白刃の女神(第十一部 魔法使い) 後編 第十一部完

 身支度を整えて、おじさんとおばさんとどこに行こうか
あれこれ考えていると、訳の分からない音楽が鳴り出した。
音を頼りにケータイを取り出すと、そこには私の名前がのっ
ていた。
 ――まるで、何かのホラー映画ね。ふふ。きっと、そうな
ら、絶対にこれをとっちゃいけないわ。
 ところで、その音楽はなかなか黙ってはくれなかった。
 ――まったく、あの子ったら。せっかく変わったというの
に。
 「あ、もしもし? 私よ?」
 ――なかなかどうして、これは本当にホラーね。自分の声
を電話口から聞くなんて、ゾッとするわ。
 私は寒気を取り払おうと、本来の自分の口調でふざけてみ
ることにした。
 「どこにおかけになっているのかしら? そんな番号知ら
ないの~。正しい番号をプッシュしてね」
 すると、電話口から怒った私の声が聞こえてきた。
 「ちょっと! よしてよ! 私の声で変な真似しないで!」
 「……冗談だろ? こうでもしないと気が狂う。それで、
何の用なのだ?」
 「あ、あのね。お願いがあるの」
 「そうか、残念だが、それはお断りだ」
 「ちょっと! 用件ぐらい聞きなさいよ!」
 「あぁ、なんだ。せめて、聞いてやるから手短に話せ」
 「せめてって……今日ね、午後からお友達と遊ぶ約束になっ
ているの。それで、なんとか仮病つかっていまから断ってほ
しいのよ」
 「あぁ、そういうことか。じゃぁ、私はさっそくテレパシー
を送ることにしよう」
 「……ホント、ドバカ。電波ぐらい使って」
 「世話のかかる奴だな、おまえは。怒らせたって私は知ら
ないからな」
 「あ、うん、ごめんね? 真紀子と静香と由香って子。メ
アド入ってるから、お願いね!」
 そう言って、国嶋さんは電話を切った。
 ――ホント、一方的なんだから。メアドって言われても……
ひとのケータイいじる趣味なんてないんですけど。そもそも、
メールでドタキャンなんてあんまりだわ。
 気乗りはしないけれど、私は3人に電話をすることにした。

 結局、私はおばさんとどこにも行けなくなっちゃった。友
達と遊びに行くことをおばさん知っていたし、ドタキャンし
たこともバレちゃった。誰かさんのせいですっかり気落ちし
て、お庭でポチ子に慰めてもらうことにした。
 お庭に出ると、すぐさまポチ子がかけよってきた。
 ――ふふ、かわいい子~。この子は私が爽香だってこと分
かるのかしら? よしよし。
 口元をさすってあげるとポチは気持ちよさそうにして、お
腹を見せた。
 「こら、はしたないぞ、ポチ」
 すると、ポチはふいに起きあがって、門の方を警戒しだし
た。
 ――誰か来たのかしら?
 そう思うのと同時に、遠くで女の子たちが見えた。私は大
急ぎでお部屋に入って、おばさんに頭を下げた。
 ――なんてことなの……あの子たち、きっと、国嶋さんの
お友達だわ。

