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働くことを振り返る その⑥ 医療系企業でのこと(後編)

まえがき

ファミレスでのアルバイトで初めて社会を見た、店長の長時間労働や過大な責任に社会を疑問視。そして新卒でSEをとして社会に出るも、初めての配属先での大炎上プロジェクトから長時間労働や、先行きを不安視し、半年で退職。そして2ヶ月の転職活動を経て、飲食関連企業へ入社。しかし、入社前のバックオフィス業務を担ってほしいという言葉とは裏腹に、入社してみると、各現場のフォローがメイン業務となっる。2社目ということもあり、転職活動をしながら、仕事をする。そして総合病院に転職。同世代と仕事をする環境で人間関係は良かったが、当直36時間勤務などを経験。そんな中体調を崩し、一度退職し、パートとして復帰。1年後にはプロジェクトへ参画するなどし、契約社員へ登用。そんな中、他社より声がかかり転職を決める。
転職後、システム導入に専任、Pマーク取得で管理部門へ。属人化した組織に徐々に疑問を感じながらも、なんとか対処していく中、親会社に赤字がバレ、社長が交代となる。
その① ファミレスでのアルバイト
その② 新卒でSEとして入社したIT企業
その③ 飲食関連企業でのミスマッチ
その④ 総合病院勤務時代
その⑤ 医療系企業でのこと(前編)

社長交代

これまでの社長は、どちらかというと保守的な人でした。全体を見て最適化を考えるより、事なかれ主義で、問題が起これば都度対処していけば、それでいいだろうという考え方。再発した時のリスクや、問題発生は全体を見直すチャンスと考える自分とは、考え方が何度も合わず、折り合いがつかなかったことも。しかし、この頃から自分の意見はしっかり伝えるという事の必要性が分かっていたように思います。黙って従っているだけでは、問題が起きた時に対処するのも自分だし、大変になるのも自分。そういう責任感からなのかもしれませんが、とにかく面倒なことが嫌いだった自分にとっては、「誰かに聞かないと進まない」とか、「過去を引っ張り出さないと判断できない」とかそういう状態がとても嫌でした。
そんな社長だったので、経営や数字に対しても、だいぶどんぶり勘定。結果親会社の精査が入ると随分前から赤字続きであった事が分かり、改善を求めていたようですが、数年しても解消されず、ついには交代となったのです。

新しい社長は人生の恩師

新しい社長との出会いは、人生の転機となりました。最初に会った時は、ちょっと強面でバリバリの関西弁で怖い印象。どう接していいか分からず、試行錯誤した時期もありましたが、改革派だったその社長は、とても考え方が合いました。感覚で良い悪いを決めてきたこれまでとは違い、全て数字で示すことを求められましたが、理屈っぽい性格の自分には当たり前のことでしたし、逆に数字で示してメリットがあるのなら、どんなことでも駄目と言われたことはありませんでした。しかし周りはなんとなくで仕事が進んでいたのに、色々と細かい事を言われるようになり、嫌悪感を示す人の方が多かったです。

業務改革プロジェクト

「この会社おかしいところがたくさんある」と思っていた自分にとっては、社長が代わり、色々なことが変わる方向に向かうことは良いことでした。管理部門という立場もあって、社長の引っ越しなどに立ち会ったり、より身近な存在でした。そんな中、自分が思っていることを聞いてくれる機会や、よく食事にも連れ出してくれました。
この頃もシステム部門に中途半端に関わっていたことにやりづらさを感じていた自分は、きちんと担当させて欲しいと名乗り出ます。(最終的にはこれが無理したキッカケ)すると快く了承してくれ、営業部門とのやりとりなど、深い部分に入り込んで業務整理みたいなことを、数年かけてやりました。そして同時に業務改革プロジェクトなるものが立ち上がり、メンバーに選出(?)されました。

仕事だけでなく人として成長した

当時は直属の上司が社長だったので、様々な話をする機会がありました。今まで自分が常識と思っていたことをぶつけると、「それはお前のエゴ」と言われ組織のあり方について、初めて考え方を変えるきっかけになりました。具体的には、会社員である以上、一生懸命働いて、役職についていくことを目標にするのが当たり前と当時は思っていましたが、社長いわく・・・「目先のタスクを一生懸命こなす人も必要、みんながみんな上を目指して頑張っても、全員を役職につけることもできなければ、評価することもできない。頑張って上にいきたいという人もいれば、仕事はお金をもらうためのものと割り切って時間内で働く人も必要」何事も成長だとか、社員のためだとか、色々なものを押し付けても、本人の意向に合っていなければ、結局辞めてしまうだけだし、本末転倒という意味なのでしょう。こういった自分の中での当たり前が、どんどん崩れていき、人それぞれ働き方、生き方があるのだし、それを大事にしようと思ったのはこの頃でした。

難航するプロジェクト

20年以上、アナログ体質、属人的なやり方をしてきた組織が数年で変わる訳がありません。プロジェクトの軸に「システム化」という柱がありました。アナログ作業をシステム化し、業務効率化しようという趣旨です。またシステム化されれば、人が辞めても引き継ぎもスムーズになります。当時は営業マンが辞めるとなると3ヶ月くらいかけて引き継ぎをしていましたし、更に新しい人が入れば、また3ヶ月以上かけて教育していたのでした。
しかし、アナログ作業をすることで、敢えて作業を生み出し、長時間労働をし、残業代を稼ぐ風潮や、自分しか知らない事を作ることで、組織での優位性を持つみたいな考え方がある中で、簡単に進んでいくことではありませんでした。

