妻とカレー、時々チャイ
久しぶりに妻と2人ランチに出かけた。
たまたま仕事が休みだったことと、子供達が幼稚園と小学校に行っていた。
2人のときは、大体近くのスーパーで惣菜パンを買ってすませる。
これが我が家の定番である。
しかしこの日は、妻が買い物に出かけなくてはならず、暇な僕は買い物についていくことにした。
買い物も長引き疲れたので休憩がてら、あまり開拓できていない地を巡って、良いお店を探しランチを食べよう、と、自然にそう言う流れになった。
僕らは結婚する前、よくこうして外食を楽しんでいた。
子供が生まれてからは、そう言った機会を作ることができていなかった。
よく食べに行っていたのは、近所のインドカレー屋であった。
本格スパイシーなインドカレーもありつつ、日本人好みに寄せたカレーも選択でき、豊富なドリンクも魅力的、そして何より美味しかった。
ただ、妻はそうでもないが、僕は特に辛いものが苦手だった。
なので、本格的なカレーよりも日本人に合わせた味が好みであり、注文は大体甘口だった。
そして、特に僕らはナンが好きだった。
あのパリッとした部分と、モチッとした部分のコントラストがたまらなかった。
色々と散策しているうちに、沢山のこじんまりとした良さそうな雰囲気のお店を見つけた。
ただ、結局はぐるなびで高評価だった、インドカレー屋に足を運んでいた。
カレーなら大体美味しい、そう思っての無難な選択だった。
そして何より、昔を思い出してカレー屋に行きたい思いがお互いに強くなっていた。
カレー屋は2階に位置していた。
階段は急で、例えるなら山奥にある様な神社に向かう階段だ。
一段一段の幅が狭く、足がはみ出る。
恐る恐る登りながらお店の中に入って行った。
象とインドの国旗が見え隠れし、厨房には、インド人3人がコック帽をかぶり構えていた。
「イラッシャイ、マセ」
絶妙に外す日本語も相まって、異国感漂う雰囲気を外観から感じ取ることができなかった僕は正直驚いた。
「ここは…本格的な店だ」
ふと気づくと僕はそう呟いていた。
店に入って間もなく、おかみさんらしき人がやってきて、注文の仕方をレクチャーしてくれた。
この方だけは日本人だった。
いくつかランチメニューが並ぶ中で、トリプルカレーセットなるものが一番人気であった。
ミーハーな僕と妻は当然それを注文した。
インドカレー屋と言えば、豊富なカレー、辛さレベル、サイドメニューと飲み物を選択できる式で、メニューの幅が広いイメージがあった。
しかしここのカレー屋は違っていた。
トリプルカレーセットを選んだものの、4つのカレーから3つを選ぶと言うものだった。
そして、辛さレベルは選べない。
4つのうち、1つは辛いよ!マークが付いているものだから、もう僕は選ぶこともなくメニューが決まった。
そして、サイドメニューはサラダ固定だった、まあこれはありがちであるから仕方ない。
ただ、極め付けは飲み物である。
マンゴーラッシーが良かったが、これまた選択肢がチャイ、ラッシー、ウーロン茶、コーヒーしかなかった。
そのためラッシーに自動的に決まった。
もはや僕は選んでいない。
この店の流儀に従ってもらう、ほらどうだ、本格的なカレーのお出ましだ。とにかく食ってみろ!たちまちガンジス川が目に浮かぶぜ。流れに身を任せて味わってみろ、トブぜ!
そんな言葉を投げかけられている気がした。
僕がさっさと注文を決めてしまうもので、妻は焦ったのだろう。
普段頼んだのを見たことがない、ウーロン茶を注文していた。
そして、カレーは僕が選ばなかった辛いカレーを含めて3つ選んだ。
そして、30秒後、もじもじする妻に話しかけた。
「どうした?何か頼み忘れた?」
「いや、やっぱりチャイがいいかな…って」
やはり、と思った。
いつもはコーヒーかラッシーを注文するからだ。
ただ、それと同時に、おー、なかなかやるなとも思った。
こんな本格的な店だ、チャイも相当スパイシーだろう。
「あ、そうなの?チャイ好きだったっけ?」
実のところ妻がチャイを頼んだのを見たことがなかったのである。
「好きだよ!お母さんによく作ってもらってた!美味しいよね」
更に僕は驚いた。お義母さんに作ってもらっていた?そんなバカな!本格的なカレー屋のチャイだぞ!家庭で再現できるのか?
