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280日のマリア

[あらすじ]
 まひるは、大阪で新聞記者をしている。入社13年目の中堅の記者だ。
一回り年上で、上司の杉浦と現在、恋人関係にある。杉浦は東京に妻と娘を残して単身赴任だった。
 まひるは、記者によくある記事が書けなくなるスランプに陥ってしまった。出口が見つけられない中、それを助けてくれたのが杉浦だった。
 そんな折、杉浦の松山への転勤が決まる。そして、まひるは自身が妊娠していることを知り……。


   ※
 月曜にしては珍しく静かで平和な朝だった。南大阪支局には、まひると後輩で契約社員の沙也加のふたりきりだった。他の同僚たちはみんな出払っていて閑散としていた。

 覚せい剤取締法違反の罪に問われた元アイドルの判決公判があり、その傍聴券を求め、同僚たちは裁判所の行列に駆り出されていた。くじ運の悪いまひるは電話番要員を兼ねて支局で留守番をしている。

 まひるが勤務する新聞社でも主に地方版の紙面を担当するこの支局は比較的のんびりしている。町ネタを扱うことが多いので、もちろん締め切りはあるが、一分一秒を争うという緊迫感はない。今ではこの雰囲気にすっかりなじんではいるが、この部署に異動が決まったときは心中穏やかではなかった。キャリア志向というわけでもないが、支局への移動は栄転とはいえない。

 大学を卒業して入社し、今年で十六年目を迎える。いつの間にか会社では中堅と呼ばれるベテラン記者の仲間入りをしていた。
 まひるはこれといって急ぎの仕事がないのをいいことに、LINEにかかりっきりになっている。既読になっているのに、全然返信がないのだ。既読スルーされている。おまけのようにまたひとつため息がついてでた。

《話があるので時間を作ってください》と送ったLINEに対しての返事はまだこない。まひるは先週末に喧嘩した恋人とのことを引きずっている。普段は楽天的な性格だけれど、今回に限っては珍しく思い詰めていた。別れ話をきりだそうとLINEを送ったのだが、知ってか知らずか、そのLINEの送信先である恋人は一向に返事をよこさない。まひるのイライラ指数は針が振り切れそうなぐらいMAXに達していた。なげやりな気持ちの中、八割方は別れを決めている。問題はどうやって別れ話を切り出すか、なのだ。

「まひるさん、ため息ばっかりですね。その眉間のしわ、ヤバイですよ」
 パソコンの画面から目を離さずに沙也加がいった。彼女のデスクトップには@COSMEの口コミ化粧品ランキングが映し出されている。沙也加はすっぴんを見られるなら裸を見られた方がましだと豪語するぐらいのコスメオタクで、流行ものに敏感な今どきの美人だ。

 『VoCE』や『美的』のようなコスメ雑誌の編集者になりたくて、出版社に絞って就職活動をしてきたものの、キビシイ就職戦線で玉砕し、就職浪人するならば、と、この読産新聞社の求人をみつけてやってきた。半年間、産休で休んでいる後輩のゆかりより年が離れすぎているせいか、ずっと好感が持てる。彼女はゆかりの産休の交代要員なのだ。

 さすがに年齢が一回りも違うと、どう頑張ってもジェネレーションギャップを感じずにはいられない。
 それでも彼女から得られる情報は役に立つことが多く、まひるは密かに彼女の存在に一目置いている。

「ねぇ、沙也加ちゃんってLINEの返信はどれぐらいでかえすん?」
「そりゃ、人によりますって。彼氏ならすぐ返すし、友だちだと時間ある時にでも返すかな。あと内容にもよりますね。飲み会の誘いだったら即返しますもん」
「そっかぁ」
「相手って男でしょう?」

 まひるは、小娘の沙也加に自分の心を見透かされたのが恥ずかしくて、話を変えようと慌てて話題を探した。

 案外、沙也加は他人に無関心なようにみえて、そうではない。しっかり状況を把握しているのだ。この部署にやってきて、すぐに人間関係を把握した。誰が有能で無能か、誰がフィクサーで、放送局なのか、すっかり頭にはいっているようだった。それはまるで犬と人間の主従関係と似ている。動物的な勘というか、野性的本能というべきなのか。

「最近ね、学生時代の友だちが起業したんやけど、その子のLINEにストレスを感じてるねん」
「起業って会社ですか? もしかして営業LINEですか」
「会社っていっても自分ひとりらしいねんけど。プリザーブドフラワーとパステルアートを教えたりする教室をはじめたらしいねんけど、毎回LINEで教室の開催日程を知らせてくるねん。それもレッスン代とかもご丁寧にかかれてるんよね」
「プリザーブドにパステルアートって、なんか手っ取り早いな。いかにもOLが考えそうな安易な起業ですね」

 大学時代からの友人である香世は、フラワーアレンジメントとパーソナルカラーの資格をとり、花と色に関する教室を運営する会社を立ち上げたばかりだ。

「今月のレッスン日ですってLINEがくると、無言の圧力を感じるんよね。面と向かって、いかないっていいにくいし」
「だいたい身内とか友だちに営業かけるのは、反則ですよ。身近な人に頼むようになったら最後。それって営業の鉄則ですよ」
「沙也加ちゃんは若いのに、なんか言葉に重みがあるなぁ」
「結構、私も苦労してますから。友だちに美顔器と分譲マンションと保険を売りつけられそうになりましたもん。疎遠になってる同級生からの電話はセールスか結婚報告かのどっちかだっていいますけど、案外あたってますよ、アレって」

 沙也加の人をみる能力はこんなところから培われているのかもしれないとまひるは思う。

「レッスンなんて一回参加すると、途中で止められなくなっちゃいますよ。友情とビジネスは切り離さないと後々しんどいですよ」
「ほんまやね」

 そしてその起業家の香世は今、離活中である。つまり夫と離婚調停中なのだ。友人の中で一番乗りで独身生活にピリオドをうった彼女の結婚式こそ、まひるにとって生まれて初めて出席した記念すべき披露宴だった。

 まひるたちが大学を卒業した年はバブル崩壊で就職氷河期と評され、同級生でも就職浪人する者が続出した年でもあった。そんな中、香世は厳しい競争に勝ち進み大手損害保険会社に入社した。仕事に生きる、なんて息巻いていたのに数年で社内結婚を決め、あっさり寿退職してしまった。

 まひるは彼女の披露宴で花嫁でもないのに感極まって泣いてしまったことを思い出した。両親への手紙や花束贈呈の時につい自分に置き換えてしまい思いっきり感情移入してしまったせいだ。それぐらい香世の結婚は当時のまひるにとって印象的で、かつ、衝撃的な出来事だった。あの頃はまだ、結婚式を挙げて親孝行しようと考えていた。あのピュアな涙を返して欲しいと、まひるは思う。最近では、ドライアイのせいだけではなく、少々のことでは泣けないぐらい心が枯渇している。そもそも、香世の離活の相談にのったのは、まひるだ。結婚してからずっと専業主婦だった香世にまずは起業し社会的自立をした方がいいと勧めたのも自分だ。

「彼女に離婚して自立しろってけしかけたん私やから責任感じるんよね」
「だからって先輩が最後まで面倒みなきゃあかんってわけでもないでしょう」
 デスクに置いていたスマホがブルブルと音をたててふるえて、止まった。
「またLINE」

 噂の香世からだった。今度、共通の友人である雪乃の誕生日会をしようという内容だった。相談にのって以来、すっかり交流が深まってしまった。もしかしたら学生の時より親しくつきあっているかもしれない。仲良しグループの中でも香世とは二番手、三番手の仲だった。なので一番の親友という訳ではなかったはずだ。

「LINE、エンドレスなんよね」
「ああ。いますね、そういうタイプの人」

 仕方ないので、雪乃と相談してみる、とかえした。しばらくは香世とは距離を置いたつきあいにしようと考えていた矢先だったので、三人で会うのは気が重かった。離婚の相談も教室運営についても、うんざりだ。今はそれどころではない。自分の恋愛の危機だというのに、悠長に他人の相談になんてのっている場合ではない。また、ため息がひとつでた。

