パレスチナ PALESTINE 〜 1983年9月29日
ヨルダン川を渡って直ぐに目に飛び込んできた大看板 「イスラエルにようこそ」 〜 "Welcome to ISRAEL"
筆者が、1967年以来イスラエルが国連安保理決議に違反して占領し続けるパレスチナのヨルダン川西岸地区 West Bank に入ったのは、1983年9月28日、今から 37年前の昨日、ヨルダンからの陸路だった(厳密に言うとヨルダン川に架かる「橋」を渡っているのだが)。
その後、エルサレムを拠点に、東エルサレム、ベツレヘム、ナブルス、ヘブロン、ビルゼイトなどのパレスチナのヨルダン川西岸地区の街々、さらに1948年の「イスラエル建国」直後の戦争を経てイスラエル領となっている西エルサレム、テルアヴィヴ、ハイファ、ナザレなど、そして2020年の今現在、イスラエルが完全封鎖(物資やパレスチナ人の出入りを制限しておりこれも上記同様の国連安保理決議違反と言っていいだろう、違反と言い出したらジュネーヴ条約にも違反しているが)を続けているパレスチナのガザ地区、私が行った当時はヨルダン川西岸地区と同様にイスラエルによる軍事占領下にあったガザ地区などを旅し、10月18日にガザ市から陸路でエジプトに抜けた。したがって、3週間ほど、パレスチナとイスラエルを旅したことになる。
筆者は 1983年4月から翌84年2月にかけて当時の言葉で言う(最近は聞かない気がする)海外「貧乏旅行」をしていたのだが、横浜港から日本を発って、ロシア(当時はソ連)に入り、シベリア鉄道で(当時の)ソ連を横断、その後ヨーロッパを 2ヶ月ほど旅した後、ギリシャに入ってアテネとサントリーニ島に 1ヶ月滞在、その後の 8月から 10月の 約3ヶ月間は、トルコ、シリア、ヨルダン、パレスチナとイスラエル、エジプトの旅だった。
上にも書いたが、次の章でも書くように、ヨルダン川西岸地区(東エルサレムを含む)は、ガザ地区と共に、イスラエルが 1967年以来、半世紀以上にわたって国連安保理決議に違反しながら支配し続けている、パレスチナ人の土地である。
にもかかわらず、ヨルダンからヨルダン川を渡り、パレスチナのヨルダン川西岸地区に入った時に筆者の眼に飛び込んできたのは、イスラエル政府からの外国人旅行者に対する歓迎のメッセージ 〜 "Welcome to ISRAEL" 〜 つまり文字通り、「イスラエルにようこそ」。
以下は、当時、旅しながら毎日つけていた日記の、1983年9月28日の分、その最初の 2ページの写真。
Swedish YH との記載があるが、筆者はこの 2日後の 9月30日に、ダマスカス門(Damascus Gate, 東エルサレムつまりエルサレム旧市街にある主な城門の一つ)の近くにあった別のユース・ホステルに宿を移した。ユース・ホステルと言っても、日記の中の記述をあらためてじっくり見ていかないと確かではないが、ユース・ホステル協会に加盟しているような公式・公認のものではなかったと思う。
また、今日のこの投稿の主題からは逸れるが、上の写真、日記の 2ページ目で「オレと師匠も紙で作ったユダヤ帽をかぶり」とある「師匠」とは、トルコのイスタンブールの宿で知り合い、その後、シリアの首都ダマスカスでたまたまばったり再会、そこからヨルダンのアンマン、アカバ、ペトラ、パレスチナの東エルサレムの宿まで旅を共にした日本人カメラマン、自称「天才カメラマン」のこと。確かにいい写真を撮る人だった。職業写真家なんだから当然と言えば当然かもしれないが。6, 7歳年上だったし、その風貌もあって、「師匠」と呼んでいたのかな。呼び名の経緯は、日記をだいぶ前の時期のページまで(正確には何冊か前のものまで)遡って確かめないと分からない。
ところで、本投稿を読んでくださる方の中で、この地域の旅の事情には通じていない一方でこの辺りの地域の国々の近代史、現代史について一定の知識を持つ人ならば、ちょっと疑問に思うのではないだろうか。
曰く、1983年当時と言えば、まだヨルダンが「イスラエル」という国を認めていなかった時のはず。その時代に、ヨルダンから、イスラエルが占領するパレスチナのヨルダン川西岸地区に入ることなど可能だったのだろうかと。
それが、可能だったのである。
ヨルダンが、1979年のエジプトに次いで、アラブ諸国におけるイスラエルとの 2番目の「平和条約」締結国となったのは 1994年の出来事。したがって、私がこの地域を旅した時は、ヨルダンがまだ「イスラエル」という国の存在を公式に認めていない時期だった。
にもかかわらず、ヨルダンから、イスラエル占領下のパレスチナ、ヨルダン川西岸地区に入ることは可能だった。
