”多様性”が教えてくれることは、ぜんぜん多様じゃない
そんな言葉が、よく聞こえてくるようになってきたと思う。
多様性とは、「互いに非常に異なる多くの人や物の集まり」と定義されていて、性別や年齢、国籍、宗教など。人間に関するあらゆる違いが偏った判断、ー 差別や迫害や強制など ー をされてきたことから、それらを改善していこうという動きが活発になっている。
それらすべてを受け入れていこうという姿勢こそが、多様性と言われているのではないかと漠然と思っている。
大きな問題だと思う。カードを裏から表にするのは簡単な動作だけれど、感情や考え方というものそういう動作とは違う。「はいじゃあ今日から多様性、受け入れてね!」と言われても、ころっとカードが裏から表に変わるように、すべてを切り替わることはできない。
ゆっくり時間をかけて、そういうこともあるよなあ、くらいにじんわりと馴染んでいく。変わっていくというより、馴染んでいくとか、混じっていくという表現の方が正しい気がする。
それに中には考えは変わらないし、受け入れられないという人も多いのかもしれない。無関心な人も少なからず存在するはずだ。
ただ僕は多様性を考えることは、「社会のために!」とかそんな大層なことを求めてはいないのではないと思う。
その考えに触れて、学ぶことで、多様性が教えてくれるのは、全然多様じゃなくて、まぎれもなく”自分自身”なのでは?と考えた。
多様性が教えてくれることは、全然多様じゃない
多様性が教えてくれることは、まぎれもなく自分自身のことだと思う。
正確には、自分がどう感じるかということなのではないかと思った。
例えば僕には、バイセクシャルの女性とデートをした経験と、
バイセクシャルの男性に性的に興奮された経験がある。
これを読んで、どう思うだろうか。
興味があると思う人もいれば、正直なところ、少し気持ちが悪いと感じる人もいるかもしれない。
大事なのは、”自分がどう感じるか”だ。それを知るということが多様性を知る意義なのだと思う。
僕はバイセクシャルではない。ただ同性異性関係なく愛せる人を素晴らしいと思う。嘘はない。それにある意味では僕も男性女性関係なしに、友愛とか情という意味で、人として友人や家族を愛しているわけだ。僕の場合は恋愛対象が女性というだけで、どちらか一方か、もしくはどちらも恋愛対象であるかどうかの違いがあるだけだ。
多様性が教えてくれるのは、多様な世界があるということではなく、自分以外の多様な世界を知って、自分がどう思うかということだ。
ここでは、実際に僕が対面した”人”と”性別”からの視点から、多様性について考えていきたい。
「私、前に付き合っていたのは女性で…」
僕は彼女からの一言に、驚きはなかった。僕はこの時、初めてバイセクシャルの女性と出会った。
彼女とはSNSを通じて知り合った。何回か連絡を取り合い、旅行が好きなことお互いの仕事の話をしているうちに会って話をしようと言うことになった。初めて会ったその日に、彼女はそのことを隠すことなく僕に話してくれた。
彼女の見た目の印象は、小柄で、髪が短めという感じ。二重瞼で目がくりっとしていて可愛らしいと思った。
コーヒーを買って、公園のベンチで話をした。
他愛もない話をした。旅行で行った場所のこと、これまでどんな仕事をしてきたかなど。それから家族のこと。僕が家族とのことや悩みを隠すことなく話した。それから代筆屋という手紙を書く仕事をしていて、いろんな人からの相談や代筆依頼を受けていることに対して彼女は興味を持ってくれた。僕が隠さなかったことで、彼女が心を開いてもいいかなと思ってくれた要因になったかもしれない。
彼女との会話は楽しかった。彼女も文章を書く仕事をしていて、これまでに起業した話やこれからやりたい夢について教えてくれた。もともと彼女は僕の仕事に興味を持ってくれていたから初めて会って話をしたが、話は想像以上に弾んだ。
彼女は僕に好意を持っていてくれた。僕も同じだ。ただ彼女のそれは単純に知的好奇心という面と、異性としても魅力的に思ってくれていることを感じさせた。そんな眼差しで僕を見ていてくれた。
だが僕に不純な動機はなかった。
だから、
「伝えていなかったことですが、僕にはお付き合いをしている人がいます。言うタイミングがなく、隠す形になってしまって申し訳ございません。」とひとしきり話し終えてからそのことを伝えた。
「そうだったんですね。私も知らずにすみません。」
彼女は申し訳なさそうにしていた。
