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神戸の中華そば屋『もっこす』のスープに溶け込んでいたもの

僕はラーメンが好きだ。
もっと言うと、神戸は『もっこす』の中華そばが好きだ。

きっかけは学生時代、大変にお世話になった(勿論今も)先輩に連れて行ってもらった時。火の国・熊本がふるさとの僕にとって、『もっこす』と言えば『肥後もっこす』のイメージが強く、一人暮らしをしつつも若干のホームシック気味だった僕にとっては救いの言葉だったのだろう。神戸でそのワードを聞けるなんて思ってもみなかったものだから、耳に入った瞬間から好感を抱いたのを覚えている。行ったら行ったですぐに『もっこす』のファンになった。そして、ご馳走してくれた先輩は、僕が美味しそうに食べる姿に満足しているようだった。

僕は神戸に行くと毎度のように『もっこす』に足を運ぶ。そこで僕は、学生時代を過ごした過去の記憶を呼び起こす。

食わず嫌いワードの結構上の方にいた『贈与』

贈与と賄賂。

話は全く変わるのだが。
なんとなく。
なんとなく似ていると思って、『贈与』という言葉に対してネガティブさを感じ、食わず嫌いになっていた。

思い込みは、よくない。というのは、こんな本に出会ったからである。

世界は贈与でできている

個人的に好きな内田樹先生の思想を目次で見かけたことや、錚々たる著名人が帯を書かれていたこともあり、そして何より、なんとなくその時モヤモヤしていたことが解消されるんじゃないかという、謂わば博打的な直感が働いて、気が付いたら会計を終えていた。

もうね、これは目から鱗のオンパレード。
読み始めたらとまらなかった。
僕はこの本を『読んでよかった オブ ザ イヤー2020 powered by おれ』の大本命に推薦している。ちなみに、表彰式的なそれはない。

表彰式的なそれがない分、一人でも多くの人に読んでいただきたいと思い、NewsPicks パブリッシングが本書を一部公開するという大出血サービスをしていたので、そっと置いておく。これを読めば、続き読みたさに年末年始の炬燵の上には高確率でこの本が積まれていることだろう。僕の取り留めのないnoteとは大違いだ。

誤配に気づくこと

この人にはまた後日会えるから今は他のことを優先させよう、とか、バスが少しでも遅れるとイラついてしまったりすることがあるかもしれない。だけど、それって当たり前なのだろうか?と考えてみる。

今現在、この社会が成立しているのは、これまでの先人達や今を生きる人全員の仕事のおかげだということ。こと日本に至っては、テクノロジーの進歩で便利な暮らしができ、コモディティ化するほどにモノもありふれている。だけど、それはもしかしたらたまたま生まれたモノ・コトなのかもしれない。『世界は贈与でできている』ではこのことを『誤配』と呼んでいる。

『世界は贈与でできている』を読んで、僕は『我慢』ができない人間になりつつあったと気がついた。

お金を払うと、基本的にはそれと交換に何でも手に入ってしまう。資本主義社会がこの『交換』を基礎として成立している性質上、慣れてしまうと僅かな綻びにも『我慢』できず、寧ろ『感謝』することを忘れてしまう。普段受け取っているモノ・コトの作り手との距離が遠ざかれば遠ざかるほど、世の中が便利になればなるほど、僕たちは感謝することを忘れてしまう。

世の中にある沢山のモノ・コトが、『誤配』的な側面を持ちうることに気が付くと、優しくなれる気がする。

そうだ、神戸に行こう

ふと、学生時代を過ごした神戸に帰りたいと思った。これからの人生やキャリア、なんだか色々と生き急いでいたと自分でも思うが、心の中にあるモヤモヤを恩師や先輩に相談したいと思った。

六甲道駅の改札を出て、36系統は鶴甲団地行きのバスに乗る。母校の学部名は変わっていて、だけど、研究室では変わらず恩師や院生の先輩方、そして4年間を共に過ごした同期、頼もしい後輩が優しく迎え入れてくれた。卒業してから毎秋顔を出しては、歓迎してもらえる。ありがたいことに、これだけはずっと変わらない。

学生時代はよく遊んでいたけれど、卒業後は連絡したり食事に行ったりすることがめっきり減ってしまうのが一般的なのかもしれない。だけど、今も結構な頻度で連絡を取り合っているし、毎度温かく迎え入れてくれる。これは当たり前でないと思うし、そして居心地がいいと思えるサードプレイスがある喜びは、何にも代えがたい。

相談しようと思って意気込んでいたことはすっかり頭の中から消え去っていた。心にへばりついていたモヤモヤはもはやどうでもよくなっていて、一方で清々しい喜びと感謝の気持ちで僕の心は満たされていた。

研究室を後にして、僕は先輩と同期と共に『もっこす』へと向かう。

神戸の中華そば屋『もっこす』のスープに溶け込んでいたもの

世の中の沢山のものに『誤配』的な側面があるという意味では、人と人との出会いもまた『誤配』なのだろうか。僕が学生時代を神戸で過ごしていなかったら、また、神戸でできた友だちや先輩・後輩、恩師、…。色んな人が神戸での生活を選択していなかったら、僕たちは出会っていない。当然っちゃ当然のことなんだろうけど、やっぱり奇跡だったんだなぁと、ようやく気が付いた。そして、それは今の生活に置き換えても同じである。だからこそ、忘れかけていた『感謝』を思い出さずにはいられないし、これからも目の前にいる人たちに『ありがとう』を体現し続けたいと思う。

僕は『もっこす』の中華そばが好きだ。神戸に遊びに行くと、必ず石屋川店の暖簾をくぐり、スープを飲み干すほどには大好きだ。チャーシュー丼を併せて食べたり、厚切りのたくあんもつい食べ過ぎてしまう。食べ○グとか、この世には素晴らしく便利なツールがたくさんあるし、そういうもので飲食店を選ぶのも勿論いい。寧ろ僕は結構なヘビーユーザーかもしれない。でも、『もっこす』だけは、評価的なそれから逸脱した選び方をしていると思う。

『もっこす』のスープには、神戸で過ごした記憶の全てが凝縮されている。僕はこれからもずっと『もっこす』に行くし、学生時代の思い出と共にスープを味わっているだろう。

過去とふれあえる、帰れる場所があることが、本当に幸せだ。

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