気づかなかったメンタル不調

難航する中で結局現場に負担が掛かります。変えたい人たちと、変わりたくない人たち、その中で色々なことが起きます。変えたい達は自分を含め数人でした。会社の方向性も”変える”とされているにも関わらず、変わろうとしない人たち。この頃からだいぶ無理をしていました。嫌われ役をするしかなかったのです。ですが、社長が話を聞いてくれていたことや、期待をしてくれていたこと、システム面がわかる人が自分しかいないという責任感など、無理をするしかない環境だったと思います。そして徐々に自分が間違ったことをしているのかと疑問を持ってしまうようになり、何をするにも周りに反応を気にしてしまうようになったり、ちょっとしたうつ状態の入り口にいたことは、振り返った今だから分かることかもしれません。

社労士試験勉強と並行

一方で管理部門の方も、何事も過去ありきの判断だったり、法改正一つに対しても誰も分かる人がおらず、親会社頼みという雰囲気があり、何かを変えるにも、親会社が言っているから、過去こうしてきたから、と考えることを放棄してしまったかのような意思決定がされていました。また何かを進言したとしても、たかが一社員が言ってもそれほど響かず。それに疑問を持ち、社労士試験に合格しきちんとした知識を持った人として進言しようと考えます。毎朝5時に起きて、2時間程勉強、その後仕事、夜も仕事が終わってから3時間の勉強という日々を過ごしていました。ただ、勉強がうまくいっていて、仕事でのフラストレーションが勉強で解消されていました。ですので、自分の不調に気付けずにいたのです。

管理職になる

運もあって自分の部署の効率化は進んでいました。運というのは、社長が変わって数ヶ月の間に従来のスタッフが全員退職し、新しい人を採用することができたからです。ですので、今の会社の状況や、色々変わっていく事を受け入れてくれる人たちを採用することができました。中には消極的な人もいましたが、パートであるにも関わらず、それ以上の成果を出してくれる人もいて、とても助かっていました。そんな周りのお陰で、自部門内ではスムーズな業務ができていました。そんな事が認められ、管理職になるのでした。管理職と言ってもプレイングマネージャーのようなものですが、何でも言える雰囲気作りは大事にしたものです。ただ毎日のように他部門からの無理な依頼や、スケジュールを無視した引き渡し等に疲弊していきます。

出向してきた上司の登場

途中から親会社から出向してきた方が上司になります。しかし、部長クラスの方だったので、いくつかの部署を見ていました。席は営業にあり、システムや管理部門の業務については、ほぼ無知で相談するも的確なアドバイスはなありません。そんな事で自分への負荷と相談できる先がなく四面楚歌状態でした。その割に営業からの提起に関しては、深いところまで首を突っ込み、親身になっている姿を見ると、だんだんと不信感さえ抱くようになるのでした。最後の方は、完全に上司を信用していませんでした。何度か体調不良で休むことが続く時期もありましたが、本来上司であれば、部下の変化にいち早く気づき、対応するべきなのでしょうが、それができていませんでした。それが更に自分を追い込んでしまいます。上司自身も突然やってきて、改革中の組織の中、右も左も分からない状態でやっていかなければならない、そんな状況がストレスになっていたのでしょう。

一体感がなくなっていく組織

改革をしていくものの、各部署、各従業員がそんなことを意識もせず、自己判断や時部門だけを考えて行動することがどんどん増えていきました。
マネージメントが行き届いていないため、末端の社員はフラストレーションばかり溜まって、全体の事や先々の事を考える余裕さえなくなっていたのでしょう。結局は事なかれ主義に戻っていたのかもしれません。そのような中でそろそろ限界を感じるようになります。どんどんと孤立していく感があり、頑張っても良い方向には変わっていかないなと確信。またそこに社労士試験合格が後押しをし、ついに10年という節目で退職を決めます。

コミュニケーションの大切さ

なぜ組織の一体感がなくなったか、自分としても退職を決めたか。それはコミュニケーションの欠如だと思います。日常業務に追われて、コミュニケーションをないがしろにすると、個々の理解がなされません。会社として利益を上げることや、改革をすることは大義名分としても、日常の仕事をしていれば思うことがあって当然だし、悩みや不安もあるでしょう。当時の状況としても、なおさら悩みや不安を持ってもおかしくありません。マネジメント層が、メンバー層と一緒になってタスクに追われたり、自分の仕事を抱えていると、部下へのコミュニケーションの機会がなくなります。話をしても聞いてくれない、話をする機会もない、これでは社員は組織に対して諦めてしまってもおかしくありません。最も環境をよくしようと改善を考えたり、全体最適を考えるはずもありません。福利厚生が揃っているとか、給与が高いとか、そういったこと以前にきちんとコミュニケーションが取れているか、これは一番大事なことかもしれません。

退職後

退職が決まってから、すぐに次を決める事必死になります。しかし、当時の自分は相当疲弊仕切っていました。退職という判断も、何度も考えては引き止まって…を繰り返していましたが、最後は全てがどうでもよくなっていました。振り返ってみると、退職という判断をしなくても、休職という選択肢もありだったかもしれません。しかし、そのような選択肢を提示してくれる人は当然いません。そして退職後も「休む」ことが一番必要だったにも関わらず、すぐに次の働くことを考えてしまうのでした。

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