「もう、ため息ひとつで幸運が逃げていきますよ」
「あァーあ」

 また、まひるの幸運がひとつ逃げていった。待ち人からのLINEはまだこない。

 恋人である杉浦からやっとLINEがきたのは夕方になってからだ。はやる気持ちで、LINEの画面を開けると《今夜時間とれそうです》という素っ気ない内容だった。待たされ過ぎて、こんな愛想なしの返事でさえ満足している自分のおめでたさにまひるはあきれる。ふと、別れ話をきりだすつもりだったことを思い出した。
 
 LINEがこないことにやきもきしていたので、当初の計画をすっかり忘れてしまっていた。既に怒りは半分以上収まっていた。いつもこんな感じで、相手のペースにのせられてしまう。あかんやん、と自分につっこみをいれた。

 まひると杉浦は福島駅の高架下の商店街の奥にあるお世辞にもきれいな店構えだととはいえないうどん屋兼居酒屋のような店に入ることにした。
「おいおいそんな顔しなさんな。まあ食ったらわかるからさぁ」
 と杉浦はばつの悪そうな顔をした。どうやらまひるは知らず知らずのうちに「こんな店で?」と無言の抗議をしていたらしい。まひるは感情が顔にでるタイプなのだ。よくいえば素直、悪くいえば、馬鹿正直な性分なのだった。

   ※
 狭い店の割にカウンター越しにみえる厨房には若い店員が三人と店主と思われるおやじさんがそれぞれの持ち分の仕事をこなしていた。その他にホール係として白髪交じりのショートカットの女性とまだ三十代そこそことおぼしき女性がいた。

「いらっしゃいませ」とあちこちから言葉が飛んできた。
 厨房からうどんをゆでる湯気と卵焼きの香ばしいにおいが、空腹だったことを気づかせてくれた。
「杉浦さん、よくこられるんですか?」
「ああ、昼とかふらっと。ここのカレーうどん絶品だよ。後で食べたらいいよ」

 テーブルのはしに立てかけてあるメニューから目をはなさずにいった。注文を聞きにきた若い方の女に、
「とりあえずビールね。あと空豆ある? それから厚焼き卵と串カツ盛り合わせね」
 と空腹を紛らわすみたいに、たたみかけるようにオーダーをした。
「ごめん、今日は空豆ないんやわ」
 ちょっとだけ申し訳なさそうな表情をうかべた女が、「ビールとグラスふたつ」と大声で厨房にむかって叫んだ。

「じゃあポテトサラダちょうだい」といってメニューをもとの場所に押しやりながら杉浦が続けた。それから今、やっと気づいたというように
「あ、なんか欲しいのんあったら頼んだらええよ」
 といってメニューをまひるに渡す。両面になっていて、片方にはうどんと丼のメニューがあり、反対側には一品料理が書いてあった。

 まひるは無言で、メニューをもとあった場所に戻した。
 店内はまだ時間が早いせいか、隣のテーブル席には、やや年配のカップルとちょっと離れた席にサラリーマンの三人組がいるだけだった。

 まひるは昼間にシミュレーションした別れの言葉を頭の中でぐるぐると組み立てていた。別れたいんです、別れてください、もう嫌いになりました。どれも名台詞とはいえないと思う。それに別れの言葉としても何かが欠けている気がしてしまうのだった。ふたりの間に沈黙が流れるたびにまひるの頭の中にはチラチラと別れの言葉がよぎる。

   ※
 杉浦がまひるの部署に支局長として配属されてきたのは、今から三年前だった。ちょうどまひるが仕事のスランプで苦しんでいた時だ。記者が一度は経験するというこのスランプに入社十三年目のまひるがすっぽりと陥ってしまったのだった。先輩記者は、(あんた遅すぎるぐらいやで。麻疹みたいなもんやからそのうち、なおるって)と笑ってまひるの肩を叩いた。

 でも、まひるにはこの長くて暗いトンネルが到底、終わるようには思えなかった。書けない苦しみは記者としては致命的だった。だからこそ、記者がかかる職業病なのだろう。今まで大量の記事を書き続けてきたはずなのに、パソコンにむかうと胸が苦しくなって動悸がし、言葉が紡げなくなった。パソコンにむかい何度も打っては文字を消す、そんな作業の繰り返しだった。虚無感に押しつぶされそうになり、いよいよ(自分は記者にはむいてないのかもしれない)とストレスと不安がピークに達し、とんでもなく思い詰めていた時、まひるを野球に誘ったのが、支局長として赴任したばかりの杉浦だった。

 まひるより一回り年上の杉浦は、管理職らしくなくて、気さくでざっくばらんな人柄だった。まるで部下に「ちょっと一杯飲みに行こう」と居酒屋に誘うような気軽さで、まひるを京セラドームのナイターに誘った。

 地下鉄を乗り継ぎドームに着くと既に試合が始まっていた。人がまばらなチケット売り場で杉浦はネット裏の指定席のチケットを二枚買った。
 売店でビールとたこ焼きを買い、はやる気持ちでふたりはスタジアムの階段を駆け上がった。

 視界が一気に広がり、煌々と照らすライトの光と芝生のみどりが目にしみた。まひるは、どっとどよめくスタンドの歓声に体ごと包まれた気がした。バッターボックスに視線を移すとローズがバッターに立っていた。

「タフィー!」
 まひるはメガホンなしで、思わず叫んでいた。近鉄時代からずっとタフィー・ローズが好きだった。
 カーンという小気味いいドームならではの乾いた音をたてて、白球はゆっくり放物線を描きながらレフトスタンドの方へ消えた。
 と同時にさっきにもまして歓声がひときわ大きくなった。電光掲示板はホームランを記録していた。

 まひると杉浦は手をとりあって、子どもみたいに無邪気に喜んだ。その時だった。まひるの頭の中のもやもやしたものがすっと消えていくような気がした。久しぶりに感じる晴れやかな清涼感でもあった。

 トンネルから抜けたのは、今から考えるとこの瞬間だった。それからはパソコンにむかうと今までどおり自然と手が動くようになった。

 まひるは男兄弟の中で育ったこともあり、男勝りな気性で小学生の頃から地元のリトルリーグで腕をならした。時代が時代なら神戸ナインクルーズの女性投手のように関西独立リーグで活躍する選手も夢ではなかったかもしれない。いつしか、まひるの夢はプロ野球選手からスポーツライターへとかわっていった。入社してからもスポーツ記者を希望したけれど、なかなか、かなわなかった。そんなことなんて、まひる自身、すっかり忘れてしまっていた。ここ数年、忙しさにかまけて大好きな野球観戦にスタジアムまで足を運ぶこともなかった。

 それからというもの、まひるは憑き物が落ちたように、また書けるようになったのだった。

   ※
「はい、お疲れサン」
「お疲れ様です」

 お互いのグラスにビールを注ぎ合うと、ふたりは乾杯した。まだ心のわだかまりがとれないまひるを尻目に、杉浦はいっきに飲み干し、今度は手酌で自分のグラスにビールを注いだ。

 口のまわりには白い泡のひげができていた。さっきからずっと仏頂面だったまひるはそれを見て、不覚にも相好を崩してしまった。杉浦は(何、何?)と、笑われる理由がわからないようだ。

「杉浦さん、ひげが出来てますよ」
 慌てて、杉浦はお手ふきで口をぬぐった。
「さあ、食べよう食べよう」

 テーブルにはまだ白い湯気があがっている出来たての厚焼き卵と小鉢にはいったポテトサラダと串カツの盛り合わせが並べられていた。

「串カツの盛り合わせって、食べるまで中身がわかんないですよね」
「それがまたいいんちゃう?」
「そうですか? 食べたいものだけ食べたいなぁ。私は」
 ふたりは「せーの」で同時に串をえらぶと、ソースをつけて口に入れた。
「あ、私のは牛肉でした」
「こっちも同じ、やな」