「謝らないでください。僕が伝えなければ、わかるはずないですから。すみませんでした。人と会って話をすることが好きで、知らないことを知るのが好きなんです。そこに男女とか関係ないと思っていて…」
正直なところを話した。
「わかります。私も同じです。」
そんな気がしたから、僕も彼女に会うことにしたんだ。
それから彼女は続けた。
「私も伝えていないことがあって…」
僕は彼女の言葉を待った。
「私、前に付き合っていた人が女性なんです。だけど、男性が恋愛対象ではないと言うことでもないんです。
だから知らなかったですけど、けんせいさんは人としても、異性としても魅力的だなと感じていました。なので、言ってくださってよかったです。おかげで私も隠さずに済みました。」
彼女は少し照れた様子だったけど、ちゃんと目を見ていってくれていた。僕はバイセクシャルの女性とこうして話をするのは初めてだったが、素敵な人だと思った。
出会うタイミングが違えば、恋をしていただろうと思った。
彼女とは定期的に連絡を取り合う仲になった。
彼女が人として素敵だったから。
僕の感性が彼女をいいなと思ったから。
話が合ったから。
いろいろな要因があるし、一人と会っただけで判断できることでもない。
それでも僕はその事実に対して、違和感を感じることはなかった。
彼女と出会うことができてよかったと思えた。
「いい身体してるね。」とサウナで話しかけられて…
※大したことは書きませんし、具体的な描写は避けますが、多様性ということをご理解の上読み進めてください。
僕は、サウナが好きだ。最近流行りの”サウナー”である。
僕は旅が好きでいろんなところに行くが、主な目的は、移動中の新幹線や旅先で文章を書くことと、サウナで”ととのう”ことだった。
いつもと違う新しい地に行って、そこでしか見れない景色を見て、文章を書いて、ご当地のサウナへ行く。そうやって日常に刺激を取り入れている。
先日の旅行先でも、サウナに行った。
身体を洗い流し、湯船に浸かって身体を温める。それからサウナへと向かった。10分ほど耐えて、水風呂に2分間浸かる。耐える。そして椅子に座って脱力する。外気浴というやつだ。
そうすると頭がぐわんぐわんするような感覚がある。
サウナの熱さと水風呂の冷たさで交感神経優位にして、外気浴で副交感神経優位にする。それが”ととのう”という状態をもたらしてくれる。
本当に気持ちがいい。
このサイクルを3セットやるのが僕のお決まりだった。
2セット目、頭にタオルをかけてサウナで温まっている時に、
「いい身体してるね。」
斜め前から声がした。
店内は人が少なく、サウナの中は僕が入って少ししてから一人入ってくるのを感じていた。
だから僕に話しかけていることがわかった。
頭にかけたタオルをとり、斜め前に座った男性を確認する。40代後半から50代前半くらいのおじさんがいた。
「あ、ありがとうございます。」と会釈をした。
「なんかスポーツやってるの?」
「そうですね。前職で消防士をしていて、最近も走ったりはしています。」
「そうなんだ。今はやめたの?」
転職してITベンチャー企業に勤めていたこと、今は独立してライター業をしていたことを話した。すべてよく聞かれることだった。
僕は、よく話しかけられることがある。年齢も性別も問わず、本当によく話しかけられた。道を聞かれることもあるし、サウナで話しかけらることもよくあったから、違和感はなかった。
おじさんは地元出身だったが、いろんな県へ勤めに出ていたらしい。いろんな話をしてくれて面白かった。
「なんか飲み物奢るよ」と言われたので、
「いえ大丈夫です、ありがとうございます。」
「遠慮しなくていいよ、ほら。」
と小銭を自動販売機に入れてくれたので甘えることにした。
その時点でも変わったことはない。よくいる話好きのおじさんだと思った。
よく話をしたが、僕はサウナに入りにきたので様子を見て、
「またサウナに入ります。飲み物ありがとうございました。」と言ってサウナに向かった。
僕はまたサウナに入り、そのあと水風呂、外気浴で椅子で休憩した。
おじさんも別のサウナから出てきて、休憩していた。
僕は外気浴を終え、もう一度サウナへと入る。誰もいない。
しばらくすると、誰かが入ってきた。顔にかけたタオルの隙間から見ると、さっきのおじさんが対面に座っていた。
とりあえず、一旦そのままで無言で、サウナに集中した。
しばらくして砂時計で残り時間を確認する。あと3分ほど残っていた。
おじさんは目を閉じている。だがチラチラと僕の方をうかがっているのは明らかだった。
そこで違和感に気がつく。
