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タイムカプセル

 普段生活している中で、ふと、 どうでもいい記憶が蘇って来る時がある。

 そのどうでもいい記憶の中には、どうしても知りたいと思ってしまうことも含まれていたりする。

 それは夏の終わり、テレビのニュースでタイムカプセルの話をしていた時のことである。
 子供たちがイラストや作文を書いて、未来の自分に宛てて笑顔を浮かべ、きっと幸せになっているだろうと何の疑いもないような顔をして、せっせと未来の自分に思いをしたためていた。

 そんな姿を見て、
「そんなに世の中甘くはないんだよ」
と、意地悪なもう一人の私が頭の中で呟いていた。

 その時である。

 私が小学生だった時に埋めた、タイムカプセルとやらはその後一体、どうなってしまったのだろうか。本当にどうでもいいことなのだが、ふと思い出してしまった。すると、気になって気になって仕方がないのである。

 けれども、私の人間性が信頼されるに足らないせいなのか、ただ単に同級生から除け者にされているだけなのか、それとも死んでしまったと思われているのか分からないのだが、タイムカプセルを開けるとか、開けたとかいうような話を、私は風の便りでも今まで一度も聞いたことがないのである。

 今の時代のように、真空パックにして二十年三十と、長期保存が可能な容器に放り込んだ訳ではなかったと思うので、もうとっくに朽ち果てていると思うのだが、万が一あんなものが今、掘り起こされて完璧な形で人の目に触れられたらと思うと、私は考えただけでゾッとするのである。

 何を書いたのかなんてことは覚えていないし、何を放り込んだのかも覚えていないが、昔から他の子供よりも大人びていた私のことだから、そんな大層なことは書いていないと思うのだが、だからと言って、子供らしい夢を見ない子供であったかというと、話はまた別である。

 結局、開けることのないあんなものを、何のために作ったのだろうか。

 永久に掘り出されることもなく、思い出したところで誰に連絡していいのかも分からず、もう何処に埋めたのかさえ、いや、そんな物を埋めたことさえ、もしかしたら、誰も覚えていないのではないかと、私は思うのだが、あんな物があることを思い出してしまったがために、後何十年後か分からないが、私は安心して死ぬことが出来なくなってしまった。

 子供の頃の写真を、人に見られるのが恥ずかしいのと同じで、自分が書いたものを人に見られるなんてまっぴら御免である。

 タイム プセルを埋めてから随分になるが、そんなに世の中甘くはないんだよということを、私は身をもって感じて生きて来た。

 そんな自分だから、テレビに映る何も知らない子供たちにも、
「余り大層なことは書かない方がいいよ」
と、余計なお節介と思いながらも、画面を観ながら喉まで出かかってしまったのだが、私がもし、人の子の親になっていたら、そんな我が子に何と声をかけただろうか。

 考えるだけ無駄である。

 しかし、あのタイムカプセルは一体どこにあるのだろう。発見されたところで、あの頃の自分はもういないのである。


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