 結局、串カツは全部牛肉だった。

「なんか、騙された気がして悔しいな」
「まあ、そういうこともあるやろう」

 杉浦はまひるとつき合うようになってからも一切気取った店に連れて行ったりはしなかった。女性が好むようなフランス料理だのイタリアンのお店などには、興味がないようだった。
 
 そういう店には女友達といくことが多いので、まひるもその方が都合がよかった。肩肘張らないつき合いに、お互い満足していた。

 杉浦には東京に家庭がある。今は単身赴任で、独身気分を謳歌し、毎日飲み歩いている。定時が過ぎると、さっさと帰っていく。遅くまで管理職が残っていると部下たちが仕事をやりずらいというのをちゃんと心得ている。それでも徹夜して、仕事をこなす時もあるようで、早番の日に出社すると、応接のソファーで眠っている杉浦を発見することもしばしばあった。ちゃらんぽらんなようだが、仕事に関してはしっかり責任を果たす男なのだ。

 杉浦から妻や子どもが大阪に遊びに来ているという話を聞いたことがない。そもそも彼の口から家族の話題がでるのを聞いたことがなかった。杉浦と付き合い始めたばかりの頃は、さすがに気になり社内の情報網を駆使していろいろと情報収集したものだ。

 でも聞こえてくるのは、杉浦が家庭人としては失格者だということだった。記者という仕事柄、離婚する者が多いのも現実で、その上、転勤も多く、家族にかかる負担も大きい。かつての杉浦は仕事人間で、一切家庭を顧みなかったという。

 中学校にあがったばかりの娘と妻はいつの頃からか転勤にはついていかなくなり、家族で顔を合わすのは盆と正月ぐらいになっているそうだ。妻は夫のことは放任で、娘の教育に一生懸命であるらしかった。娘は有名音大の付属中学に合格し、ヴァイオリン科に通っているらしい。なによりも情報すべてが伝聞であるところが哀しかった。

 家庭のことは、面と向かって本人に聞きにくく、結局のところ杉浦が家族のことをどう考えているか、はたまた、まひるのことをどう思っているのか、よくわからなくて度々それは、まひるを不安な気持ちにさせる。

 勿論、結婚を約束したりはしていない。一緒にいるのがお互いに楽な関係であるというのは共通の認識であるのだけれど。とはいえ、今が楽しければそれでいい、と割り切れるほど若くない。三十歳前後の結婚への焦りはないものの、出産への焦りは深刻だ。

 最近では婚外出産も選択肢として考えている。非婚の母もありだと思う。それはたぶん、意識していないつもりでも心のどこかで杉浦をパートナーに想定しての将来設計なんだと冷静なまひるは分析する。杉浦は子どもを認知してくれるだろうか? それ以前に彼の子を身ごもることを許してくれるのだろうか? それさえ解決すれば、法律上の夫婦関係なんて必要ない。事実婚で十分だと思う。

 追加のビールを飲み終え、料理もきれいに平らげると、
「さぁ、うどん頼もう。シメのうどんが最高なんだよな」
 と酔いが回り少し赤く血色がよくなった杉浦がはしゃぐ。すっかりまひるの《話があるので時間を作ってください》というのを忘れているようだった。いや、多分、本当は気づいているはずだけど、気づかないフリをしてやり過ごそうとする杉浦の作戦勝ちなのだ。

 それでもまあ、いいかと思う。こんなうどん屋で別れ話もあるまい。ちょうどまひるの正面の壁には『当店は自家製のうどんです。一日生地を寝かしています。そのため、茹であがりに少し時間をいただいています』と書いてあった。つるつるしこしこの自家製のうどんが無性に食べたくなった。気分を取り直すと

「私、カレーうどん」
「じゃあ、俺鍋焼きにしよ」
 杉浦は店員の女を呼びオーダーした。

「人にカレーうどん勧めときながら、それどういうことなんですか?」
「だって今日の昼もここのカレーうどん食べたしな」
「どんだけうどん好きなん」
「香川出身やけん」

 ふたりは笑って仲良くうどんをすすった。まひるのカレーうどんには大きなエビのてんぷらが二本ものっていた。

 結局、杉浦に別れ話を切り出すことはなかったし、また杉浦から「話って何だったの?」と聞かれることもなかった。こんな時でさえ、満腹感は胃袋以外のものも満たしてくれるんだ、とまひるは変に感心してしまう。杉浦は大通りにでるとタクシーを拾い、先にまひるを乗せ、自分も後から同乗した。運転手にまひるの住む町名を告げると目をつむり、車のシートに置かれているまひるの手をぎゅっと握った。

 単身赴任の杉浦はまひるのマンションに泊まることには躊躇しなかったが、まだ一度も自分の住まいに招き入れることはなかった。こんなところも杉浦との距離感を感じてしまう要因だ。いつまでたっても杉浦との間には見えない壁があるようだった。

   ※
 つぎの日の朝、ふたりは一緒にまひるのマンションを後にし、時間をずらし別々に出勤した。夜をともにした翌日はいつもまひるは落ち着かない。少しでもふたりを結びつける手がかりを残していないかと入念にチェックする。いくら自由がみとめられ男女問題に寛大なマスコミ業界とはいえ、社内で不倫が発覚して割を食うのはいつも女なのだ。男の浮気は甲斐性で女は私生活が乱れているとマイナス評価しか受けない。いつの時代も古い体制はかわらない。

 まひるは席につくとパソコンを立ち上げた。毎朝、香世のインスタをチェックするのが日課となっている。教室の様子や彼女の近況などが手っ取り早く把握できて便利なのだ。
『今日は四人の方がレッスンに参加されました。ひとりは学生の頃からの友人のY子。そして……みなさんとってもお上手でした(^_^)』
 最後にレッスン風景の写真がアップされていた。四人のOL風の女がテーブルで向かい合わせに座り、花と格闘している。画面をスクロールしていくと今度は作品を手に持ってみんなで記念撮影している写真の中に雪乃の姿をみつけた。

(あれ、雪乃?)
 そこにはやっぱり見覚えのある顔が笑っていた。雪乃に違いなかった。
 雪乃は堺筋本町にある総合商社のOLで、努力家な彼女は、数々の資格を取得し、大学卒業前に既に、通関士の資格さえも取得している強者だった。その他にも簿記二級やTOEICやITパスポートだのと現在も試験にチャレンジし、かなりの資格マニアだった。

 まひるが取材でデスクをあける日などは、時間が合えば彼女の会社の近くに出向いて、よくふたりでランチをしている。

 彼女が香世のレッスンに参加しているのは意外だった。彼女の口からレッスンのレの字も聞いたことがない。正直いってショックだった。裏切られた感が拭えない。つい先日ふたりでランチした時はひとこともそんな話はしていなかったはずだ。まじまじと写真を見直すと、雪乃の横に座っているのは、確か一度、飲み会で同席したことのある雪乃の同僚だった。どうやら友だちまで連れて行ったらしい。

 たぶん、雪乃はこのインスタの存在を知らないのだろう。本人もまさか香世のインスタに自分の顔写真がそのままアップされているとは思うまい。肖像権の侵害だ。

 まひる自身も偶然このインスタを見つけた。インスタライブでレッスンの様子を配信している。これを視聴すれば誰がレッスンに参加したか一目瞭然だった。大概、一回のレッスンでひとり、ふたりは知った顔をみつけることになる。友だちの輪で、レッスンが成り立っているのだ。つまり友人たちから支えられているのだった。

 香世は昔からそうだ。甘え上手で、放っておけないタイプの女の子だった。つい、守ってあげなくちゃ、とそんな気持ちにさせるオーラがある。結婚している時は夫に擁護され、今は友人たちに守られている。
 