そんな気持ちになったが、料理上手なお義母さんだ、きっと手の込んだ物を作っていたのだろう、妙に納得できた自分がいた。
「そうか、じゃ、ウーロン茶から変更するよ」おかみさんを呼んで、謝罪し注文を訂正した。
「チャイ久しぶりに飲むなー」
何だか妻がワクワクしつつチャイの良さを語りたそうにしている。
よっぽど以前に飲んだチャイが美味しかったのだろう。
意外な一面に僕は呆気に取られていた。
かれこれ10年くらいは一緒にいるが、知らないこともまだまだあるもんだな、と感じた。
もともとクセの強い食べ物や飲み物を好まない妻だ、チャイが好きと言うのは僕からすると、とても意外だった。
間もなくサラダ、カレーとナンが到着した。
ナンの先端がまるこげだったのは驚いたが、バターのテカリ具合は最高だった。
きっと本格的な窯で高火力で一気に焼き上げた物だから、先端が焦げてしまったのだろう。
僕は前向きにとらえた。
そして、カレーのスパイシーな香りが食欲を掻き立てた。
サラダもあの謎のオレンジドレッシングだ。
インドカレーといえばこれだろう。
あの謎のドレッシングが何と言う名前かは全く知らないが美味しいことだけは体験している。
そして遅れてチャイとラッシーも到着した。
少々小ぶりのコップであったが、濃厚そうなラッシーは本格的なインド感を出していた。
僕は確信した。
ここはホンモノを提供する店だと。
サラダは一気に食べ切った。
ただ、カレーを食べだした時にふと気づいた。
これ、バターチキンカレー以外めちゃくちゃ辛いんじゃないか?
試しに1人食べ比べをしてみた。
サグカレーとダルカレー、こいつらはヤバい。
特にダルカレー、お前はダメだ。
食べるだけで舌と喉に突き刺さる痛みがある。
そして、この本格的なスパイス。
これは病みつきになる。
が、僕はそれを求めていない。日本風の優しい甘いカレーが良い。
吹き出る汗を拭いながらそんなことを考えながら、カレーとナンを食べ進めていた。
しかし、僕の幼稚な舌ではバターチキンカレー以外では食べ進めることが困難だった。
そんな中、ふと妻の方を見た。
いつも辛い物を食べた時、飲み物をがぶ飲みするのが妻の特徴であった。
いや、むしろ普通な食事の場でも、飲み物の進みだけはやたら早い。
定食を食べるのに、5杯くらい水をおかわりする、そんな感じである。
しかし今回は違った。一向にチャイが減っていない。
「チャイどうした?」
僕はあれだけ好きだと言っていた飲み物が、全然進んでいない事に強い疑問を感じていた。
「私の知っているチャイじゃない。いや、これは、チャイじゃない。」
なるほど。
店毎にスパイスが異なればチャイの味に変化もあるだろう。
この店のチャイは合わなかったのか、仕方ないそう言う時もある。そう思った。
「まあ、チャイはスパイス風味が結構あるし、店の独特の味もあるから、好き嫌いは分かれるよね」
僕が放った言葉に妻は全く納得できていない表情を浮かべていた。
「いや、そもそもスパイス感はわたしの知っているチャイにはない」
その言葉を聞いた時、僕は狼狽えた。
「え?知ってるチャイってどんなの?」
意思とは関係なく気付いたら反射的に質問していた。
「ミルクをあっためて、そこにティーパックを入れて、砂糖を入れた甘いやつ」
それ、ミルクティーやないかい!
インドカレー屋でチャイと言ったら、スパイスバリバリのマサラチャイやん!
それがフツーやん!
あのスパイス感は好き嫌い分かれるが、あなたがそれを好きと言ったんやろがい!
心の中でツッコミを入れた。
取り乱したが表面だけは取り繕った。
得意げに「わたし、チャイわかってます、めちゃ楽しみー」みたいな表情を思い出したら少し腹が立った。
「いや、チャイにスパイスは欠かせないよ。こう言うインド料理屋では特に。スパイスは強めだしそれがクセになって美味しいって言う人が多いんだよ。スパイスにも色々な種類もあるし、調合によっては味の変化も楽しめると思う。でもやっぱりスパイス自体にクセもあるから、飲み物としての好き嫌いは分かれると思う。ちなみに僕は苦手」
少し腹が立っていたからか、普段よりも饒舌に語ってみせた。
ただ、僕はチャイが苦手でそこまで深くを知らない。
しかし、今回だけはどうだと言わんばかりのドヤ顔もしただろう。
珍しく妻に反発してみたのだ。
この真っ当な意見、反論の余地はないと思った。
しかし、妻はこう言った。
「わたしの知ってるチャイじゃない、だからこれはチャイじゃない」
もう負けたと思った。
多分、戦っている世界線が違うのだろう。
どんな言葉をかけようとも、どんな世界に引き込もうとも、彼女はきっと動じない。
ブレない心、これが彼女の特徴だ。
そこが好きだし憧れる。
いや、今はそんなことどうでも良い。
なんてやつだ。
わざわざチャイに変更しておいてこの状態か!