事情は、有り体に言えばこういうことになるのではないか。「なるのではないか」というのもいい加減な書き方だが、要するに、当時、筆者は以下に書くように理解していた。実際にどういうことだったのか、それは改めてその筋の専門テキストでも見ないと確かめられないが、筆者はその旅の前に何かの本で読んでそう理解したのか、自分のその時の解釈込みの理解だったのか、兎にも角にもそう理解していた。
つまり、1983年当時、「イスラエル」という国の存在を認めていなかったヨルダンの政府の建前上の「論理」は、こういうことであろう。
ヨルダン川を渡ってその西岸にある地域はパレスチナであり、そのうち、1948年にシオニストのイスラエルがパレスチナの土地の半分以上を(違法に)支配するようになった以降ヨルダンが統治してきたヨルダン川西岸地区 West Bank には、1983年の今現在もヨルダンの「施政権」が及んでいる(注:実際には 1967年の戦争以来、イスラエルが軍事支配しているのだが)。したがって、ヨルダンに滞在しながら、ヨルダン川西岸地区を訪れたいと希望する外国人旅行者に対して、同地区に入るための許可証を発行するのは、当然ながら、我が国「ヨルダン」の政府である。
というわけで、当時、外国人旅行者がヨルダンの首都アンマンにある同国の Ministry of Interior, つまり内務省(「内務」省である!)を訪ね、実際にはイスラエルが軍事支配しているヨルダン川西岸地区に行きたい旨告げると、実に簡単な申請手続きを経て、翌日には許可証を手に入れることができたのであった。
ただし、重要、重大な点に触れておかなければならない。それは要するに片道切符、結局、ヨルダン川を渡った向こう側に行くだけのことを意味し、かつ、その先のことについては一切、ヨルダンの政府は不問。
以下は、当時の筆者の日記の、1983年9月20日から翌9月21日にかけてのページ部分の写真である。
「イエニペンション」とあるのは、当時トルコのイスタンブールにあった、外国人バックパッカーたちの溜まり場的な安宿。当時のレートで 1泊日本円にして 200円程度の宿で、日本人旅行者が多かった。旅の間、「日本人の溜まり場」的なところは折角の外国一人旅なんだからと基本的に避けていたが、その宿は「貧乏旅行者」が中東やアジア、あるいはアフリカ、ヨーロッパ、場合によっては南米ですら、そういった世界の様々な国・地域の旅に関わる情報を入手するのに便利な宿だった(筆者の場合は南米は行っておらず、アフリカ大陸で行ったのはエジプトのみで、ヨーロッパに関してはその時点で既に同地域の旅を終えていた)。ついでに言うと、「イエニペンション」で出会った旅人は個性的な旅人が多く、当時のイスラム革命4年経過後のイランを脱出したイラン人兄弟など含め、貴重な出会いも少なくなかった。もう一つついでに言うと、確か今世紀に入ってからだったか、前世紀末ごろだったか、残念ながら思い出の「イエニペンション」は既に無くなっているとの情報を得ている。
日記の中に、「イエニペンション出身ばかり集まった。困ったもんですね」とあるが、その宿にいたことがある旅人がたまたまアンマンの同じホテルに何人か滞在中で、自然と雑談の集まりがあって、そのことを書いたもの。「困ったもんですね」と書いているものの、要するにたまのこうした集まり、雑談、旅行情報の交換の機会は、大抵は楽しい息抜きの機会だった。
思い切り脱線話が長くなったが、ヨルダンの首都アンマンで、当時は同国と外交関係がなかったイスラエルという国が軍事支配していた(2020年の今現在も違法・不当に支配している)パレスチナのヨルダン川西岸地区に入るための許可申請をした時の、筆者の日記の記述は以下の通り。
次の写真は、上に写真掲載したページから 6ページ挟んだ先にある、1983年9月22日の日記の、最初の 2ページ分。
OMAR とは、当時親しくなって色々と話を聞いた、ヨルダンに住むパレスチナ難民の青年。
先に掲載した前日の日記に記載がある通り、たまたま同じ日に手続きをしたまでだが、9月21日に併せて近くにあったエジプト大使館に行って同国入国のためのヴィザ申請もしていて、翌22日にはエジプトのヴィザを取得し、かつ、その前にパレスチナとイスラエルを旅するために必要だった、ヨルダン内務省からの(イスラエルが軍事支配するパレスチナの)ヨルダン川西岸地区へ入るための許可についても、同日得ることができた。
空いた時間の「暇つぶし」で、近くにあった日本大使館にも寄っていることがわかる。