おじさんが下腹部にのせているタオルが盛り上がっていた。
以上だ。
僕がこの時に感じたことは、けっして”無”ではない。
でも実際に目の当たりにした時の感情は、想像していたものと違った。
気持ち悪いと思うと、思っていたが、そんなこともなかった。否定しておきたいが、嬉しかったわけでもないし、僕がそれに反応することはなかった。
ただ、”そういうこともあるよな”と思っただけだった。
僕は外へ出て、水風呂に入る。それから外気良くするために、椅子のある休憩所へ行った。
それからしばらくして、おじさんがきた。
「熱いね。」
「そうですね。」
続けて僕は聞くことにした。
「おじさん、ゲイですか?」
「いや、バイ。」
「そうなんですね。僕はそういうのはないです。恋愛対象は女性です。」
先に牽制しておけば大丈夫だと思った。それにここはサウナのお店だ。何かあれば店員もいる。まずいことになるのはおじさんの方だった。
「そうなんだ。」
「僕にもバイセクシャルの友人がいます。」
「そうなんだね。じゃあ…」
「ただ僕はそういうことはしないですし、今もさせないですよ。」
「そっかあ。」
「そうですね。まあでもそういうこともありますよね。」
そのあとは普通に話をした。
「じゃあ僕そろそろ帰ります。」
「そうか、ありがとうね。」
期待通りとはならなかったろうが、僕にとっては貴重な体験だった。
多様な性に直面して知ったのは、自分自身だった
僕はたまたまバイセクシャルの女性と、バイセクシャルの男性と対面する機会を得た。いくら多様性と言われているとはいえ、まだまだマイノリティ(少数派)であると思う。
僕が多様な性と対面してわかったことは、「多様性を知るということは、自分自身を知るということ」だった。
自分とは違うものを知り、その時感じたこと、考えたことが、まぎれもない事実として、自分に備わるということだった。
それは子どもの頃に幼いながら初恋をしたときや、大学生になって失恋したとき、初めて海外に行ったときの”新しい感情に出会った心の動き”そのものだった。
新しい体験をして、心が動くことで感情が備わっていき、自分自身を形成していくということだった。
僕の場合は、男性も、女性も、バイセクシャルであってもそこに抵抗感はなく受け入れられたという事実が残った。
詳しく書くならば、女性の場合は、異性として恋愛対象と思えた。
男性の場合は、恋愛対象としても性的な対象にもならなかったが、拒絶することも嫌悪感を抱くこともなかった。
ただ事実として、受け入れたのだった。
それは、いくら知識として、多様性やLGBTなど情報があったとしても、実体験として感じなければ、本当の自分の心の動きはわからなかった。
もしかしたら、僕は女性に対して、恋愛対象として考えられないと思うことだってあったわけだし、男性に対して性的に興奮する可能性だってなくはなかったのだ。
何度も言うが、自分が体験しなくてはわからないことだったんだ。
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今回書いた内容を読んでいただいた人の中で、気分を害してしまった人がいたならば、本当に申し訳ないと思います。
ただありのまま、感じたことを書こうと思った。
僕の恋愛や性に関する体験から書いたが、他の文化や政治、宗教や国、多様性と呼ばれるもののすべてに通ずることを考えるきっかけになったと思う。
受け入れられる人もいるし、受け入れられない人もいる。
そのことを知った上で、自分自身と向き合えばいい。
多様性を受け入れるということの前に、自分自身を受け入れるということなのではないかと思う。
そして本当の意味で多様性を受け入れるというのは、言論の自由も、思考の自由もあれど、違和感を感じても自分で勝手に思っている状態を言うんじゃないかなとも思った。
みんな違って、みんないい、と無理矢理に思う必要はない。
どこまでいっても、みんな違って、みんなどうでもいい、くらいがちょうどいいんだ。
多様性が教えてくれるのは、ぜんぜん多様じゃなかった。
よくわかっていなかった自分の感情の、新たな自分の一部分を確定させるだけだ。
ひとまずは自分の人生のことだけ考えよう。
自分のために生きよう。
出会ったときに、一つずつ受け入れられるかどうか自分の中だけで判断していければいいのだと思う。
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多様性を知りたいあなたへ
自分自身を知った物書きより
あとんす!きっとうまくいく