 大慌てでパジャマに着替え直してベッドにうずくまってい
ると、恐れた通りに国嶋さんのお友達が入ってきた。
 ――やっぱり、電話の3人だ。
 顔は知っているけれど、私と違うグループの子だし、正直
言って、苦手なタイプ。あんまり話さなくてもいいように季
節はずれのマスクをしているけれど、ちょっとこれからの時
間が億劫だわ。
 「彩香、クーラー病だって?」
 と、入ってくるなり静香さん。確か愛称はしっちゃんね。
国嶋さんは基本どの子も呼び捨てだけど。
 私が気だるそうに目をあけて起きあがると、
 「こらこら、寝てなって。彩香? アンタ、病人なんだろ」
と、言うのは由香さん。愛称はゆっちゃん。
 それから、無言のまま私に近づいてきて、微笑んでくれた
子が真紀子さん。愛称、まっこ。
 みんな教員からも好かれる、正統派の良い子さんたち。
 彼女たちがベッドのそばに座ったのを見て、私はあきらめ
てマスクをとった。
 「……何しに来たのだ」
 「まった~、彩香ったら。せっかく、お見舞いに来てあげ
たのに」
 そう言って、しっちゃんは私のほっぺを指先でつついてき
た。
 「やめなよ。彩香、苦しそうじゃんか」
 ゆっちゃんは私を抱きしめてしっちゃんに抗議した。そん
な様子を他所に、まっこはまだ私に微笑んでいた。
 ――ちょっと、怖い。
 「でも、ざんね~ん。せっかく今日、彩香と騒げると思っ
たのにさぁ」
 「……おまえ、文句言いに来たのか?」
 国嶋さんが私にたまにそうするように、ちょっと横目で睨
んでみた。
 「お、まっこ喜べ。彩香、元気みたいだ」
 でも、効果はなかった。それどころか、その言葉の先にい
た、まっこが肩を揺らしてまた小さく笑った。
 「でも、ちょっと安心した。彩香? 元気になったらまた
誘ってよ。うちらでよかったらさ、愁君のグチでもいつでも
聞くから」
 隣にいた、しっちゃんがゆっちゃんを押し退けて顔を近づ
けた。
 「そうだって、早いとこカラオケ行こ? な?」
 「おまえ、カラオケ行きたいだけだろ?」
 「あっちゃ~、バレた?」
 ゆっちゃんがお腹を抱えていた。
 「でもさ、真面目な話、愁君と何があったのかしらないけ
ど、うちら力になるからさ。前は……全然そういうことして
あげられなかったけど……もうさ、そういうのはうちらもや
だから」
 急にしっちゃんが恥ずかしそうに笑みを浮かべた。
 「そそ、うちら3人でも愁君くらい平気にやっつけちゃう
から」
 しっちゃんとゆっちゃんが急に取っ組み合いを始めた。な
んだかよくわからないけど、兄さんの危機みたい。
 「別に酷いことされたわけじゃ……」
 「まぁまぁ、もしよ? もし。万が一の話」
 しっちゃんはそう言って、私の頭を軽く叩いた。
 「あ、ちょっとタオル代えてくるよ」
 「あ、私も。まっこは?」
 まっこは首をふって、しっちゃんとゆっちゃんは部屋を出
ていってしまった。
 ――まっことふたりきり……んー、なんだか、とてもき気
まずいわ。
 「……あのね、彩香」
 まっこがやんわりとした口調で静かに話しかけてきた。
 「あのふたり嬉しそうでしょ?」
 「あぁ。人が病気だっていうのにな」
 顔を見ると見透かされそうで、彼女には背を向けて答える
ことにした。
 「ほんとにね。でも、違うんだよ? 嬉しそうなのは彩香
が今日誘ってくれたからなの」
 「……なんだ、それじゃ普段私から誘わないみたいじゃな
いか」
 「違うの……そうじゃなくて。彩香、愁君と何かあっても、
私たちにはあまり話してくれないじゃない?」
 「そんなことは……」
 ――困った……背を向けてもボロが出そう。
 「それはね、デートして楽しかった話とかは聞かせてくれ
るけど……でも、困ったこととかは言ってくれないでしょ?」
 ――えっと、私の前ではいつも不満ぶちまけているんです
けど。
 「それが……あのふたりにはね、本当はとっても悔しそうっ
ていうか。だって、桜さんには色々と話しているみたいだっ
たから」
 「あいつとは……ただ、喧嘩してるだけだ」
 「うん、そうね、いつも喧嘩してるみたいだけど……でも、
彩香、私たちの前では桜さんのこと絶対に悪く言わないじゃ
ない? 私もね、悪い子だとは思わないけど、あの子たちの
グループはちょっと……ね?」
 「……ねってなんなのだ? あいつらだって別に悪い奴ら
じゃないだろ」
 「わかってるよ……でも、そんなこと彩香には言ってほし
くないの!」
 まっこが変だ。声がかすれている。私は背を向けるのをや
めにして、仰向けになって横目で彼女を見た。
 いまにも泣き出しそうだった。
 「ほんとのこと言うとね、みんな不安だったの。向こうに
彩香を取られてしまいそうで。でも、悩み事とか全部、桜さ
んに持っていかれちゃって。私たちはなんなんだろうって……
でも、みんな間違っても彩香を責めたりなんてしてないのよ?
話せなくしたのは……私たちの方だってちゃんとわかってる
から」
 まっこの目はいま、塞ぎがちだった。
 「愁君と付き合うまで彩香の悩み、ずっと見て見ぬふりし
てきたから。だから、あのふたりも、ずっと気落ちしちゃっ
てて……だからね? 彩香が愁君がどうのって言って、今日
誘ってくれたことが本当に嬉しくて……それで、その」
 まっこは一度唇をかみして、塞ぎ込んだ顔を上げた。
 「今日は残念だけど、でも、よかったら私じゃなくてもい
いかから、あのふたりにでも、また今度話してあげてね? 
お願い」
 私は横目で見るのをやめて、天井をみつめた。
 「……そういうのってかっこ悪いだろ。あんまり見せたい
ものじゃない」
 「彩香っ……」
 「だって、おまえらは……友達だ」
 ――何を言っているのだろう、私。でも、何か言ってあげ
ないと……あの子らしい何かを。なんかちょっと複雑だけど。
 「恥ずかしいとこ見せたくないんだ。……許してくれ、真
紀子」
 「……うん。でも、何かそれ、好きなひとを相手にしてい
るみたい」
 まっこの表情に少しだけ明るさが戻ってきた。
 「ん? 変か? おまえは私の好きな奴だ」
 「彩香ったら。それ聞いたら、白鳥さん、悲しむわよ? 
せっかくだけど、やめとくわ。私は彩香と友達でいたいから」
 「ちぇ……まさか、真紀子にふられるなんてな」
 「ふふ、傷ついた? でも、彩香? 浮気はダメ」
 「お堅い奴だ」
 ――こんな冗談話でよかったのかな。
 でも、まっこの声はまたかすれて、ありがとうって言って
くれた。
 「礼を言うのはこっちだろ。変だぞ、真紀子」
 「ふふ、そういえばね……」
 そう言いかけたところで、タオルを代えに行ったふたりが
戻ってきた。まっこは言葉が途切れたままふたりのところに
行って、タオルを彼女たちからもらった。まっこはそれを私
の額に乗せると、ふたりの背を押して出ていった。
 「真紀子? なんなのだ?」
 「ううん、今度でいいから。長居してちゃ眠れないだろう
し」
 「あ、あぁ」
 ――それも、そうね。これ以上、私が立ち入るのはよくな
いわ。ちょっと、気になるけど。
 「あ~それじゃ、うちらも帰るから。お大事に……と、あ、
彩香? 明日、無理して試合こなくていいからね」
 「そうそう、そんかわり、来週カラオケ行こうな?」
 まっこはやっぱり無言で、でも、来たときとはまた違った
笑顔で出ていった。
 国嶋さんにしか読み解けない、何かのメッセージをそこに
残して。

