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三級受かってアメリカ行こう!~そろばん~

教育の基本は読み書きそろばんだ。

両親は私と姉がそれぞれ小学二年生になった時に
そろばん塾に通うように促した。

 
私の周りにはそろばん塾に通っているクラスメートが何人かいたし
私は半分学校に行くような感覚だった。

当時は水泳やピアノも習っていたが
クラスメートは一緒ではなかった。
同じ水泳教室の子はいたが、曜日や時間帯が異なったのだ。
だから姉やクラスメートと行くそろばん塾は
私にとって、他の習い事よりも心強さがあった。

 
 
そろばん塾は自転車で行ける場所にあったので
そろばん塾用のカバンをかごに入れて
学校が終わってからそろばん塾を目指した。
そろばん塾は火・木・土の週3日で、一日に何回か分けて行われており
自分の好きな時間帯を選んで行けばよかった。

 
 
そろばん塾は白い平屋の建物で、屋根が青かった。

そこはA先生がそろばんを教えていて
A先生の奥さんが事務等を行っているらしかった。
A先生とクラスメートは親戚らしい。

 
そろばん塾にはいつもA先生のワゴン車が停まっていた。
そのワゴン車を横目で見ながら、近くの駐輪スペースに自転車をみんなで停めた。

前の回が終わるまで中には入れないから
大抵私達は外で待っていた。
そろばん塾の敷地内は砂利だったので、砂利で遊んだり
近くに空き地があったので、空き地で遊んだりもした。

ただじっと、そろばん塾の入口で友達と話しながら待つこともあった。

 
しばらく待つとA先生が引き戸を開けて、外にいる私達に声をかけた。
前の回に参加していた生徒達が下駄箱から靴を取り出し、教室から出たところで
再びA先生が顔を覗かせ、入るように私達に促した。

そろばん塾は自由席だから、自分の好きな席に座っていい。
長テーブルがたくさん置かれていた。
なるべくなら端席がいいが、混む時間帯だと奥席になってしまう。

 
そろばん塾は学校のように、教室の北側に大きな机があり、そこがA先生の机だった。
南側には小さな席があり、生徒数が多い時はA先生の奥さんが来て、そこで採点を手伝った。
奥さんはあくまでお手伝いだし、採点だけで指導はしない。愛想がない方だった。
A先生は明るく優しい方だった為、私はよほどじゃない限り、A先生に教わるようにしていた。
例え採点や指導列が並んでいても、どうせならA先生にお世話になりたかった。

実際、生徒からA先生は人気が高かった。
彼は20~30代の男性で、外見は渡辺徹に少し似ていた。

 
 
そろばん塾に通うまで、私はそろばんを見たことも触ったこともなかった。
そろばんは右手に持って振るとシャカシャカと音が鳴り
左手でそろばんを支え、右手で珠を弾くと、パチッパチッといい音がした。

 
そろばんの基本科目にはかけ算、割り算、見取り算、暗算、伝票算があり
上級試験の際はそこに応用問題も加わる。

だから私は学校で習う前にかけ算をそろばん塾で覚えたし、ルート計算は小学六年生で行った。

 
そろばん塾では、一番低い級が10級の為、まずは10級取得から目指す。
合格すると、カラフルなシールがもらえた。
今手元にそろばんがないから忘れたが
10級が赤、9級が青………のように、級別で色が異なった。
そのシールはそろばんの所定位置に貼るように指示された。
だから見知らぬ人でも、そろばんを見ればその人が何級かはすぐに分かった。

 
 
順調に10~4級までは試験をクリアしたが、3級からはレベルが桁外れである。
科目数が増えるし、難易度は上がる上、我がそろばん塾では、3級以上は三種類の試験に合格しないと進級が認められなかった。
どうやら、県内でもレベルが高い教室だったらしい。
他のそろばん塾は、三種類の試験にチャレンジしていなかった。

 
そろばんの試験は全科目70点以上で合格であり、一科目でもしくじったらアウトである。
全科目、次回試験でやり直しとなる。

試験は日曜日に、広い別の会場で行われた。
日曜日に緊張しながら試験に臨み、落ちるとかなり凹む。

 
代わりに、三級以上の合格シールはかなりかっこよかった。
デザインもかっこいいし、三級以上のシールは光るのだ。
それをそろばんにつける時は快感だし、そのそろばんは私の勲章でさえあった。

進級のたびに賞状はもらったし、三級以上は賞状の質は上がったし、やはりテンションは上がったが
私はそれよりも、自分のそろばんが誇りだった。
10級から順に貼られたシールは、私が今まで頑張ってきた証のようで嬉しかった。

 
 
私のそろばん塾では、「3級受かってアメリカ行こう!」というキャッチコピーがあったし、留学のポスターが貼ってあった。
年齢関係なく、一種類の試験でも三級を合格さえしていれば、アメリカ短期留学の資格が与えられた。
アメリカの子ども達にそろばんを教えに行く目的の留学だった。