 結婚する、しない、できる、できないの違いとは、このちょっとした部分なのかもしれない。そうとはわかっていてもまひるは『愛されキャラ』には、到底なれないと思う。香世を疎ましく思う反面、うらやましくもあった。

 まひるはまだ、一度も香世の主催するレッスンに参加したことがない。友人をサポートしてやらない自分の意地悪さとか、心の狭さにに嫌気がさした。それ以上に彼女の周りの友人たちが、こぞってサポートしてやることに何よりショックを受けた。

 もし、誰もサポートしてやらなかったらきっと自分は喜んで手をさしのべただろうと思う。消化できない心のモヤモヤした部分がどんどんまひるの中で増殖していく。

 誕生日会の返事をするのをやめた。

   ※
 朝の一件以来、心のモヤモヤが消えず、普段より仕事を早めに切り上げて家に帰ることにした。部屋にはいると浴室に直行し、バスタブに熱めのお湯をためた。

 肩までお湯につかると、勝手に『ウゥ』とも『アァ』ともつかないオッサンみたいな声がどこからともなく漏れでた。最近では、坂道を転げ落ちるように急スピードで、オッサン化しつつある。ビールを飲んで、ゲップしても恥じらわなかったり、時間がなければ駅のホームで立ち食いそばをオッサンたちと並んですする。出張帰りの新幹線ではビールと柿の種と週刊誌を買って乗り込むのが、密かな楽しみだ。
 そんな自分に抗えないでいる。むしろオッサン化する自分を心地よく感じてしまう時さえある。重たい荷物をひとつ、またひとつと下ろし身軽になる。オッサン化して何が悪いんだ。

 唯一女性に与えられた免罪符が子どもを生むことによって得られる産休と育児休暇だろう。結婚の予定もない自分には遠い世界の出来事のようだ。
 スクラブを手にとり、いつもより丁寧にマッサージし時間をかけて全身を洗う。浴室の鏡に映った裸体を客観的に眺めてみる。まだまだいけるやん。と思えてくる。

 風呂からあがると、一枚二千円以上する美白パックを顔に惜しげなく貼り付け、タイマーを十分にあわせる。沙也加に指摘された眉間のしわは、鏡をみるたびに気になっていたけれど、忙しさにかまけて放置していた。放置した日数分だけ、しわが深く刻まれてしまったように感じる。

 まひるの中にはオッサンと、ギリギリのところで女であろうとするレアな部分とが、やっかいな事に混在している。

 ピピピピピーとけたたましいタイマー音が、十分の経過を告げた。パックをゆっくりはがすと、中からプルプルになった素顔が現れた。どうやらパックの効果はあったようだった。眉間のしわも気にならない。瞬間的かもしれないけれど、消えていた。しわに効く、アンチエイジング効果のある五万円もする美容クリームを練り込むように顔に塗る。スチーマーも美顔器もヨドバシで買ってきたけれど、まだ箱に入ったままだ。

 ――自分のためにはお金も時間も使うけれど、たった数千円、たった二時間のレッスンにさえ参加しないだなんて、なんて友だち甲斐のないヤツなんやろうか
 でも、すぐ考え直す。

 ――私が助けなくても、なんとかするやろう
言い訳してみる。

   ※
 翌日、まひるは取材先に直行し、社に戻ると、待ってましたとばかりに物言いたげな顔の沙也加が、駆け寄ってきた。

「杉浦さん転勤するらしいですよ。それも松山に」
「松山支局?」
「ちがいます。カルチャースクールの方に出向です」
「どうして?」
「知りませんけど。ああ、今度の支局長どんな人やろう? 杉浦さん程、放任な支局長いてないやろうしなぁ」

 沙也加にとっては、杉浦のことより、後任の支局長についての方が重要な問題事のようだった。

 まひるは混乱して言葉がでなかった。誰が聞いても今度の杉浦の異動は明らかに降格人事だったからだ。それも新聞社が運営するカルチャースクールに出向だなんて。一体どうなっているのだろうか。

「杉浦さんは?」
「もう、朝からさっそく挨拶回りらしいですよ。なんか本人ウキウキしちゃってて。讃岐うどんが食えるとか、毎日道後温泉に入るんだとかって子どもみたいにはしゃいでますよ。支局には坊ちゃん団子送ってやるっていってましたけど。私、一六タルトがいいなぁ」

 まひるはわかっている。杉浦がはしゃいている時はかなり落ち込んでいる証拠だ。杉浦は空元気を絵に描いたような行動をとるところがある。アウトローなフリをして実は心が繊細だったり、何事にも動じない風でいて、チキンハートなところがあったり。そのアンバランスなところが杉浦の魅力なのかもしれないとまひるは思う。

 まひるは支局を抜け出して、スマホで杉浦の電話番号を呼び出しコールする。何度か、呼び出し音がなり、すぐに留守電につながった。いつだって杉浦は携帯にでない。まひるは小さく舌打ちし、《至急連絡ください》とLINEを送った。連絡を待つのももどかしくて、杉浦の居場所を探そうと思った。

 一刻も早く杉浦に連絡をとらねばならない。そして彼の話を聞かなければと、いてもたってもいられない気持ちを抑えて冷静に彼の立ち寄りそうなところを考えてみる。が、全く思い浮かばなかった。

 まひるはふらりと、この前の高架下のうどん屋に行こうと思い立ち、
「ランチしてきます。支局長から連絡あったら私の携帯に連絡頂戴ね」と沙也加に声をかけた。

   ※
 高架下はいつも暗くてひんやりしている。こういう場所は隠れ家にはぴったりだとまひるは思う。電車が通過するたびに、轟音が鳴り響く。外の世界を遮断するように、どの店もひっそりとした佇まいをしている。夕方はサラリーマンの憩いの場にかわるのに、昼間はまた違った趣をみせる。

 OK一番街という飲食店街をずっと奥に入ると、この前のうどん屋があった。周りの店は夜のみの営業が多いなか、この店は昼も営業しているらしかった。

 引き戸をあけると、正面のカウンター席に杉浦の後ろ姿を見つけた。

「杉浦さん」
「どうしたん? こんなとこまで昼飯食べにきたんか。さてはここのカレーうどんの虜になったんやろ?」

 とちょっと嬉しそうに、そして、この店のリピーターにしてやったぞという不敵な笑いを浮かべていた。深刻な表情だったらどう接してたらいいか、わからないと思っていたまひるは、肩すかしをくらって笑い顔とも泣き顔ともいえない表情を浮かべるしかなかった。

 ――いま、すごいブサイクな顔してるんやろうな
まひるは思いながらも杉浦の傍に駆け寄った。

「しゃーないな奢ったろ。最後になるかもしれんし」
「なんでそんなこというんですか」
「転勤の事、もう聞いたやろ」
「聞きました。だからここまで来たんですよ」
「なんか俺、怒らすようなことしたか? こわい顔して」

 へらへらと笑っている杉浦をみていたらまひるは無性に腹が立ってきた。いつもそうだ。杉浦は肝心な時に話してくれない。困った時も、だ。

「どうしていつもそうなん? 私じゃ相談できへんの?」
「そない怒らんかってええやん。まあまあこっち座って食べえや」

 杉浦はばつが悪そうにいうと、「オバチャン、こっちもカレーうどんひとつ。あと、中瓶とグラスふたつね」と続けた。
「昼間から飲んでって顔してるな」と杉浦は悪戯っぽく笑った。

 キリキリに冷やされたビール瓶はびっしょりと汗をかいているみたいにぬれていた。ふたりでグラスに差しつ差されつ、していると肝心な聞きたいことがなかなか言葉になって口から出てこなかった。沈黙をうめるように杉浦は話す。

「うどんと蕎麦とラーメンやと、すする音が違うねんなぁ。こないだネットでそんなサイトをみつけたわ。本当に実験しててさぁ、音をちゃんと録音してるんだよな。ほんと世の中には暇なヤツがいるよな」
 とズルズルとカレーうどんをすすりながら杉浦がいう。