 天井をしばらく見上げていると、彼女たちの元気な声が響
いては消えていった。
 しばらくして、おばさんが入ってきた。
 「彩香、もう帰ったわよ?」
 「あぁ……すまない」
 そう言って、半身を起こすとそばにおばさんが腰をかけて
きた。
 「もう、どうしちゃったのよ? この子ったら。みんな心
配していたわよ?」
 私は押し黙っていた。
 「いいわ、無理には聞かない。でも、大切にしてね? お
母さんにとっても、大切な子たちよ?」
 ――大切な……か。
 私はおばさんに崩れ落ちた。
 ――そうよね。あの子たちもそうみたいだけど、国嶋さん
なら尚更よね。
 私が国嶋さんを傷つけてしまったなら、きっとおばさんは
凄く悲しむ。もちろん、おじさんだって。それに、お見舞い
に来てくれたあの子たちも……間違いなく悲しむ。
 兄さんのことを少し考えすぎていたかもしれない。国嶋さ
んはとってもお邪魔な子。でも、兄さんが幸せになるために
必要だからそれもしょうがない。それくらいにしか考えてい
なかったんだ、きっと。もしくは、徹底的に自分をいじめて
言うなら、サンドバッグね。
 兄さんの幸せのためだって言い聞かせてみたけど、本当の
私は納得してくれなくて、とてもつらかった。国嶋さんが兄
さんと一緒にいることが。だから、それで耐えきれなくなら
ないように、サンドバッグみたいに国嶋さんに意地悪なんか
して、八つ当たりしていたんだ。
 でも、そんなことしていいわけはなかった。当たり前だけ
ど。私が兄さんを大切に思うように、国嶋さんを大切に思う
人たちだっているのだから。
 本当にこんな当たり前のことに私は全然気がついてなかっ
た。不思議なくらいの欠陥。でも、いまは痛いくらいにそれ
がわかる。身体の内からも外からもこんなにも温かい。
 きっと、この温もりが国嶋さんなんだ。
 小さな鼓動の音に、国嶋さんが見えた。私はその彼女を前
にして、一言だけ宣誓した。

