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生きている時間 day15

3/28 (Thu.)
#66日ライラン day15

ミヒャエル・エンデの「モモ」を読んだ。

本を読むのは好きだ。でも、ここnoteで、好きなことは読書です、なんていうのは憚られるくらい、大人になってからは全然読んでいないし、読むジャンルもごく限られていると思う。
いちばん本を読んでいたのは小中学生、せいぜい高校生の頃で、今でも好きなのは主に児童文学、ファンタジーと言われる分野。「モモ」は初めて読んだのはおそらく小学高学年の頃だ。ミヒャエル・エンデは「果てしない物語」が有名だけれど(そしてそちらも家にあるけど)、私はどちらかというとモモの方が好きで、繰り返し繰り返し読んでいる。

大人になって、結婚して、子育てをするようになってから。この本が私に与えた価値観のようなものに気がついたことがあった。優れた児童文学作品は、易しい言葉で押し付けることなく、物事の本質的なものを物語の中に溶け込ませる。
主人公のモモが、どこからともなくやってきた灰色の男(時間どろぼう)と初めて対峙するシーン。
モモは、遊びに来ていた子どもが落としていったオモチャを相手に困惑している。モモは、その完全無欠のお人形、ビビガールと仲良くなろうと試みるのだが、ビビガールはモモの持っている宝物には全く興味を示そうとせず、その代わり何度も「もっといろいろなものがほしいわ」と繰り返す。
そしてモモは生まれて初めて、「たいくつ」という感情を味わうのだ。


私たちはこの現代社会の中に暮らしていて、物質主義を全て否定することはできない。効率とか、利益を全く無視して生活していくことはできない。こんなこと書いてる私だってもはや日々の生活とスマホは切り離せないし、AI相手にお喋りを楽しもうなんてしているのだから、矛盾しているかも知れない。
でも、コスパだのタイパだの言われるようになって久しいけれど、そんなものが生活の中心になってしまって、私たちは一体何を節約して、何を手に入れようとしてるのだろう?と、モモを読むたび考えずにはいられない。大人が読んでも、大人が読むからこそ、グサグサと突き刺さるメッセージ。

でも、「じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていること」を、大人たちは「だれひとり認めようとはしませんでした」、そして「それをはっきり感じはじめていたのは、子どもたちでした」。とエンデは書いている。
初めに気がつくのは、子どもたち。まるでカナリヤのように。
だからやはり、物語に子ども時代に触れておくことにはすごく意味があるのだと思う。


1973年の作品だが、エンデは、この物語を、ある謎めいた人物が「いまの話を、将来起こることとしてお話ししてもよかったんですよ」と語った、とあとがきに残している(この仕掛けは、物語を単に物語として終わらせない、とても素敵なラッピングだと思っていて私は気にいっている)。
作品が世に出てから50年経った今、モモとモモの友だちは、目に見えない時間どろぼうたちとすっかりそっくりになってしまった私たちを、どんな風に見ているのだろう。



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