「あ、そいつによると普通のうどんはつるつるで、カレーうどんだけズルズルっていう音になるらしい。カレーうどんだけ例外なんやってさ」

 いつになく、饒舌な杉浦にまひるは、痛々しさを感じてしまう。落ち込んでいる時の杉浦は空元気で、行動が空回りするからだ。そんな時の彼は中年男の哀愁が漂う。いい意味で。彼のそういうところも含め好きなのだとまひるは思う。

「杉浦さん、もうええよ、そんなうんちく話。転勤、決まったんですね。松山のカルチャーセンターやって聞きました」
「ああ」
「行くんですよね?」
「サラリーマンやから仕方ないよな。行かな」
「私、ついて行こうかな」
「ついてきて何するんや。なんもないで遊ぶとこ。あるのん坊ちゃん列車と温泉ぐらいやで」
「……それでも行こうかな」
「仕事はどうするねん。まだまだこれからやろう? 君の記者人生は。スポーツライターの道はどうするんや」

 まひるはそれでもついてこいといって欲しかった。杉浦はまるで女心がわかってない。

「そうですね、あっちで頑張ってください。じゃあ、社に帰りますね。ご馳走様でした」

 杉浦を見ずにそれだけを早口でたたみかけるようにいった。

 店をでると、高架上の線路を通過する電車の轟音で現実の世界に引き戻された。真夏の太陽が、容赦なくまひるに照りつける。信号がかわり、横断歩道をせわしなく渡る人々とぶつかりそうになるのをよけながら、流れに逆らって、元来た道を戻る。

 今、自分の中に流れている時間と世間の時間とのズレがゆっくりと同化するのを感じた。

 ――どうして、素直になれないんやろう
 まひるは自分でもどうしたいのか、よくわからなかった。仕事を優先すべきなのか、仕事を辞めてまでついて行きたいのか。そのどちらでもあり、どちらでもない。両方なのだと思う。振り子の様に、行きたい気持ちと諦める気持ちがどっちつかずで、ブラブラと揺れているみたいだった。ただ単に自分で結論を出すのが怖いだけなのかもしれない。

   ※
 それから杉浦は一週間ほどで引継ぎを済ませると、松山に赴任していった。若い頃はともかくとして、いったんラインから外れて地方の支局に出されると『どさまわり』といってなかなか戻ってこられないというのが、社内での定説だった。ましてや出向したら下手すると定年までもう、ずっと戻れない確率の方が高い。

 まひるは心のモヤモヤがアメーバーみたいにどんどん増殖していくのを感じた。このままでは心が壊れそうだった。平静を保つのがやっとという状態だった。それでも杉浦のいなくなった席には新しく赴任してきた支局長が座り、今までどおり何事もなかったように紙面は埋まり印刷され、購読者の元へと配られている。

 それは今までどおりの平和で当たり前の毎日だった。まひるのうずいていた心も段々と痛みが薄れ、そのうちに杉浦のことを思い出す頻度が減ってきたことに自分の酷薄さを責めた。

 まだ、まひるが幼かった頃、おばあちゃんの飼っていたシロという犬が死んでしまった。おんおん泣きやまないまひるに祖母が優しくいった。『心の痛みはいつのまにか消えるものなんやで。だから人間はどんなつらいことも乗り越えて生きていけるんよ』と教えてくれたことをふと思いだした。まさに今、哀しみが風化していく現実を目の当たりにしている。


   ※ 
 杉浦が転勤して一ヶ月が過ぎた。
 心のモヤモヤは食べ過ぎた時の胸やけに似たムカツキに姿をかえ、まひるの中で着実に顕在化している。

 まひるは嫌な予感がする。最近、匂いに敏感になっている。自分でも驚くぐらいだ。とはいえ、この犬並みの嗅覚を発揮する機会は残念ながらない。ともすれば、嫌なにおいにばかりに、反応してしまいもてあましている。

 沙也加がいつも好んでつけているプワゾンという甘ったるい香りをかぐと、テキメンで決まって吐き気をもよおすのだった。
 今日はまた一段とにおいがキツイ。これではスメルハラスメントでしかない。

 まひるは慌ててトイレに駆け込んだ。間一髪で間に合い、洗面台で嘔吐する。うがいをしながら鏡にうつった自分の顔をみると、なんだかげっそりとヤツレてみえた。(心労やわ)と思ったが、一瞬、母親がいつもぼやく昔話ががよみがえった。『あんたがお腹にいてる時、〈においつわり〉で、ほとんど食べられへんかって大変やってんよ。
 
 酢豚のにおい嗅いだらもう、あかん』といって、母親は酢豚が登場するたびに顔をしかめては、決まってこのエピソードを言い訳みたいに繰り返すのだ。
 ――まさか、妊娠してるとか
 不安になった。そういえば、月のモノが遅れている。いつも不規則なので、あまり気にもとめていなかったけれど、そうなるともしかして、もしかするかもしれない。それに胸の張りも気になる。ブラがキツイと最近感じている。

 ――あーあ。どうしようか……
 ため息がでた。
 杉浦にLINEするべきか、迷っているうちに二日が過ぎた。
 妊娠検査薬をドラッグストアで、購入しようとしたものの、結果を目の当たりにする勇気がなくて、結局、レジにさえ持っていけず買えなかった。おとといからずっと、カレンダーとにらめっこしている。

 もし、妊娠していたら病院にいかねばならないし、そうだとわかれば判断をする時間も杉浦に相談する必要もある。一刻の猶予もないのが、現実だ。近頃では『できちゃった婚』は市民権を得ているんだし、結婚さえすればなんとか丸く収まりそうだ。でもそれは世間体であって、自分自身がどう望んでいるのか、わからない。そもそも杉浦には家庭があるのだから、そう簡単にはいかない。

 それでも杉浦を好きなのか、結婚したいのか、子どもを産みたいだけなのか、自分の気持ちさえ、よくわからなかった。

 ソファーに放り投げてあった、まひるのスマホが、ブルブルとふるえた。手にとってみると、雪乃からだった。結局、誕生日会のはなしは、そのまま立ち消えになっていて、当の彼女の誕生日はとっくに過ぎ去っていた。杉浦の転勤騒動で落ち込んでいたまひるは、親友の誕生日の事なんて忘却の彼方だった。

「あっ、雪乃? ひさしぶり。どうしてるの? ほんま、ごめん。誕生日お祝いできへんかって」
 と勢い込んでまひるは不義理したことを詫びた。
「ええよ、ええよ。それよりさぁ、まひる、どうしてるんかなぁと思って電話してん。近々会われへんかなぁ」

 電話越しの雪乃の声はなんとはなしに、元気がないように感じた。それもあって、雪乃のペースで、さっそく明日の夜に会うことになった。香世も一緒なのかどうか、聞きそびれてしまった。香世が一緒だったらパスしたい。まひるはうらめしい気持ちでスマホをにらんだ。

 ふらっと松山に行ってみようか、とそんな計画が頭をかすめた。杉浦はどうしているのだろうか。全く連絡をよこさないところをみると、家族で赴任しているのかもしれない。記者の時と違って仕事も忙しくないだろうし、家族と元の鞘に収まっているのかもしれない。

   ※
 翌日、まひるは仕事を終えると会社の近くにあるチェーン展開している個室居酒屋にむかった。人数に合わせて、何パターンかの部屋があるようだが、全部、一部屋ごとに壁と襖があり仕切がしてあった。天井はあいているので、密室というわけにはいかないけれど、これなら一応、他の客たちと互いに顔を見合わせることもなく、プライバシーが保てるような個室になっている。こういった個室居酒屋は二人用の部屋が一番多く、カップルの利用が多いみたいだった。