 「なぁ、母さん」
 「うん? なに?」
 「家族って……いいものだな」
 私はそう言って、おばさんの腰に手をまわして顔をうずめ
た。
 「困った子ね、彩香は。そういうことは、こんなときに言
うものじゃないわ。母さん、怒っているのよ?」
 私はうずめた顔を上げて、上目線で謝った。ついつい怒っ
た兄さんの対処方を実践してしまった。
 ――そうなんだ、私の意識がもう戻ろうしている。
 「あ、あぁ、すまないと思っている」
 「えぇ、そうね。反省なさい。……ところで」
 と言って、おばさんは私を引き離した。バレたかと思って、
冷や汗をかいた。でも、それは徒労に終わった。
 「さっきの答えだけど、母さんも彩香がいてくれて本当に
よかったと思うわ」
 卑怯すぎる微笑のなかに、この身体の温もりが一層に増し
てきて、私の意識がもうそろそろ完全に離れてしまいそうに
なった。
 「親父はいいのか?」
 「あらやだ。忘れちゃってたわね」
 綺麗と可愛い、おばさんはそのどちらも持ち合わせている
ズルイ人だと思った。
 「あと、ポチも」
 「えぇ、その子なら忘れていないわ」
 おばさんはそう言って、きつく私を抱きしめた。
 「でも、なんていっても彩香ね」
 「ちょ、ちょっとよせ。苦しいだろ」
 「ふふ、ダ~メ。罰よ。観念なさい」

 やっぱり、国嶋さんは恨めしい。こんなにも温かい温もり
に満たされている。でも、きっとこれは私だから感じるのだ
とも思う。私がこの身体にとって異質だから。
 ――それなら、私にも同じような、ううん、これとはまた
違った温もりが溢れているのかな。もちろん、誰も近寄らな
くなった時期でもずっとそばにいてくれた友達のことは忘れ
てないし、この先もずっとそう。でも、私が確かめたいのは
やっぱり、家族。
 目を閉じて、心のなかで呼んでみた。でも、そこにいたの
はお母さんでもお父さんでもなかった。
 そこにいたのは、やっぱり……あの人。
 毎日私のためにご飯を作ってくれる、兄さん。私がお菓子
をついつい食べ過ぎちゃうと、怒って残りの全部を食べてし
まう、兄さん。問題が起こると決まって柊を私の護衛によこ
す、兄さん。私のことが気になって夜中一歩も外に出られな
くなった、兄さん。お母さんとビデオチャットができるよう
に人知れず日程調整してくれる、兄さん。どんなとこにいて
も必ず迎えに来てくれる、兄さん。
 浮かんでくる言葉の数だけ、目の前が幾重にもぼやけて見
えた。私はこんなところでいったい何をしているんだろう。
私にだって、家族がいるのに。私はそれをずっと否定してき
たんだ。兄さんが私のこと家族として支えてくれたのに、私
はそれを嫌って投げ出したんだ。
 恋人になりたかった。いまでも、やっぱりその形に固執し
ているんだ。だから、こんな真似しちゃうんだ。
 家族ってどんなものだろう、なんて浮かれてひとの家にそ
れを求めたりなんかして、本当にドバカ。私はなんて酷い子
なんだろう。
 おばさんに負けないくらいの温もりを、兄さんがずっと私
に与えてくれていたのに……。
 ――帰ろう、兄さんのところに。私の大切な家族のもとへ。
 形なんて関係ないの。

