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【日々の感想文 その1】 消費社会と夢の世界〜映画『マトリックス』と『シミュラークルとシミュレーション』(著:ジャン・ボードリヤール)から眺める現代社会〜

 ここのところ、疲れているようです。

 何だか日々は夢の中であって、早く目覚めないといけなくて、突き詰まる所それはこの世界における「死」なのではないかと思ったりするのです。
〜書きながら俯瞰して見ますけど、なかなかに病んだこと考えてますね。まぁ、単なる現実逃避です。〜

 そういえば、そんな世界観の映画があったような…あぁ『マトリックス』だ。つまり「夢の世界」……ジャン・ボードリヤールだ。

 映画『マトリックス』の世界で殆どの人類は、コンピュータが作り出した仮想現実の中に生まれ(精製され)、生活して(させられて)おり、眠った(らされた)状態で過ごして(飼われて)います。一生は夢の中で始まり夢の中で終わるということですね。

 ネット調べると沢山出てきますが、これは消費社会論で有名な思想家・哲学者ジャン・ボードリヤールが『シミュラークルとシミュレーション』で語るところの「ハイパーリアル」や「シミュラークル」といった概念に大いに影響を受けています。

シミュラークルとシミュレーション (叢書・ウニベルシタス)
ジャン ボードリヤール (著), Jean Baudrillard (原名), 竹原 あき子 (翻訳)
※画像はamazonから拝借しております。

 この「シミュラークル」と「ハイパーリアル」については、わかりやすく纏められたサイトがありましたので、リンクを貼り付けておきます。

 上のサイトから少し引用させていただきます。

そして、本作でのボードリヤールの主張は、人間が巨大なシミュラークル(シミュレーション)の世界に取り残されている、というものです。

MINDSET SALON.

 「シミュラークル」とはフランス語で「虚像」「空想」などといったの意味を持ちます。前提として「この世界は全てシミュラークルである」とします。また、

個人の自由意志は幻想にすぎず、人々はメディアが発信するあらゆるものを映し出す装置になり、結果としてイメージと記号の消費だけが目標になっているのが、現代社会である、

MINDSET SALON.

 …さぁ、入り組んで参りました、が、

 要するに、日頃私たちは本当に自分の意志で選択し、消費活動を行なっているのか? ということを、私はこの記事に書きたいのです。


 突然ですが、「人生」は「消費活動」といえます。衣食住は全て資本主義下における消費システムの中に組み込まれており、命も消費物です。お金をかければ死後のあれこれを補償する制度も存在します。そして、このような「人生=消費活動」を前提とした時、私たちの意志とはどれだけ自分自身のオリジナルなものであると言えるのでしょうか?。

 例えば、クリスマスが近い今日この頃。あなたにはどうしても欲しい最新の冬服がある。それはなぜ欲しいのでしょうか?。何処からその情報を得たのでしょうか?。程よい読者モデルがインスタグラムに投稿していたのでしょうか?。それとも街角の煌びやかなショーウィンドウの中で、到底一般の体系には当ては嵌まらない小顔細長白黒マネキンが着衣していたからでしょうか?……

 そうです、あなたは知らぬ間に“メディアが発信するあらゆるものを映し出す装置”と化しているのです。


 次に「イメージ」とはまさに上記のマネキンです。実際着衣しても大抵そんな風体にはなりません。「記号」はこの場合その衣類の系統を表すワード。「ナチュラル」だの「コンサバ」とか〜オシャレ系統みたいな話に全く詳しくないので、その辺はすいません〜だったり、単に「オシャレ」という言葉だって記号と言っていいでしょう。何故ならばメディアよって形作られた「イメージ」でしかないからです。

 それでも常に数多の選択肢の中から自分の自由な意志で選んでいるよ!、なんて言う方にもう少しだけ意地悪なことを言うのならば、その「自由意志」なるもの自体がこのような「ハイパーリアル」な「現実と空想の区別のない」世界に操作され、形成されていると考えると、いかがでしょうか。
〜「意志」については「自我」とも捉えられます。そのなると例えば精神分析の領域における「自我」は「他者(による認知)」により成立するという理論とも重なりますね。詳しくはこちらの本をお勧めします。〜


 なんて長々とつまらないことを書いてしまいましたが、事実「メディアは民意の鏡像」です。この言葉は森達也の書籍から拝借しましたが、テレビもネットニュースも週刊誌も視聴率・閲覧数・発行部数が上がる物を作ろうとします。結果的には「分かりやすく」て人々に「同調」できる内容と媒体が人気を集める訳です。その為にどの業界も日々戦略を練っているはずです。

 この理論はどんな場面にも潜んでいます(当て嵌めることができます)ので、考えだすと沼です。なので時に心を病みます。
〜ギー・ドゥボールでいうところの「スペクタクル」でしょうか……いや、もうやめておきましょう。〜

 でも、とても大事だとも思うのです。捉えようではありますが「皆んなそれなりに何かに囚われながら生きている」ということが認識でき、何だか他者との距離を近く(誰でも大して変わらないと)感じられ、もっと他者(の判断)に身を委ねても良い気がしてくるのです。

 私は昔からビビりで神経過敏なところがあります。例えば遅刻が怖くてあらゆる予定を前倒しに計算したら、結果的に2時間前に待ち合わせ場所に着いてしまうような人間です。それを無くしてジャストに到着する大人になろうと意識すると、意識しすぎて部屋の中でウロウロしたり、転じてギリギリになったり、寝つきが悪くなり就寝が遅くなり寝坊する……と中々上手くいかなかったりします。阿呆だと思います。

 でも、たぶんそれで良いんです。不出来ですが、どちらにせよ縛られている、何なら「そういうふうにできている」(さくらももこ)ってことです。そこから逃れられないなら、逃れられないなりに、一つ一つの選択を楽しみ、寝坊した時は他者に判断を委ねたりもして、自分にも相手にも寛大な心を持って行きたい。どちらにせよ100%オリジナルな意志など存在しないのだから。実はそうするしか無い、寧ろそれが自然なのだと、つくづく思います。

 ほぼ誰の目にも止まらない日々の感想を、心の声を形にしながら生きております。

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