 個室居酒屋にしたのは、雪乃の強い希望だった。コース料理をだすようなちゃんとした店だったら食欲に自信がないので、どうしようかと思っていたし、ちょうどいいと思った。特に気にもとめず了解したけれど、あとから『個室』というのに何か重要な意味あいがあるように思えてきて、なんだか落ち着かなかった。折り入った話があるのだろうか? と、うだうだと考えていると、ほどなくして襖が開き、店員に案内された雪乃がのぞいた。

「ごめんごめん」
 誕生日会をすっぽかして以来、久しぶりに会う雪乃はちょっとふっくらしているように見えた。表情もいつになく柔らかくて優しい気がした。
「久しぶり。ほんま誕生日会、ごめんなぁ」
「そんなん気にせえへんかて、ええって。ちょっとまひると会って話したかってん」

 雪乃は緩慢な動作で、靴をぬぎ、部屋にあがると掘り炬燵式になっている座席に腰を下ろした。

「ふーっ。なんかしんどうて」
「ねぇ雪乃、ちょっとふっくらしたんとちがう?」

 まひるは遠慮がちにいう。こういう話題に女子は敏感だから気を遣うのだ。

「ハハ、わかるぅ? 三キロ肥えてもうてん」
 朗らかに雪乃は笑う。太った女子が笑っていられる理由、それはひとつしかない。
「食べつわりやねん。もう、何かしら食べてないと気分が悪くてあかんねん」
「に、妊娠してるの? 誰の子よ。父親は誰やの」
「何よ。うちの親よりすごい剣幕やで、まひる」
 店員がノックし、注文を聞きに来たのでふたりの会話はいったんお預けになった。

「私、ウーロン茶」
「私も」
「まひる、飲まへんのぉ?」
「ちょっと調子悪いねん」

 なんとなく、ここ数日は家でもアルコールをひかえている。帰ったらまず、冷蔵庫に直行し缶ビールをグビグビやるのが、一日の楽しみだったまひるには、考えられない変化だった。不思議と体がアルコールを受け付けないというか、飲みたいと思わないのだった。

 料理は、まひるが『お造りの盛合せ』『冷奴の四種盛り』『ホタルイカの沖漬』といったあっさりしたものを頼んだのに対して、雪乃は『和野菜と温泉玉子のシーザーサラダ』『豚キムチ』『チーズたっぷりカルボナーラ』『限定カツサンド』を頼んだ。店員はリモコンのような端末にこなれた感じでオーダーを入力する。最後に注文を復唱すると襖をしめて出ていった。
「ねぇ、ふたりでこんなに食べられる?」
「ふたりちゃうって、三人分やん。こんなんぜんぜん足りへんわ。もう、今もお腹減って気持ち悪いぐらい。はよけえへんかなぁ」

 それから、まひるの刑事の取り調べのような質問攻撃が始まった。聞き出した事情は、こうだった。

 雪乃が一人暮らししているマンションの近所に新しく居酒屋がオープンして、通っているうちに店のスタッフたちとも顔なじみになり、常連になるうちに店長の皆川と恋仲になった。そうこうしているうちに妊娠がわかり、じゃあ入籍して一緒に暮らそう! ということになったという。

「できちゃったって事?」
「そうそうフライング。今はデキ婚なんていわへんよ。『授かり婚』っていうらしいよ」
 とちょっと照れながらいう。
「皆川さんって年下なん?」
「うん。今年三十二歳やから私らより六歳下になるんよね」
「姉さん女房やね」

 そうか、杉浦と自分の年の差を比べると十二歳も離れている。丁度、一回りも違うことになる。それに比べると雪乃と皆川の六歳の年の差なんてたいしたことないように感じてしまう。

「なんか雪乃、幸せそう」
 雪乃をみていると自然とそんな言葉を素直に口にすることができた。
「そんな悠長なこといってられへんねんから、現実は。彼、非正規雇用やから収入もそんなないし、社会保険もないから子ども生まれても私が扶養することになるし」

 雪乃の勤める総合商社は、会社が大きい分、給与は勿論、社会保険も完備で福利厚生もしっかりしている。

「仕事、続けるの?」
「だって、仕方ないよ。彼の仕事もこの先どうなるかわからへんし、その分私が稼がないと。これからは子どもの分と二人分やから。とりあえずは産休と育休取らせてもらうけど」
「雪乃変わったなぁ。母強しって感じがする」

〈女は弱しされど母は強し〉なのかもしれないと、まひるは思う。なにより以前の雪乃なら絶対結婚相手に皆川を選ばなかったはずだ。婚活中の雪乃が相手にまず望んだのは、生活水準を落さないことだった。今では平気で、子どもも自分の扶養にいれるだなんて発言をしている。

 じゃあ、夫って何なんだろう。子どもも自分で扶養して、生活費も折半で、夫の存在って一体なんなのだろうか。これでは、ただの同居人だ、と思う。

「パートナーやと思うことにしてん。一緒に人生を歩んでいく、パートナー。子どもにとっては父親やけど別に私は養ってもらう訳じゃないし、対等な立場でつき合えるやん。それって気楽やし、だから彼のこと相方って呼んでるねん」
「相方ぁ?」
「そう、相方」
「なんか、漫才師みたいやね。よく、ツレって呼ぶ人いてはるけど」
「そんな感覚かな。友だち感覚、かな。やっぱりパートナーなんよね」

 彼女は彼女で色々と考えているところがあるらしかった。雪乃が、ひとまわり大きく見えた。結婚式はしないという。これから出産なんかでお金もかかるし、入籍だけですますのだという。

「まひるはどうなん? あれ、痩せた?」
 まひるは杉浦とのことを話した。つき合っていることは以前から話して知っているので、松山に転勤したこと、それからずっと連絡が途絶えていることを話した。

「あとね、私、妊娠してるかもしれへん」
「はぁ?」

 まひるは、今まで誰にも相談できなかった不安な気持ちを打ち明けた。気負いのない今の雪乃にならどんな情けない自分でもさらけ出していいような気がした。

「ちょっとぉ検査もしてへんって。怖い? そんな二十代の小娘みたいな事いってどうすんの」

 食事もそこそこに、雪乃に手をひかれ、遅くまで営業しているドラッグストアに強引に連れていかれた。雪乃はてきぱきと棚から妊娠検査薬を探しだすとレジに持っていった。その足で地下街のトイレに連れていかれた。

「ホラ、これに尿かけて」
 パッケージから体温計のような形状の検査薬をとり出すと、手渡された。二つの丸い窓があり、検査終了と判定と書かれてあった。
 どうやら検査後に判定の窓に赤い線がでたら陽性で、つまり妊娠しているということらしかった。ふたりはじっと検査薬が判定を下すのを待っていた。判定の窓にぼんやりしたピンクの線が浮かんできた。

 そしてそのピンクの線はみるみるうちに、濃い赤色の線になっていく。
「おめでとう。明日一緒に病院いこう」
「おめでとう、なんかな?」
「当たり前やないの」
「私、わからへん。嬉しいのか、不安なんか。どうしたらええのんかも。わからへんねんもん」

 途中から自分の声が泣き声にかわっていた。まひるは誰かにこうやって話を聞いてもらいたかったんだと知った。子どもみたいに泣いて誰かにすがり、不安な気持ちをわかってもらいたかったんだと思った。

 その夜、雪乃はまひるのマンションに泊まった。
 翌日、ふたりは会社をサボっていつもより少しだけ朝寝坊をした。
 まひるは高熱でうなされている風邪ひき患者になり、鼻声で会社に連絡をいれ、雪乃は突如として食中毒患者に変貌し、会社に電話をした。