―――――――――――――――――――――――――――

 爽香のいう展望台とはこんなに遠いものだったのか。
 私は味気ない無数のビルを見下ろしながら、アイスティー
を飲んでいた。早く到着し過ぎたからといって、愁は私を映
画に誘ったのだ。ちょうど、いまその映画を見終えてくつろ
いでいるところだった。キャラメルのなんとも甘ったるい匂
いに頭痛がする。
 「ねぇ、兄さん、本当に良い夜景見られるのかな?」
 「さぁな~、でも、こっから見るぶんにはひでぇ有様だな?」
 愁はここから見える景色と同じくらい薄暗い笑みをつくっ
て言った。
 「……もぉ」
 「もうちょっと暗くなりゃ平気だって。それに、見るとこ
はもっと上だしな。そろそろ、行こうぜ?」
 愁はそう言って、私の空の容器を奪ってゴミ箱に入れた。

 映画館は3階だった。一度、1階まで戻ってから別館に移
り、46階までエレベーターに乗って行った。このエレベー
ターは随分とせっかちで、何かに打ち上げられたみたいだっ
た。と、いっても、静穏すぎてそういうたとえもどうかとは
思ったが。
 46階までつくと、一つ上まで耳鳴りと格闘しながらエス
カレーターに乗って、プロムナードを目指した。
 重苦しい雰囲気は苦手だ。チケットの購入が券売機だった
から、幾分か救われた気分だ。訳の分からないトンネルを抜
けると、ようやくプロムナードについた。
 「すごぉ~い! ねぇ、兄さん、宝石箱?」
 愁は肩をすくめると、にこりと笑った。愁は私とは対照的
に黙っていたが、どうやら、愁の奴も感動しているようだっ
た。
 「ランドマークタワーとはまた違った良さがあるな」
 「そ、そうね、こっちはなんとも開放的」
 愁の身長の何倍もある窓ガラスが建物の壁となって360
度パノラマに広がっている。そのパノラマを連れ立って歩い
て回れるのだ。しかも、天井からは自然の風が入ってきて涼
しかった。
 ――ところで、こいつ。ランドマークタワーも爽香と行っ
ているのか。
 闇に紛れて蹴ってやろうかと思ったが、その前に左手首を
愁につかまれた。
 ――おい、どこへ連行する気だ。
 「あれ、見てみろよ?」
 愁は私に有無を言わせずに連れ出すと、目の前の建物を指
差した。愁の指差したすぐそこには歪な形をした建物がデカ
デカと建っていた。
 「なにあれ~。ハ……ル?」
 「専門学校じゃないか」
 「ふ~ん、でも、なんであんなに捻じ曲がってるのかしら?
兄さんが建てたの?」
 愁は笑って私の頭を押した。
 「どういう意味だよ?」
 「でも、凄いね。あれでいて地震がきても大丈夫なんでしょ
う?」
 「ん、まぁ、そうなんだろうな」
 身体が変わると、性格も変わるのだろうか。決して、ロマ
ンチストではないのだが、ここはまるで雲の上を歩いている
ような気分がした。目の前には広大な夜景が広がっていて、
光の道が綺麗にいくつも見える。
 「ねぇねぇ、あれ見て? 名古屋城じゃない? ヤダ~、
ミニチュアみたいでかわいい」
 爽香はまるで無邪気だな。私はそう思いながら、それを手
に乗せて愁に見せた。
 「お、力持ちだな」
 その手は握り拳になって、即座に愁の肩を小突いた。
 そのときだった。窓ガラスと手すりの間の底から白い煙が
立ち上ってきたのだ。
 内側からライトアップされて、その煙はイルミネーション
になった。
 「わぁ~兄さん。モクモク? 霧みたい」
 「あぁ、目がチカチカするな。外からは見えんのか?」
 「ん~どうかな?」
 愁の顔も照らされて色が変わっていく。それが可笑しくて、
私は愁の横顔をじっと眺めた。
 「なんだよ? 夜景はあっちだぞ」
 愁はそう言って、窓の外へ指を指した。でも、私はその先
を見ないで、やっぱり、愁の顔を眺め続けた。
 「兄さん、こういうときって、ほら、ベタなセリフあるで
しょ? 言ってくれないんだ?」
 「え? あぁ……あれか? おまえの方が綺麗だよ、って、
やつか?」
 「そんな冷めた言い方じゃヤーダー」
 「だだっ子かよ……ゴッホン、あぁ、なんていうことだ! 
君の輝きのせいで、周りの景色が……ほら、色を失っていく!」
 「それはそうよ。だって、夜だもの」
 「爽香……」
 私は舌を出して、愁に飛びついてやった。愁は確かに抱え
てはくれた……でも。
 「悪かったな、あともう少し来るのが遅れたら、雪の鯱に
でもなるところだった」
 私の大好きな音がそこにはなかった。
 「ん? どうした、爽香?」
 「……ううん、そうね。もうすぐ、冬だね」
 「あぁ、雪ってここにも入り込んでくるんかな?」
 私はもうそれ以上、答えられなかった。

