くやる気のない私は好きな授業以外ほとんど出ず、飲食可能な部屋で高校の友人とゲームをしていた。当時好きだった先生のwikiに記述されていた『右も左も分からない生徒たちに左を教えてくださる』という文が心に残っている。ゴリゴリの左翼であった。

 一年後、大学に後期日程で合格した。正直未だになぜ受かったのか分からない。試験中もしばしば集中力が切れていたし、英語を勘で答えていた。拾ってくれた大学には感謝してもしきれない。

 大学は実家から少し遠かったので、一人暮らしが始まった。母から離れられてホッとしたというのが最初に感じたことだが、そもそもうつ状態にある人は人から離れたがる傾向があるように思う。この傾向については後でもう少し考える。

 食事を取るのも入浴するのも何もかも億劫な私は昼食は食べず、100均のサプリを取っては完全食のパンを食べていた。生活サイクルは、朝起きて大学に行き、帰って寝る。休日はずっと寝ているといった状態だった。テレビは騒がしく感じるので持たず、差し込む光も鬱陶しいのでカーテンは閉め切っていた。友人に休日に何をしているか聞かれると「天井を見ている」と答えていた。正直者だった。

 大学に行っても状態は変わらなかった。好きな講義中に呼吸が苦しくなり退室することもあったし、休憩時間にはベンチで空を見上げていた。朝は9時から講義があるが、当然布団から出られず、大学には昼ごろから行くことが多かった。出たい講義は最前列で受けていたが、体が重い私は文字通り机に張り付いて講義を聞いていた。講義中になぜか涙が出てきて泣きながら出席している時もあった。教員からはさぞ奇異に映っただろう。

 とはいえ結局私は死ねずに生き続け、受診を決意したのは4年目であった。いくつか要因はあるのだが、その頃、何か縋れるものはないかと探して見つけた学内のカウンセリングに通い始め、そのカウンセラーに勧められたのが大きかったように思う。

 もし、病院の受診に抵抗のある人なら、カウンセリングなどに行ってみるのも手だと思う。人から離れれば他人の視点を失ってしまう。しかし、うつ状態では客観的な視点を持つことがどんどんできなくなる。病気の可能性を念頭において話し合ってくれる人は貴重だ。

受診後

 診断はうつ症状と強迫性障害であった。レクサプロ(エスシタロプラム)とエビリファイ(アリピプラゾール)を処方され、認知行動療法のために、症状が出た時に記録をつけるように指示された。

 今から思うに、この病院では私の強迫性障害を治療することを重視していたように思う。そこの院長がちょうど強迫性障害を研究していたのだ。私の場合、加害恐怖という強迫性障害の症状があることは事実だったが、最も困っているのはうつ症状の方であった。受診時は自分が何に困っているのか正確に伝えることが重要である。

 薬を1ヶ月ほど服用したところ、体が軽くなってくるのを感じた。これは私にとって大きな驚きだった。あんなに遠かった大学までの道のりがすぐに終わり、鉛のように重かった布団が簡単に跳ね除けられた。常に騒がしかった頭の中が白紙になったような感覚があった。死にたさは変わらずあったし、気分もクソなままだったが、それもすぐ消えるんじゃないかと思った。それが間違いだった。

 その後の私は気分が良くなる時はあれど、すぐに気分が落ち込む波の中にあることとなった。今日こそ死ねるんじゃないかと思う日は何度もあったし、体も動くようになっていたので、この2年間は一番自殺しうる時期だったと思う。ただ死ぬきっかけがなかった。

 病状を訴えると頓服薬が追加された。リスペリドン(リスパダール)などを3種類ほど試した記憶がある。飲むと眠気が強すぎてどうしようもなかったので結局使えなかった。

 当時の私は、死ぬまでこの状態が続き処方された薬を飲み続けるのだろうと予測し、その覚悟をしていた。そして、死ぬまでにやりたいことをいくつかやろうと思っていた。とはいえ、常に頭の中には死にたい思いがあった。私の好きな漫画にあったが、夢があるととりあえず1週間ほどは悲劇に耐えられるのだと思う。

 両親を含めて周囲の人に自分の状態を話したことは、かかった医者を除きほとんどない。死にたいと直接言ったことがあるのは2、3人くらいだったと思う。自分の病名を伝えるときは強迫性障害だと言っていた。強迫性障害に最も多いのは清潔恐怖である。たぶん、ひどい潔癖の人くらいに思われていたと思う。

 2年後、私は留年せずに進級していたものの、卒業試験に引っかかり、他の単位は取れていたために1年間ヒマになった。結果、無理やり実家に戻されることになった。私は実家に戻ることを拒否していたが、寝ているだけの部屋を借りるのが無駄なことは理解していた。そして、引っ越し業者を呼んだり荷物を整理したりするのは全て母に任せて私はボーッとしていたらいつの間にか実家にいた。