その後、筆者はアンマンを出てアカバ(「師匠」と呼んでいた日本人カメラマンと海岸沿いをイスラエル側の街エラートに向かって歩き、ボーダーに近づき過ぎたらしくヨルダン国軍兵士につかまって連行され、彼らの上官のテントで「優しい尋問」を受けたのが忘れられない、笑)とペトラ(超絶美しい古代ローマ帝国時代の遺跡がある、ベドウィンのテントの脇で寝袋に包まって一晩過ごし、我が人生で観た星空の中で最も美しい文字通り「満天の星」の夜空を観たのはこの地)を旅しており、ペトラからアンマンに戻り、そのヨルダンの首都アンマンから(何度も書くがイスラエルが違法・不当に軍事支配する)パレスチナのヨルダン川西岸地区に入ったのは、本投稿・本章の冒頭で書いた通り、1983年9月28日。
次の章では、翌 9月29日に、エルサレムで撮った写真を掲載する。
エルサレム 〜 1983年9月29日
最初に掲載するのは、この日の日記の冒頭 2ページ部分。
ユダヤ教徒の聖地、いわゆる「嘆きの壁」のところを通った時の記述は、一応抜き書きしておくと、
「ユダヤ人はやっと安住の地をつかんだ。パレスチナ人を追い出して」。
また、イスラム教徒の聖地、「岩のドーム」に関する記述のところ、「真中にムハンマドが昇天した岩」とあるが、より厳密に書くなら、「真中にムハンマドが昇天したとされる岩」、もしくは「真中にムハンマドが昇天したとイスラム教徒が信じている岩」。筆者はイスラム教徒ではないし(そもそも無宗教、一切の宗教を信じていない、むしろ宗教という、人類が編み出した思想の一つには、極めて批判的である)、当然ながら、そのような御伽噺は一切信じない。
2ページ目の 1行目、見えにくい部分の記述は、「<岩の外、ドームの中>でも祈ってる。あたりは厳戒体制」(この漢字は些か不適切で、「厳戒態勢」と書くべきところかと思う)。
2行目から 3行目にかけては、「モスクもドームも入口はアラブ人がチェックしてるが(荷物持込み不可、しかも遠くへおかされる)、離れてイスラエリソルジャーがいる」(「アラブ人」は、ここではつまり「パレスチナ人」、「イスラエリソルジャー」は "Israeli soldier", すなわち軍事占領を続けるイスラエルの国軍の兵士のこと)。
以下の 7枚は、今からちょうど 37年前の今日、1983年 9月29日に撮った写真。
シオニスト達と「イスラエル」という名の国家の権力に土地を奪われ続けているパレスチナ人
前の章では筆者が 1983年9月29日にエルサレムで撮影した写真を掲載したが、エルサレムはそもそも、1947年11月29日に(当時新たに設立されてまだ間もない)国連で、まだまだ中東地域を含めて世界には欧米諸国に植民地支配された国が圧倒的に多く、詰まるところ加盟国も少なくアメリカ合州国と欧州諸国が支配的だった国連総会において決議された(総会決議181号)、あの極めて不当な内容の「国連パレスチナ分割案」においてすら(どれだけ不当だったかの概略は本章の後半に記す)、同市は国連を施政権者とした信託統治下に置くものとされていた場所である。つまりは、旧市街のある東エルサレムはもちろん、西エルサレムも含めて、エルサレムはイスラエル領ということになっていなかった(上述の通りで「パレスチナ」領ともされず国連の信託統治領とする案)。
また、国連安保理決議242号(1967年11月22日採択)は、1967年の戦争のイスラエルによる軍事占領地、すなわち東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区とガザ地区からのイスラエルの撤退を要求しているわけだが、イスラエルはこの決議に、以来半世紀以上にわたって違反し続けている。
したがって、ことエルサレムに関して述べるだけでも、イスラエルはエルサレムの西半分、西エルサレムを、同国の一方的な「建国」宣言直後の第一次中東戦争(1948年)によって支配下に治めるようになり、さらに、残る東エルサレムについては、1967年の第三次中東戦争以降、同地域を含むヨルダン川西岸地区とガザ地区を軍事支配することになったイスラエルの占領下に置かれることになったため、結果、現在に至るまで、エルサレム市の全域をイスラエルが実効支配するという、当初の不当な、1947年に国連総会で決議された「国連パレスチナ分割案」にすら当て嵌まらず、かつ 1967年に採択された国連安保理決議にも違反するという、何とも不当で、かつ違法な占領の実態が続いていることになる。