 ちょうど日が暮れるように私の気持ちも沈んでいって、そ
れが夜の帳にすっかり包まれる頃、代わりに無数の光が頭の
なかにも見えていた。
 ――母さんはどうしているだろうか。ポチは……それに、
親父も。友達も怒っているだろうか。
 愁と一緒にいられたならら、どんなに嬉しいだろうと思っ
た。こいつさえいれば、他になにも……でも、本当はこうも
違うものなのか。
 母さんと愁なんて比べられない。もちろん、ポチだってそ
うだ。友達もそうだし……親父も、そういうことにしておこ
う。
 それから……爽香も。
 帰りの窓辺に映る爽香の顔に何度も気が狂いそうになった。
 ――あいつはどこにいるのだ。
 そんなの私の身体にいるのは頭では分かっている。でも、
その頭のなかでちらつく爽香の笑顔は鏡でくすんでいるまさ
に私の顔と同じなのだ。
 もう、訳が分からない。ただ、爽香に会いたい。意地悪で
可愛げがなくて、いつも私を困らせるバカ。でも、こんなに
も爽香のことが愛おしく思ったことはない。
 ――どうして、笑っていられるんだ、おまえは。
 愁の鼓動が聞こえない。私はそんなの耐えられない。私は
ずっと羨ましかったのだ。爽香が愁とずっといられて本当に
羨ましいと思っていた。愁に溺愛されているとも思っていた
から。
 でも、思っていたほど、愁は爽香にかまわないし、デート
したって、帰ってきてもそれを話せる母さんも、ポチも、不
安を押し込んだ親父も見られない。
 ――こんなにも寂しいものなのか。
 ……なんで、爽香の奴、笑っていられるんだ。
 相対的な感情なんてバカげていた。愁は好きだ。でも、そ
こから生まれる大切だと思う気持ちは絶対的なものではない。
絶対的なものなんて、なかった。当たり前だ。爽香だって、
私には大切なんだ。
 ここは私の場所じゃない。ここにいていいのは私じゃない。
私はそう思うと、いてもたってもいられなくなった。
 「兄さん……国嶋さんのお家に行きたい」