「その演技、やりすぎちゃう?」
 と、電話口でゴホゴホ咳き込むフリをするまひるに雪乃のスルドイ演技指導がはいる。

 会社への連絡が一段落すると、まひるは、雪乃に付き添われて産婦人科を受診した。
 昨日の判定どおり、医師から妊娠を告げられた。三ヶ月だという。

「やっぱり、杉浦さんには連絡した方がいいよ」
 と待合室で会計待ちしているまひるに遠慮がちに雪乃がいった。
「うん。……そうやね」

 まひるはお腹にあらたな生命が宿っていることを実感し、改めてその重みを感じた。

「雪乃、妊娠わかった時、迷わへんかった?」
「そりゃ、すごい悩んだよ。ひとりで育てることも考えたし、正直……諦めることだって考えたし。だって、産めばそれで終わりってわけちゃうやん? この子の人生がこれから何十年って続くわけやもん。そう簡単には結論だされへんでしょう?」

 自分だけの人生じゃない、か。まひるは離れて暮らす母親のことを思った。今までどんな想いで自分のことを育ててきたんだろうか。今までそんな風に考えたことなんてなかった。

   ※
 まひるは、決断をすると行動が早かった。支局長に妊娠の事を報告すると今度は人事部の友人に産休制度について聞き、出産した先輩にも色々話を聞いてまわり、情報収集に奔走した。

 予定日の一ヶ月前まで働き、産休をとり、出産後は半年の育児休暇をとることに決めた。なんとか、目処はつきそうだった。雪乃とは、あれから連絡をよくとりあうようになり、新米ママの絆のようなものが芽生えつつあった。

 とはいえ、社内の未婚の母への風当たりは緩くはなかった。予想はしていたけれど、父親は誰なのか? 不倫の子なのか? などといったゴシップが飛び交っているようで、まひるの耳にもしばし、それは届いた。どんどんせり出す腹を抱えて歩くまひるの指に結婚指輪がないのが、原因だ。年配の管理職たちが世間体が悪いと噂しているらしかった。まひるは世間体という言葉を久しぶりに聞いた気がする。

 仕方がないことだと諦めている。そんなことにいちいち滅入っていたらこれから待ちかまえているであろう困難を乗り越えられない。〈女は弱しされど母は強し〉と呪文のように心で唱えてみるのだった。

 まひるは両親が幼い頃に離婚し、母子家庭で育った。母親は女性学の研究者だった。家には「ジェンダー」とか「フェミニズム」という言葉が日常的に溢れていた。本棚にはジェンダーや女性史に関する本が大半を占め、中には母親が書いた本もあった。

 まひるが「選択的シングルマザー」として生きていくこと、パートナーとは子育てしない意思を持って出産すると電話で報告しても反対しなかった。暫く実家に帰ってきて、一緒に暮らそうと提案された。
 それは即答で断った。母親にはずっと反発心があった。出産で里帰りしても意見の相違で喧嘩になるだけだとわかっている。いつも共感できない理想を一方的に押しつける。

 まひるは子どもの頃、自分の家が同級生と違っていてコンプレックスだった時期があった。学校に行く時間になってもまだ寝ているし、原稿執筆に煮詰まったら突然、夜中にたたき起こされてドライブに連れて行かれた。

 家には本が散乱していて、遊びにきた友だちからは「まひるちゃんちに行くと靴下が汚れる」といわれた。父親がいなくて淋しいと泣いた時も母親として、子どもと向き合うことをしなかった。

 「女の解放」と書かれている本が沢山あるのを見て子ども心に女は縛られている存在なんだと思った。

 子どもに対して親の理想を押しつけくる母親への反発で、そっちがそうならと、大学卒業と同時に家を出て一人暮らしを始めた。久しぶりに母親と電話で話して、過去の記憶がよみがえった。

 杉浦には、まだ連絡できなかった。自分の気持ちが固まったら連絡しようと思っているうちに、タイミングを逃し、そのうちに連絡する気持ちがどんどん萎えてしまった。家庭のある杉浦には、やはり伝えられないと思った。このまま、知らせずにいようとまひるは決めた。

 支局の同僚たちも面と向かって聞くような者はいないが、どこか腫れものに触るような接し方に居心地が悪かった。唯一、今までどおりなのが、後輩の沙也加だった。

「産休中の立花さんの復帰が決まって、また就職活動しなあかんと思ってましたけど、まひるさんが産休にはいるから契約更新してくれるって支局長からいわれました」
「もう、沙也加ちゃんも一人前の記者やもんな」
「だって、さんざん杉浦さんにしごかれましたもん。記事におまえの感想はいらんって、どんだけ言われたか」

 雑誌のエディターと新聞記者とは全く違う。新聞の記事は文字数が勝負だ。いかに短く、多くの情報を伝えるかが重要なのだ。つい、記事に主観的な主張をいれてしまう沙也加の癖を根気よくなおしてやったのが杉浦だった。

「杉浦さん、どうしてるんやろう」
「坊ちゃんみたいに毎日温泉にはいって、ビールでも飲んでるんちゃう」
「あ、そういえば、杉浦さん離婚したらしいですよ。人事部の派遣の子に聞いたんですけど。杉浦さん、かわいそう」
「へぇーそうなんや」

 まひるは、まるで上の空で相づちをうった。杉浦が離婚したなんて、全然知らなかった。でも、その情報が本当かどうか、わからない。確かめるすべもない。もし、離婚していたとしても子どもの事は伝える気にはならなかった。杉浦の事を想い無性に逢いたいと思った。

 その時、お腹にプクプクと泡がはじけるような引きつりを感じた。
 ――え?
 まひるは初めての感覚に、戸惑った。
 ――もしかして、これって胎動?

 とっさに妊婦雑誌で読んだ胎動かもしれないと思った。初めて経験する胎動の感動と久しぶりに聞く杉浦の事とで、頭が混乱し、感情をうまくコントロールできなかった。急に視界がぼやけたかと思うと、涙がぽろぽろと頬を伝うのを感じた。

「まひるさん? 大丈夫?」
「ご、ごめん。今ね、赤ちゃんが動いてん」
「え? 本当ですかぁ」
 どれどれ、と遠慮がちにまひるの腹に沙也加が手を当てた。
「ほら、ここ」
 と、彼女の手をさっき動いた部分に導いてやる。不思議と、今度はもう動かなかった。
「ほんとですかぁ?」
「ほんとうやって」
 ふたりは顔を見合わせて笑った。

 生まれてくる子どもに父親のことをなんて話せばいいのだろうか。遠く離れている杉浦のことを想った。


   ※ 
 季節は夏から秋にむかっていた。御堂筋の銀杏並木も緑から黄色へと彩りをかえ、まるで衣替えしてるみたいだった。そんな頃、とうとうまひるも妊娠三十二週目をむかえていた。

 まひるより一足先に産休にはいった雪乃から連絡があり、ふたりは母親学級に行くことになった。

 いままでずっと仕事一筋だったまひるは目前にせまった産休を前に、どうやって毎日を過ごせばいいのか、考えあぐねていた。ひとりで出産をむかえるというのは思いの外、精神的に堪えることかもしれない。

 そんな折にも雪乃は色々と気遣いまひるを誘ってくれる。週に一度はマタニティーアクアとマタニティーヨガに通っている。出産前の不安な気持ちも同じプレママたちと一緒に過ごすことで、だんだん取り除かれていく。みんな出産という人生の一大イベントを前に不安と期待でいっぱいなのだ。それを知っただけでも、不安の波が少し小さくなっていく気がした。

「ねぇ、記念写真とらへん?」 
 マタニティーヨガを終え、汗を拭きベンチで休憩しているまひるに、雪乃が声をかけた。
「写真ってなんの写真?」
「私らのこのお腹やん。妊婦記念にさぁ」
 雪乃は大きくせりだした腹をやさしくさすりながらいう。
「ほら、写真集だしたやん」
「ああ」

 若者たちから絶大な支持を受けている人気女性シンガーが最近、マタニティ・ヌードの写真集を出版し、話題になっていた。一昔前なら、妊婦のヌード写真だなんて、と非難されたかもしれない。だが、年齢層の高い三十代以上の妊婦を中心に女性の共感を得て、写真集としては、異例の売り上げを伸ばしているそうだ。書店で購入するのもほとんどが女性だというのも珍しい現象だった。そんなこともあり、妊娠中の女性の中でマタニティー写真を撮るのが密かなブームになってきているのだった。