留学という言葉を意識し
留学資格を得たのはこの時が初めてだ。

 
多分、私は4年生の時に三級を取得していたと思う。
【アメリカにそろばん指導で短期留学】というパワーワードに、私はクラクラした。
両親は費用を出すという。
なかなか、こういった機会はない。
面白そうだとは思った。
そろばん塾の仲間や他のそろばん塾の生徒と一緒なら
日本語が分かる知り合いも同行するから心強い。
観光や異文化交流の時間もあるようだった。

 
 
だが、私は勇気が出なかった。
アメリカは私にとって、偉大で大きな国過ぎて、好奇心や興味よりも不安が勝った。
もしも国内旅行がてらのそろばん合宿なら行ったかもしれない。

私は海外に行ったことがない子どもだった。

 
 
小学校四、五、六年生の際、毎年夏になると短期留学の話になった。 
毎年気になりつつ、でも勇気や興味が膨れ上がり、足を一歩踏み出すほどでもなく
私は毎年ポスターを眺めて終わった。

 
  
 
そろばん塾で8月8日はパチパチの日と呼ばれ、そろばんの日と知った。
毎年夏は短期留学以外にも、自由参加のイベントがあった。
近くの公園で行われる夏祭りは楽しかったし
日帰りツアーで他県の遊園地に行ったりもした。
ハロウィンやクリスマス会、新年会等も行われた。

学校や自治会とはまた違うが
週3回行き、こういった季節イベントもあるそろばん塾は
私にとって、習い事の中で一番生活に密着したものだった。

 
 
私はそろばんが好きだった。

先生の合図に合わせて、制限時間内に早く正確に答えを導こうとする過程や
集中した静けさの中でパチパチと音が響く時間や
たった一つしかない答えを導き、それが正解である快感が
私には素晴らしいものだった。

 
暗算はそろばんを使わずに答えを導き出す科目で
こちらはかけ算、割り算、見取り算の三種類である。
頭の中で珠を想像し、まるでジェスチャーのように手や指を動かし、答えを求めることも楽しかった。

そろばんも好きだが、そろばんを使わずに行う暗算も好きだった。

 
 
基本科目以外に、読み上げ算というものがある。

「願いましては」から必ず始まり

「10円なり、30円なり、引いては20円なり、加えて50円なり………………」
と、先生が読み上げていくものを、そろばんもしくは暗算でどんどん計算していき

「…………では?」と、先生が言ったところまでの合計数を導くものだ。

 
 
読み上げる見取り算のイメージだ。

最初は簡単な計算から始まり、どんどん難易度が上がっていき、次々に脱落者が出る。
最後まで食らいつき、正解数を競う競技で
こちらも非常に集中力がいる。
楽しかった。

 
 
そろばん塾では頑張りに合わせて、カラフルな点数券をもらえた。
確か10点、5点、3点で、それぞれがピンク、青、緑の色紙で、ウサギやパンダなどが描かれていた。
先生の机の横は小さな文房具や駄菓子コーナーになっていて、点数を集めると景品と交換してもらえた。

 
私の狙いは専ら文房具で、かわいらしいペンやメモ帳や定規なんかをちょこちょこもらった。
そろばん塾では、鉛筆やシャーペンは使用不可で、ロケット鉛筆しか使ってはいけなかった。

ロケット鉛筆といったら、そろばん塾だし
そろばん塾といったら、ロケット鉛筆である。

 
人生後にも先にも
ロケット鉛筆はそろばん塾でしか使ったことはない。

 
  
 
私にはいつしか夢があった。
そろばんで段をとることだ。

そろばん塾は二つの教室があり、級の人と段の人で部屋は分かれていた。
先生の机の後ろ側の扉の向こうには、段の人がいた。
空気がピリッとしていて、ただものではない感じが伝わる。

 
 
親からは「三級を受かったら辞めてもいい。」と言われていて
そろばん塾が性に合わなかった姉は三級で辞めたが
私は段を目指した。

そろばんは最高10段である。

さすがに10段までは無理でも、初段にはなりたかった。
他の習い事でも段になったことはなかったし
響きがなんせ、かっこいい。

 
 
私が小学校六年生の時、ついに三種類の一級試験に合格し、私は初段試験を受ける段階になった。
さすがに段なだけあって、めちゃくちゃ難しい。
初段でこのレベルとは、恐ろしい。

「段試験からは、合格した科目は繰り越しになるよ。」

と、先生に言われて
私はめちゃくちゃ嬉しかった。

 
私はなんといっても見取り算でしくじりやすかった。
伝票算も、たまに1ページめくりそこねたり、別の段の数字で計算してしまったりと、合格点数ギリギリだった。

 
初めての初段試験は、三科目落ちた。
さすがに段の壁は厚い。
別室でそろばんを習うのはレベルが違う。

 
 
だが、初段試験は合格科目が繰り越しだし、落ちた科目を中心に頑張ればいい。

次こそは………!