もはや飲む気ないだろう。
そう思いながら僕は意地になって、とにかく目の前の自分のカレーを食べ進めた。
ただ、辛い物が苦手な僕は、すでに口と喉が限界だった。
バターチキン以外でナンを食べることができない。
バターチキンカレーを食べ切る前に何とかナンを食べ切ろうと、ナン9カレー1の割合で食べ進めた。
そして最後に、辛いカレーを一気に流し込むように食べ切って、ラッシーで辛さを中和してフィニッシュを迎えた。
食べ切った事による達成感と満腹感に覆われ、額から流れる汗は、戦いの壮絶さを物語っているように感じた。
そしてまたふと妻を見てみた。
全然カレーが進んでいない。
何ならナンだけ食べていそうな気配すらある。
しばらく妻が食べるのを見てみた。
どうやら、スパイシーなカレーも好みでなかったらしい。
半分以上残していた。
だが、辛いと言われていたカレーについては、何故か空になる勢いで食べていた。
それが気になった僕は、そのカレーを恐る恐る一口だけ食べてみた。
あぁ、これはバターチキンカレーを少しだけ辛くしたものだ。
多少ピリッとこなくもないが、とても食べやすい、日本人好みの味だ。
とても美味しい。
辛いと言われていたカレーはそこまで辛くなく、ダルカレー、サグカレーが異常に辛かった。そして何より強いスパイシー感があった。
メニューには辛いと表示のあったカレーは一体何だったのか。
辛いのはダルとサグの野郎だ。
こいつらは、よってたかって舌と喉をいじめやがる。
まるで悪魔の様だ。
そんな事を考えている間に、妻もナンを食べ終わっていた。
そして気づかないうちに僕の皿の上にチャイがあり、飲み干したラッシーのコップが妻の皿の上にあった。
無言の圧力だった。
もう一回だけ言っておく。
僕はチャイが好きじゃない。
それを知っての行動だ。
あんた早く飲みなさいよ。
そんな表情で僕をみている。
仕方なく一口飲んだ。
そう、僕はドMだ。仕方ない。
やっぱり不味かった。
それでも妻の表情は変わらない。
なので一気に飲み干した。
妻の表情が明るくなるのを感じた。
そして、やっと飲んだか、みたいな顔もしたように感じた。このやろう。まあこれは僕の被害妄想かもしれない。
それと同時に、口の中に広がるスパイス感に強い不快感を覚えた。
そんなのことは気にせず、水を飲み干し妻は会計に向かった。
僕もあわてて水を一気に飲み席をたった。
会計を済ませ外に出る。
「最後のチャイどうした?」
僕は妻に聞いた、反撃の糸口を探したかったのだ。
「あなた、ああ言うの好きでしょ?飲みたそうにしてた」
やはり世界線が違った。
ただ、僕はドMである。
取り扱い方法は妻の方が一枚上手であった。
また行こう、このカレー屋さん。
急な階段を降りるとき、パンパンになったお腹が邪魔で下が見づらかった。
何とか下に降りた後その時妻が僕に言った。
「あなたご先に降りてくれて良かった。これ、わたしが先に降りてあなたが後から降りてきて滑って落ちたら、わたし大怪我するよ」
ここで気付いた。
世界線が違うとかそう言う次元ではない。
僕は既に彼女の世界の中に取り込まれた一つのピースに過ぎなかった。
なので、様々な反撃が空を切るのも仕方がなかった、世界の支配者は彼女だったのだから。
ただ、それはそれで心地が良かった。
「そうだね、僕が落ちて巻き込んだら大怪我じゃ済まんよ、最悪死ぬで、デブだし」
そう言うと妻は大笑いした。
それを見て僕も笑った。
何となく昔の懐かしさを感じた気がした。
このカレー屋さんまたこよう。
僕は密かに心の中で誓った。
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