「あんな風に写真を撮って欲しいと思うねん。今だけでしょう? このお腹もさぁ。ほーんとこのお腹には十月十日苦労させられたけど、もうすぐこの子も出てくるやん。その時にほら、こんな風にママのお腹にいてたんやでって見せてあげられるし」
「そうか、生まれてくる子どもに見せるんやね」
「それにね、女は妊娠している時が一番きれいになるんやって」
「皆川さん、いいって?」
「もちろん。ゆきちゃんカワイイ、カワイイって私にぞっこんやねんから。彼の希望もあって私らはふたりで撮ってもらおうと思って。あっ、この子もいてるから三人かぁ」
 とお腹をさする。

「じゃあ初めての家族写真、やね」
「まひる、いいやんね? もうスタジオ予約してるから」
「え~」
「ヌードっていってもお腹だけやし」
「そうやね、記念にこの子と一緒に写真撮るのもいいかもしれへんね」
 まひるも自分のお腹を優しくなでてみる。するとお腹の子がグルグルと動いた。まるでいいよと返事しているみたいだった。
「この子のOKでたわ」

 出産の不安はずっと心の奥でくすぶっている。たぶん、生まれるまで続くのだろう。この写真を撮ることで何か踏ん切りがつけばいいなぁという気持ちもあった。

 数日後、まひるはスタジオにいた。
仕事柄、写真を撮る方はなれているが、被写体として撮られる方は不慣れで、つい緊張して表情がこわばってしまう。

 まひるはヨガのトレーニングウェアのようなセパレートの上下で写真を撮ってもらうことにした。お腹だけが、ぽっこりときれいな丸みをおびて露出している。

 緊張が最高潮に達しそうになった時だった。
「まひる!」
 誰かがまひるを呼んだ。声のする方に振り向くと、そこには懐かしい顔があった。香世だった。数ヶ月ぶりにみる香世は、明らかにいつもと印象が違ってみえた。黒のパンツスーツに身を包み、稟としたその顔はいつもの愛されキャラを見事に返上し、しっかりした大人の表情をしていた。
「……香世」
「雪乃とは、よう会ってるから。色々聞いてたんやけど、ふたりともオメデタやって? びっくりしたわ」

 香世はまひるの動揺なんて全く気にしていない様子で、晴れ晴れとした笑顔をこちらにむけている。

「ごめん。ずっと何の連絡もせんと」
「私こそ。おかげさまで教室もコンスタントに生徒さんが集まるようになってきてん」
「そうなんや」
「離活の方はちょっと長引いてて、まだ離婚訴訟中やねんけど」
「まひるには、色々と相談にのってもらってたのに、報告せんとごめんなぁ。それにいつも自分のことばっかりで、まひるも大変やったのに」
「……そんなん……ええよぉ」

 素直に謝られ、まひるは言葉がでなかった。自分勝手だと非難していた香世こそが、まひるのことを気にかけていたんだと知ると心のわだかまりが、だんだん小さくなっていく。
 
 それと同時に、まひるの心の中には自己嫌悪の嵐が、ビュービューと吹いていた。

「あん時はほんま、ありがたかったもん。今、こうやって私が頑張っていけるんも、まひるや雪乃のお陰やと思ってるんよ。だからね、何かお礼がしたくて……」

 マタニティ写真の撮影を企画したのは、香世だった。まひるに断られるのが怖かったので、雪乃を通じてうまく写真のことを持ち出したのだという。

「ずっとね、お祝いしたくて」
「とんだサプライズやわ」
「ごめん。贈り主が私やってこと内緒にしてって雪乃に頼んだんやけど、自分でいえって言われてさぁ」
「うん、水くさい」
「じゃあ、このプレゼント受けとってくれるやんね?」
「勿論。最高のプレゼントやわ、ありがとぉ」
「アーアァ、ふたりには、すっかり先越されたなぁ。もうママやもんね。私だけ独身貴族に逆戻りやわ」

ふたりは顔を見合わせて笑った。
 控え室に入ると香世は、まひるの髪を整え、手早くメイクを施した。
 ライトを照らされ、カメラマンの指示にしたがって、ポーズをとっていく。まひるは照れと緊張でどうにもうまく動けない。

 その時、お腹が激しく動き、胎動を感じた。どうやらお腹の中で大暴れしているらしい。

「す、すごく動いてるんです」
 まひるの表情はみるみる和らぎ、自然と笑顔がもれた。お腹を抱え、子どもに話しかける。
「早く出てきてね。一緒に写真みようねぇ」
 遠くの方で、かすかにシャッター音が聞こえていた。

 ――私はこの子に支えられてるんかもしれへん
 シングルマザーとして、子どもを育てるという気負いばかりが先行して、自分に枷をつくっていた気がする。実はこの子に助けられているのもしれないと思えるようになった。

 ――ありがとう。親孝行な子やなぁ
 へその緒だけでなく、母子は心でつながっているんだろうか。

   ※
 心待ちにしていたマタニティ写真が今朝、宅急便で届いた。まひるはレザー製の分厚い表紙をドキドキしながら開く。

 モノクロの写真は、まひるのシルエットをより美しく見せていた。お腹をかかえ、にこやかに微笑むショットだった。あの日、胎動を感じた瞬間に撮られたもののようだった。

 どんな聖母画より神々しくて、それでいて美しかった。まるで、自分でないみたいだった。まひるは満足だった。
 あの日から少しずつまひるは母親としての自分に自信が持てるようになっていた。もう、ひとりでないという心強さがあった。

 ――この子がいるやん
 写真を閉じた時、はらりと一枚の封筒が床に落ちた。
(あれ?)  
 写真とは別にスマートレターが一緒に届いていたのに、どうやら気がつかなかったようだ。封筒を裏返し、差出人を確かめる。杉浦だった。
 はやる気持ちを抑え、もどかしい気持ちで、封をビリビリと手で破く。中から四つ折りされた便せんをとりだしてひらくと、そこには筆圧の強い角張った懐かしい癖のある字が現れた。

《こちらでミニコミ誌を立ち上げることになりました。一緒に仕事を手伝ってもらえませんか。もし君が許してくれるなら松山で一緒に暮らしていきたいと思います。身勝手な男でごめん》

杉浦からの手紙だった。

 ――勝手すぎるわ 
 もう一度、封筒を取り上げて中をみると奥には、岡山までの新幹線の切符と特急券がはいっていた。まひるはつかんだチケットをそのまま、ゴミ箱に投げ捨てた。

 腹にぎゅっと締め付けられるような痛みを感じて、まひるは、思わずその場にうずくまってしまった。胎動のようだけれど、いつもよりずっとずっと強い衝撃を感じた。お腹に視線を移すと、ボッコリと尖ったような膨らみができている。その尖った部分は、だんだん小さな足形へとカタチを変えていく。それは目で見る初めての胎動だった。腹の中で子どもが必死に抗議しているみたいだった。

 ――もしかして怒ってるの? パパに会いたいの?
 まひるは、いつの間にか自分の意志を持つまでに成長した我が子の逞しさに心強さを感じた。やはりこのまま杉浦に、この子の存在を隠しておく訳にはいかない。この子にとって、自分こそが身勝手な母親であるのかもしれない。たとえどんな結果になろうとも、この子とふたりならきっと、乗り越えることができるはずだ。 
 
 まひるは特急しおかぜの車窓から風景を眺めている。移りゆく景色は山から海へと早送りの映像みたいにどんどんかわる。銀色にかがやく瀬戸大橋がみえてきた。この橋を渡れば、もうすぐ目的地だ。太陽のひかりがキラキラと水面に反射する。まひるは、まぶしさに目を細めた。
-了-

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