以下に載せる地図の 1枚目は、1947年当時のパレスチナ PALESTINE の地図。この古来「パレスチナ」と呼ばれる地は 16世紀以降オスマントルコの帝国が支配していたが、オスマントルコは第一次世界大戦で敗れ、戦勝国イギリスが 1918年にパレスチナの占領統治を開始、1920年から1948年までは、「イギリス委任統治領パレスチナ」、英語で表記するなら、"British Mandate for Palestine" もしくは "Mandatory Palestine" だった。
ところで、1918年と言えば、19世紀末からのシオニズムによるユダヤ人のパレスチナへの移民運動、欧州における何世紀にも及ぶユダヤ人差別、とりわけ 20世紀に入ってからのナチス・ドイツによるユダヤ人に対する弾圧と虐殺「ホロコースト」等に並び、2020年の今日にまで及ぶ「パレスチナ問題」の原因をかたちづくる重大な要素の一つとして、イギリスがパレスチナの占領統治を始めた 1918年の直前の 3年間に行なわれた、悪名高い「イギリスの三枚舌外交」に触れないわけにはいかないのだが、今日のこの投稿の中では、とりあえずその 3つを列挙するに留めることにする。
すなわち、1915年10月のフサイン=マクマホン協定(中東地域におけるアラブ諸国独立の約束)、1916年5月のサイクス・ピコ協定(フランス、ロシアと結んだ同三ヶ国による中東地域の分割支配を目論んだ秘密協定)、そして、1917年11月のバルフォア宣言(イギリスの当時の外務大臣アーサー・バルフォアが表明した、イギリス政府によるシオニズム支持表明)。
なお、1918年に関してもう一点述べておくと、イギリスが実施した人口調査によれば、当時のパレスチナに住むアラブ人(現在、一般に「パレスチナ人」と呼ばれる人たち)は 700,000人、それに対してユダヤ人の人口は 56,000人で、シオニズムによるユダヤ人のパレスチナへの移民運動は 19世紀末に始まっていたが、1918年時点では、パレスチナの地におけるユダヤ人は、まだまだ極めて少数派だったのである。
次に、以下の地図を見てもらいたい。
上に掲載した パレスチナ人の土地所有の変遷を表わす地図は 2018年時点のもので、すなわち、右端は 今から 2年前の状況。細部を厳格に、正確に表わすのなら、イスラエルのこの間の新たな違法入植地建設によって、パレスチナ人は 2020年9月現在、さらに土地を失っている。
1947年の Partiton Plan とは、同年11月29日に、当時まだ加盟国数は今現在よりずっと少なく欧米諸国が支配的で且つアメリカの強い影響下にあった国際連合の総会で決議された(決議181号)、極めて不当、不公正な内容の「国連パレスチナ分割案」(United Nations Partition Plan for Palestine) を指す。
何が不当で不公正であったかと言うと、一言で言えば、その時点の、イギリスによる委任統治領下のパレスチナに住んでいた人々のうちの多数派であったアラブ人(現在「パレスチナ人」と呼ばれる人々に当たる。以下あらためてパレスチナ人と呼ぶ)の意思を全く顧みず、かつ、彼らパレスチナ人と当時のパレスチナに住んでいたユダヤ人の人口および土地所有率の対比を全く無視した分割案だったということ。
具体的に言えば、1947年当時、ユダヤ人のパレスチナの地における土地所有率は、それ以前の数十年間にわたるシオニズムによる急激な移民の動きを経ても尚わずかに約7%だった。これはある意味当然のことで、19世紀末からのシオニズムによる移民運動と、さらにパレスチナ人とは全く関係の無い20世紀のナチス・ドイツによるユダヤ人迫害・虐殺などに象徴される欧州でのユダヤ人への人権弾圧の影響を受け、ユダヤ人のパレスチナへの移民の動きが加速化したために、パレスチナにおいて極めて少数派だったユダヤ人の人口が急激に増加した結果、1947年当時、その時点の人口に比してユダヤ人の土地所有率は非常に小さかったのである。
人口に関して言えば、当時この地域に 130万人いたパレスチナ人に対して、ユダヤ人の人口は、上述のそれ以前の数十年間にわたるシオニズムによる急激な移民の動きを経てユダヤ人人口が急増したという背景がありながらも、その時点で 60万人と半分以下(その他にアルメニア人などの少数民族)。
にもかかわらず、件の「国連パレスチナ分割案」は、国際管理下に置くとされたエルサレムを除くパレスチナ全土の土地のうち 57% をユダヤ人側、すなわち、パレスチナ人(アラブ人)側の意思を無視して新たに建設しようとする「イスラエル」という国に与えるという、とんでもなく、というか恐ろしくというべきか、極めて不公平・不公正な内容の、パレスチナの土地分割案だった。
..............................................
