哲学メモ

 死とは抑圧である。それは可能態の方に抑圧することである。或いは可能態へ還ることである。魂が死なないのは、存在するものがいくら消え去ろうと、それは可能態へ還る、という意味に過ぎないからである。可能態の領野は融通無礙である。そこでは他者や自己にはっきりした境界線がない。エヴァンゲリヲンで人類補完計画を企てた碇ゲンドウは、可能態の方へ行き、一つになることで唯に会おうとした。これはこれで一つの理路があり、論理的にそう考えられる道ではある。しかしそれに対し、ヴィレ(意志)を以て、死ぬこと、一つになること、楽になること、等々、を捨て、戦い、生きることを選んだのが、碇シンジや美里だった。
 しかし、華厳でいう理事無礙では、可能態を保ちながら、個々の事物を浮き彫りにさせる認識論や存在論が説かれている。
 なるほど、最近の漫画やアニメでいう、NARUTOでもエヴァンゲリヲンで出てくる、一つになること、というのは確かに危険な道ではある。そこでは個々がなくなり、全体だけが在る在り方になる。そこには限りある生というものがないし、したがって死もなく、個々がないのだから争いもない。しかしそれはただの諦めであるし、個がなくなるのは、尊ぶ生命を消失することでもある。
 しかし、個々だけでは、それはそれで失敗に終わる。何故なら各々が通じるところがないのだし、個々にはっきりと境界線があり、私の意識のみが存在するなら、私が死んだ後は何の意味もない。そしてまた、私の生は偶然始まっただけであり、私の生に発端を見つけることも出来ない。私の意識はどうやって生まれたのか、もし個々の事物が各々に通じる場所がなければ、それを知る由もない。意識の発生について私たちは一切不明になってしまい、そこから抜け出すことは出来なくなってしまう。
 大切なのは、もののけ姫のシシガミについて言われるように、生と死を併せ持つ存在観なのだと思う。
 可能態の中から個々の事物が浮き出てくるような、世界がそのような存在の仕方をし、そしてまた私たちの認識も、可能性の中から考え、そこから個々の事物を浮き彫りにさせるようにする、これが全体と個を関係させつつ認識し、存在させる道である。
 可能態という魂の存在における領野、ここには個というものがない。つまり私たちの心の奥底、意識の届かないところは、他者と通じている。魂の領野は個人的なものではない。この魂の奥底、ここには底というものがないので、西田はこれを無底と呼んだ。
 この無意識に恒常的に触れているのが、私たちの直感である。西田幾多郎の純粋経験は直観だと言われているが、どちらかというと直感に重点が置かれている。直感と直観はお互いに作用することがあるので、全て間違っているというわけでもないが、東洋ではどちらかというと、意識の明瞭な働きである直観を考えているというよりも、無意識的な心の作用である直感を考えていることが多い。例えば井筒俊彦が使う概念である、中間領域や、仏教でいう阿頼耶識、等は意識に上るものよりも、むしろ下降していき、深みにある心、魂におけるものを記述しているのである。
 話は戻って、私たちが他者を理解する時に、他者から放たれる心的なものを、私たちは察するのであるが、それは直感の領野(魂の領野)に他者の思念が入り込んできた時、起きている。言い換えれば、他者から出る雰囲気を直感的に察し、それを言語化、知覚することで他者を理解するのである。この雰囲気は他者の表現である。私たちは自身から出る雰囲気を見ることが出来ない。私たちが意図せず出してしまった、私たちが表現しようと思わずとも、表現してしまった、芸術的なものである。
 この雰囲気は物質的では有り得ず、霊的なものに他ならない。あらゆる存在者は雰囲気を持っている。人間以外の動植物、自然でさえ雰囲気を持っている。これは、全ての存在者は霊的なものを纏っているということである。
 この雰囲気はそのものの習慣が出ていることが多い。私たちが第一印象として―印象とは内的な直感であり、これもまた魂の為せる業である―抱く、他者の印象というのは直感的なものであり―敢えてそれを記述するとすれば、なんとなくこう感じるな、という心的な経験がそれであるが―、その他者の印象というのは、他者の習慣が他者に染み付き、雰囲気となって出ているものである。
 つまり雰囲気というのは記憶の現れでもある。他者の記憶など分かるのか、という現代的な哲学者なら懐疑的になるはずだが、記憶とは可能態であり、それは個人的な領野に有るものではない。記憶とは中間領域、すなわち魂の領野に有るものである。
 記憶の働きの原初的なものである連想とは、重層的な世界の構造、つまり融通無礙な中で事物と事物が重なることで起きる。この事態を身体が経験し、脳内の電気信号という反応で、それは意識に上る。想起とは経験することである。今経験していることと、想起の経験の違いは、意識下にある情報以外が、大量にあるため、ありありと世界が強調され現れているだけで、想起の場合は、内的なものだから意識下にある情報以外は、私たちに向かってこないため、そこは世界と呼ぶには貧しい現象なのだが、どちらも経験であることには違いない。