と、私は燃えた。

 
 
 
 
 
 
だが、私に次はなかった。

 

 
 
 
 
私は中学生になった。

親から、中学からは部活や勉強がハードになるから、そろばん塾を辞めるように促された。
確かに、クラスメートは既にとっくに辞めていた。
私しか残っていなかった。

「でも、初段試験受かりたい!せめて初段になりたいんだ!そしたら辞めてもいいから……。」

私は親に頼み込んだ。

 
 
だが、やはり中学生活は忙しなかった。

部活から帰宅するのは19:00。
中学から通い出した塾は、週に二日19:30から。
そろばん塾は19:50から週に三回だが
一日学習塾とかぶり
中学からは週に二回しか行けなくなった。

土曜日は半日授業から部活、部活の後にそろばん塾。
もしくは、練習試合からそろばん塾に行くようだったし
練習試合でそろばん塾に間に合わないこともあった。

日曜日も練習試合や大会はあった。

 
学校の宿題や塾の宿題もたくさんあり、毎日がクタクタだった。

 
 
中学生になり、私は明らかにそろばん力が落ちた。

週三回の塾が週二回になったからというのもあるし
疲れにより、集中力が落ちたのだろう。
成績は振るわなかったし、自分でも悲しくなるほど
そろばんができなくなった。

 
それでもせめて初段試験をもう一度受けたい…と思っていたが
中学生初めての中間テストの結果は、惨敗だった。

 
 
私は中間テスト結果を見て、心が固まった。
そろばん塾はもう続けられない。

後日、母親と共にそろばん塾を訪れ、先生にお礼とお別れを告げた。
「部活や勉強との両立が難しくなりました。」と母親が告げ
私は先生の顔を見れず、ポタポタと涙を流した。

本当はまだ辞めたくない。
やりたい。
初段試験合格したい。
でももう、私には無理だ…。

心の中で声にならない声が、振り絞るように本音を言う。
言葉にはならず、涙がただただ止まらない。

  
「長い間、頑張ったな。中学生活、頑張れよ。」

 
A先生は私にそう告げた。
それが先生やそろばん塾との別れになった。

 
  
 
 
そろばん塾を辞めた私は部活や勉強に燃え、期末テストでは挽回できた。

学年トップの子は、そろばん塾で段をとっていた。
部活も両立している。

  
彼女が羨ましくないと言ったら嘘になるし
そろばんを愛する気持ちはまだあったが
そろばん塾を辞めてから、私は心身軽くなった。
疲れはグッと減った。

 
やるだけやった。
あのタイミングで辞めるのは仕方なかった。

 
私は心からそう思った。

 
 
親から言われて始めた習い事で、唯一親から指定された目標を達成しても辞めたくなかったものが、そろばん塾だった。

珠算1級
暗算1級

と、初段にはあと少しで手が届かず、私のそろばん人生は幕を閉じた。
そろばんを中学校以降で使うことはなく
私はそろばん塾を辞めてから、そろばんを使うことは二度となかった。

  
 
 
 
 
 
そろばん塾を辞めてからも、私はたまにそろばん塾の前を通った。

私が辞めてからも、下の世代達が頑張っているだろうし、アメリカ短期留学に行っているのかもしれない。
私は初段が目標設定だったが、アメリカ短期留学が目標の子もいるかもしれないと思った。

 
だが、やがてコンピュータの時代へと突入する。
パソコンや携帯電話は一部の人がビジネスで使う時代ではなくなり
そろばんよりもパソコンを使えるか否かが大切になり
そろばん塾人気は下がっていく。

 
最近では、フラッシュ暗算と呼ばれるものが人気があるらしい。
そろばん塾でも、珠を弾かない時代になりつつあった。

 
 
それでも求人で、そろばん塾の先生募集を見かけたし
私が通っていたそろばん塾も経営していたし
まだ需要はあると思っていた。

 
だが、この前私が通っていたそろばん塾の前を通ったら、そろばん塾の看板は外されていた。
私は驚いて二度見した。
コロナのせいか、別の事情のせいかは分からないが
もうA先生があそこにはいないと思うと
私は寂しさを感じずにはいられなかった。

 
 
 
人生は出会いと別れが繰り越されるし
時代はいつも栄枯盛衰なのだ。
絶対的なものなんか何一つない。

 
だから私達はその時代その時代を生きつつ
生きている限り、幾度も選択を迫られる。

何が好きなのかよりも
自分が何を優先した生活をしたいか。

その価値観や自分の置かれた環境で
私達はよりよい方を目指すしかない。

 
 
未来がどうなるかなんて、今生きている全員が分からない。
だからただ、精一杯今を生きる。

それだけだよ。

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