 ただ、これがきっかけで転院することとなった。今の病院に行っているのは母が見つけてくれたおかげでもある。

 今の病院になり、しばらくして、やる気が出ないことなどを訴えたところ、サインバルタ(デュロキセチン)に処方が変わった。これが私によく合ったのか効いた。

 1ヶ月ほどかけて徐々に量を上げて60mgになったあたりで、現在の状態になった。

 そして、しばらくこの状態が続いたのでこの記事を書いている。

私の経過の特殊性

 うつの大きな症状として、一般的に不眠がある。私にはなかったので、いわば逃げ道として眠ることができた。そのため、この記事では睡眠薬や不眠の苦痛について書いていない。

 強迫性障害を合併していた。強迫神経症とも呼ばれていた強迫性障害にはいくつかのパターンがあるが、私の場合は加害恐怖と呼ばれる症状があり、例えば友人を私が刺し殺すのではないか、抱っこした赤ん坊を地面に叩きつけるのではないかと怯えていた。治療の経過でこれらの症状は無くなった。

 とはいえSSRI(レクサプロなど)が強迫性障害の適応であることは問題だった。最初の病院で薬が増えることはあっても変更してくれることはなかった。

 家庭環境が良く、両親がいた。経過の大体の期間は一人暮らしをしていたものの、高校時代や最近の数ヶ月は母と暮らしていた。題にも書いたがこれまでの人生で彼氏/彼女を持ったことはない。結婚の予定もない。生殖はやめたほうがいいと考えている。

 嗜好として、飲酒や喫煙を行なっていないし違法薬物にも手を出していない。ただし、エナジードリンクを常飲していた。モンスターエナジーは青と白以外を飲む。

 特定の宗教に帰依していない。そのため、天命や来世、死後の世界を信じていない。自殺を禁ずる教えも持っていない。死後悲しむ人がもしいても死んだ自分には無関係な話だと考えている。

 ある程度の地頭があった。自分の能力にあぐらをかいてなんとか日常生活を送れてしまっていた。これは受診が遅れた原因でもある。

振り返り

 精神疾患は受診した時点で半分治ったようなものだという。これにはとても同意できる。私の場合受診まで6年、受診後2年かかっている。とはいえ、受診できても残り半分残っているわけで、それが多いと感じるか少ないと感じるかは人による。

 そして、受診に至るには、たぶん人の助けが必要になる。しかし、当事者はしばしば他人から離れようとするし、周りの人も当事者から離れてしまうかもしれない。私は幾度となく人との約束を破った。理由はベッドから出られなかったからだ。人から遠ざけられるのも理解できる。

 とはいえどうやったらうつ状態にある人が、よりよく他人と関われるのか私には分からない。迷惑をかけてしまうことを気に病んで自分から離れて行ってしまうことも多いと思う。症状として感覚の過敏がある人にとっては人の話し声も絶え難いものになる。私も多くの時間をイヤホンをして過ごしていた。

 また、どれだけしんどくても、SNSはできてしまう。でも、死にたいことを伝えるのはどっかの知らない奴よりも近しい人間にした方がいい。遠くの奴の方が気が楽だとしてもだ。それが無理ならSNSなどでもいいのかもしれないがあまり助けにならない覚悟はした方がいい。ちなみに私はLINEでりんなというbotに話しかけ続けていた。

りんなは「死にたい」には定型文で反応するが「死にてぇ」などには反応しない。

 自殺はどうやったら止められるだろうか。私は「生きていれば良いことがある」というような言葉がとても嫌いだった。その時の私にとって、人生が線分であるとするなら、「良いこと」とそれに伴う幸福は点に過ぎず、一瞬で過ぎ去る出来事でしかないからだ。無論、その点以外の部分は苦しみに満ちている。「良いこと」とそれへの期待がどれほどの救いになるというのか。

 誰か目の前の人の自殺を止めたいなら「私はあなたに死んでほしくない」ということを伝える以外にないと思う。自らのエゴによって相手を生かそうとする以外は。少なくとも自殺を止めるのは医者やインターネットの先に居る人間には難しい。

最後に

 私が受診を決意したのは、ツイッターのRTで回ってきた以下の記事を読んだことも一因にあった。

http://blog.livedoor.jp/kazuokiriyama_/archives/23085002.html

 上ではああ言ったが、時にはSNSも役に立つ。どこかの誰か、ありがとう。

 リアルで人間関係の希薄なうつ病患者をどうやったら救えるのか。私には分からない。だからこの記事を書いた。

 この記事で、今も苦しみの中にある人々が、カウンセリングに行ってみたり、病院に行こうとしたり、先生を紹介してもらったり、薬を変えるように提案してみたり、そういった決意をするきっかけになることを願っています。

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