 存在は現在、現実態でありながら、前の在り方が過去に還るのだが、その還る場所が可能態なのであり、可能態として記憶は保存されている。ただの可能態との違いは、一度身体的な経験を経れば、もう一度経験する、すなわち現実態となる可能性が高くなるということである。身体的に現実態にしやすい可能態というものはあるが、その身体というのも、奥の方ではさらなる可能態に繋がっているので、融通無礙なため、事物との境界線がなく、したがって私と他者との区別もそこではない。
 私たちが創造的な思考をし得るのは、既存のものや、今の自己に留まらず、融通無礙な場において、他との繋がりを見つけることで、新たなものを考えることが出来るためである。
 自己を捨て、まだ知らない他者を理解出来るのは、自己と他者が融通無礙な場を共有しているからである。全然知らない他者を理解することは、創造的な行為である。自己には自己を超えた場がある。それが大我、と呼ばれるような、宇宙的な我のことである。
 したがって、他者の雰囲気には、今まで経験したことによる記憶の現れがあるが、それとは別に気分や感情的なものがある。今まで経験したことが、習慣となって染み付けば、それは現れるのだが、今経験していることも現れるのである。占い師などは、恐らくこの今と今までから、未来のことを推測出来る。
 物であっても、物が同一の物であるには、その反復が必要であり、その反復というのは習慣的なものであるから、その雰囲気が物には出ている。これが前著で言った、石には石の感じがあり、という事態であり、石は反復を通し、染み付いたものを雰囲気として出しているのである。川の石は川の石を反復してきたから、川の石の雰囲気があり、火山の石は火山の石を反復してきたから、火山の石の雰囲気がある。
 しかしこう考えれば、世界は雰囲気だらけで、私たちの意識はひどく濃厚なものとなってしまうようにも思える。しかし、物の雰囲気というのは、お互いの雰囲気を打ち消すように存在しているので、実際は物の輪郭を沿い、纏うようにしか存在していない、という事態になっている。
 そして前著の通り、雰囲気とは香りのようなものならば、世界には風が吹いているので、ほとんどの香りは吹き飛ばされてしまうように出来ている。風は環境の変化によっても起こるし、私たちの動きによっても起こる。心身どちらの動きによっても風は起こる。
 私たちは呼吸をしている。呼吸とは生命の反復で、全ての存在は魂を持ち、したがって生命を持つものと考えられるなら、全ての存在するものは呼吸をしている。その呼吸によって雰囲気は出来ている。これを時間的なものだと考えることも出来る。全ての存在するものの自己の反復は、自己同一性であるなら、そこにはそれぞれ一定のリズムがある。つまり、全ての存在するものは、それぞれの時間を持っている。
 雰囲気とは表現であり、それは発するものである。それは呼吸の内の息吹と解することが出来る。逆に言えば私たちは吸い込んでもいる。私たちは他の表現を呑み込んでもいるのであり、よく味わうことでその存在は濃厚になるのだが、この他の表現を呑み込む時に、私たちは他の生命を摂取している。つまりは他の生命を受け取っているのであり、事態としては殺していることや、死んでいることが含まれている。
 私たちは何かの存在の意味を知ろうとする時、その存在の動きを止める。そこでその存在を殺すのである。動きを止めてから、噛み砕き、呑み込む。これは生命の残酷なところである気もするが、他方、生きるためにはやはり仕方がないことである。
 しかしまた、私たちも自己を殺しつつ生きているのである。私たちはただ発するだけではない、息を吸う時、私たちは発するのではなく、内へ還っているのである。内へ還る時、私たちは可能態へと還るのであり、世界とはこの呼吸が不断に行われている、一つの生命活動なのである。世界は表現し、発し、呑み込み、還っていく。ここに世界は現実態でありながら、可能態である世界の構造がある。
 世界は生と死が一つになっている。私たちが表現し、発したものは、生まれ、生きるが、その後、掴まれ、咀嚼され、呑みこまれ、死んでいく。しかし呑み込まれたものは、呑み込んだものの生命となり、それはまた発せられる。その繰り返しの中に生命はあるのであり、ここに魂が蘇る可能性がある。私たちがこの世に残したいものというのは、私という表現なのである。しかし他方、表現とは不断に呑み込まれ、可能態と化していく。しかし可能態というのは死である側面を持ちながら、一方で決して潰えることのない生命の可能性でもある。存在とはこの様である。可能態の方を存在の全体、現実態の方を個々の存在であると考えるなら、存在というのは、まさに死と生の統一体であると考えなければならない。

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