なお、上の「パレスチナ人の土地所有の変遷を表わす地図」に続くテキストは、本年 9月10日に note に投稿した筆者のテキスト「ユヴァル・ノア・ハラリ と 彼を礼賛する人たち が見ないもの、あるいは見ようとしないもの」の中の、「イスラエルの建国 (1948年) 以来、イスラエルに土地を奪われ続けるパレスチナ人たち」と題した章に掲載した筆者自身のテキストの内容を、ほぼそのまま転載したものである。
"Border Ctrl." ♫ ー Palestinian Jordanian electronic music group, 47Soul
今日のこの投稿においては付録的なもの、音楽の紹介だから、文字通り Bonus Track の章と呼んでもいいと思う。
ごく最近知った、パレスチナ系ヨルダン人の若者によるエレクトロ系の音楽のバンド 47Soul が、今年リリースした新譜アルバムに収めた曲, "Border Ctrl." というタイトルの曲を、最後に紹介したい。
なお、この曲では、パレスチナ系イギリス人の女性ヒップホップ歌手で MC, ラッパーの Shadia Mansour, そして、同じく女性でロンドンをベースに活動しているドイツ人とチリ人を両親に持つ MC, ラッパー、詩人でもある Fedzilla が、フィーチャーされている。
一応、歌詞を載せておくが、筆者はアラビア語を「ありがとう」「どういたしまして」他の挨拶程度しか解さないし、アラビア文字となると全く分からない。ネット上を英訳が出ていないか漁ってみたが、現時点では見つからないので(いずれ何処かの歌詞サイトが英訳を試みてくれるものと期待している)、とりあえずアラビア語の歌詞と英語で歌っている部分の歌詞を、そのまま以下に載せておく。
ダブケ Dabke と呼ばれる、パレスチナを含む中東地域に古くから伝わるアラブの舞踊、そのダンス、リズム、ステップが使われており、極めて興味深い音楽になっている。ノリもよく、筆者は、1回聴いて直ぐに気に入った。
Lyrics | الكلمات
دقدق ع المجوز و دقدقنا
ما ضل حدى الا تسلقنا
تقلقنا تنعرف مين إحنا
و احنا مفرقنا الي مانحنا
و تفضل على الصف
الكل يتفضل على الصف
هاي طلبوا الهوية
يابا طلبوا طلبواالهوية
إجا يرمح و يقنعنا بصفقة
وانا واقف و بتصدى الصفعة
يا شعبي سمعني الصفقة
ولا تفتح و لا تقلب صفحة
و تفضل على الصف
الكل يتفضل على الصف
هاي طلبوا الهوية
يابا طلبوا طلبوا الهوية
This border control
Congesting our soul
Taking its toll on us all
we gonna dissolve
this Mexico Bethlehem wall
If you hear us heed the call
هذا الصف كراهيتهم
صف همجيتهم
صف بشاعتهم
يصف إستقبال يوسف إذا جاء
بوصل على باب مغلق
بنوا اقفاص للاطفال لإثبات إنسانيتهم
لو بشوف الجمل حردبته بيوقع وبفك رقبته
بإختصار مش احنا عبرنا الحدود لا
يابا بلعكس الحدود عبرتنا
من غزة الضفة القدس للمكسيك، حنسقط
جدار الخرساني ونبني محله جدار بشري
This border control
Congesting our soul
Taking its toll on us all
we gonna dissolve
this Mexico Bethlehem wall
If you hear us heed the call
Bienvenido a la fila,
que definirá tu vida
Que separa tu pasado de un futuro sin hawiyya
Condenado sin la visa, esta línea no se pisa,
Dicen jueces arbitrarios con razones imprecisas
و تفضل على الصف
الكل يتفضل على الصف
هاي طلبوا الهوية
يابا طلبوا طلبواالهوية
Documento estampado, permiso rechazado
Juntos enfrentamos injusticias del Estado
Palestino Latino Andino no será callado
Palestino Latino Andino no será callado
و تفضل على الصف
الكل يتفضل على الصف
هاي طلبوا الهوية
يابا طلبوا طلبوا الهوية
This border control
Congesting our soul
Taking its toll on us all
we gonna dissolve
this Mexico Bethlehem wall
If you hear us heed the call
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?