 帰り道はいつも寂しさに包まれている。通り過ぎていく街
灯のなかについ先ほどまでの思い出を見ては、そこを通りす
ぎていかなければならない事実を自覚するのはとても億劫だ。
 ところで、私は出来るのなら、いまこの瞬間にでも家にい
たかった。後部座席の方から聞こえてくる轟音がせめてもの
救いだ。
 時折、窓に見え隠れする爽香の顔に、私はもう、発狂しそ
うなのだ。そこに爽香が映っているのに、爽香はここにはい
ない。私が瞬きをすると、悪夢も瞬きをするのだ。
 私はたまらなくなって、愁を見た。こいつは国嶋さんの家
に行きたい、と言ったら、きょとんとしやがった。
 それもそうだ。私が、正確に言えば、爽香が行きたいとせ
がんだプロムナードを一時間足らずで、当の本人が帰りたい
と言ったのだから。それも、国嶋さんの家に。
 でも、不思議だ。愁はその言動を疑わなかった。ただ、夜
遅くに車で行って、わざわざ門を開けさせるのはダメだと言っ
た。一度、家に戻ってから、歩いて行こうということになっ
た(もちろん、国嶋さんは了承済みだいうことにしてある)。

 夜もだいぶ深まったころ、顔なじみの街並みが見えてきた。
ガレージを開けて車を止めると、私はそのまま一人で歩いて
行こうとしたのだが、愁につかまって怒られた。
 逸る気持ちを押し殺して、でも、地団駄を踏むように、愁
に連れられる形で自宅に向かった。
 ところが、ちょうど半分まで行ったところで、反対側から
母さんと私がこちらに向かってくるのが見えた。私はかけだ
して、母さんに抱きついた。向こうの私も同じようにかけだ
して、愁に抱きついていた。
 ――母さん。
 「あらあら、そうちゃん、こんばんは。どうしたの?」
 「あ! い、いえ、なんでもないんです」
 感極まって飛び出してしまったが、そうだ、早く元に戻ら
なくては意味がない。私は母さんから離れると、私に向かっ
てまた走り出した。向こうの私も同じようにまた走り出した。
 ちょうど愁と母さんの間のところで私たちはお互いを抱き
しめた。一度見合って、互いに自分の懐かしい顔をひっぱっ
たりして確認し合った。それから、またお互いに抱きしめあっ
て、どちらからというでもなく、元に戻る呪文を肩越しに小
さく語った。
 私は私から離れた爽香の顔を、爽香は爽香から離れた私の
顔を見て泣きじゃくった。そして、今度こそお互いの場所に
かけだした。私は母さんに、あいつは愁に。
 「母さん! ただいま!」
 「ふふふ、どうしたのよ? 彩香……もう。おかえり、な
のかしら?」
 「あぁ、ただいま、だ!」
 私たちはそれぞれ当惑した連れ人のきびすを返させた。私
は一度、振り返って愁を呼んだ。
 「愁、また今度な?」
 「あぁ」
 愁の懐かしい、なつっこい目が見えた。
 「一体全体どうしたの?」
 一連の場面に目を丸くした母さんが、歩きながら、私の顔
を覗き込んできた。
 「別になんでもない」
 私はそう言って、母さんの腕に抱きついた。すると、ふい
に、ポケットで何かが振動するのを感じた。ケータイだ。取
り出して、母さんにもたれながら確認すると、そこに静香た
ちがいた。
 「彩香? 歩きながらはやめなさい。危ないわよ?」
 「母さんがいるのにか?」
 ケータイをポケットに戻すと、わざと母さんに倒れ掛かっ
た。
 「もう、本当に困った子ね」
 母さんは呆れたように私を見ると、後ろを振り返った。誰
かが駆け寄ってきたのだ。
 「ちょっと、私のプリン」
 愁は横目でこちらを気にしながら、家まで送ることを母さ
んに申し出ていた。爽香は、というと、私の腕を引っ張って
小声で抗議してきた。なんとも平和だ。
 「愁に全部やった。許せ、おまえの健康のためだ」
 「何よそれ~」
 あぁ、こいつはやっぱり、こいつがいい。ふてくされた表
情も可愛すぎる。犯則的な幼さだ。
 私は爽香を抱きしめると、大好きだ、と、言ってやった。
 爽香は何も言わなかった。


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