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柔らかな硝子

夜には後悔が襲う。
朝には諦めが襲う。
昼には空腹が襲う。
夕には満腹が襲う。

 胃の中の血が身体中の肉に溶けていくのを感じる。

 差し伸べられた手に俺は噛み付いた。

 噛みちぎられた指を俺はかまずに呑み込む。

 指は食道に引っかかって、俺はひどい痛みを感じる。

 しかし指が胃におさまるのと同時に、空腹は少しましになる。

 そして俺は顔を上げる。

 彼女は俺の方を見て笑っている。

 ちぎれた血まみれの右手をぶら下げて、彼女は笑い、俺を軽蔑する。

 俺はなんとか弁明しようとする。

 しかし口が動かない。

 俺の目には涙が浮かんでいるが、

 俺の舌は頬に付いている血を美味そうに舐めている。

 彼女の右手からは血がタラタラと流れ落ち、地面でポタポタと音をたてる。

 指の一本や二本では我慢できないとでもいうように、俺の腹はグウグウと音をたてる。

 俺の目は自然と彼女の首を視る。

 俺の頭は彼女の首に噛み付くことを想像することしか出来なくなる。

 彼女はただ笑っている。

 彼女は叫んでも誰も来ないということを知っている。

 彼女はただ俺をジッと見つめる。

 軽蔑と恐れと怒りと、そしていくばくかの憐憫を込めて。

 彼女は、ほんの少し俺を憐れに思ってくれている。

 彼女は不幸なことに人を憎み切れない優しい人間で、そのことを俺は知っている。

 しかし俺はもう彼女の首に噛み付くことしか考えられなくなっている。

 彼女の首は柔らかそうで、そして今にも壊れてしまいそうで、それはまるで柔らかな硝子のようだと思う。

 俺の頭は彼女の首に噛み付いて、柔らかな硝子を壊すことだけを想像している。

 柔らかな硝子は初めは俺の歯さえ受けとめようとする。しかしそんなことは出来るはずもなく俺の歯は彼女の首の皮膚を、まるで花びらを裂くように、音もなく切り裂いて、その後に血管を破り、俺は、彼女の血を飲む。

 そういった想像が俺の頭の中で何度もリピートされる。

 彼女はただジッと俺を見つめる。

 彼女と目が合う。

 彼女はただジッと俺を見つめる。

 彼女はジッと俺の目を見つめている。

 彼女の目は大きくて、美しかった。どんな宝石でも、この美しさには敵わないと思う。

 口の中の血の苦さを強く感じる。

 彼女の黒い目は、まるで夜の海のように、どこまでも吸いこまれてしまいそうで、俺はこの海で死んでしまいたいと思う。

 俺は彼女を殺したくないと思う。

 彼女を殺して生き延びるくらいなら、むざむざと死んでしまいたいと思う。

 そう思うが、しかし俺は彼女を殺す想像を止めることが出来ない。

 口から唾液がタラタラと溢れてこぼれる。

 地面に落ちた唾液を見ると、赤色のものが混じっていた。

 そして俺は彼女の首に食らいつく。もう我慢の限界だった。

 彼女の首の皮膚は濡れた紙のように簡単に破れる。少し酸っぱい汗の味がする。それから俺は彼女の血管を破る。彼女の血管から大量の血液が俺の口の中に流れ込んで、むせて咳き込みかけたが、堪えて湧き出る血を飲み続けた。

 彼女の血はマグマのように熱くて、彼女が少し前まで生きていたことを感じさせる。

 違う。

 今も生きていた筈なのだ。

 俺が殺したから、彼女は生きていない。

 俺は血を飲み続ける。俺は肉を食らい続ける。ただ食べることで何もかも忘れようとする。

 彼女を食らい尽くしてから俺は空を見上げた。

 気づけばもう暗くなっていて夜空には無数の星が広がっている。

 星がどんなに美しかろうが彼女の瞳の光にかなうはずがない。

 彼女が死んだ後、彼女の目を見たら、全然美しくなかった。

 俺はその光を失った目を見て吐いて、その後、地面にこぼした彼女を拾い集めて呑み込んだ。

 もう俺はただ目をつむることしか出来ない。

 胃の中の血が体中の肉に溶けていくのを感じた。

 俺は明日は誰を殺すのだろうか。

 

 


 

 

 

 


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