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古今叙事大和本紀 序章 静かな海からの旅立ち 5

 岳は泣きながら松林の混沌を走り抜き、遂に砂浜へと転がるように抜け出る事ができた。
 口に入る砂を吐き出しながら海の方に視線を向けると、先ほど我が身に起こった出来事など露知らぬように、月夜に晒された静かな瀬戸内が目の前へと相変わらず広がっていた。
 どの描写であろうとも、いつもこの海に魅せられていた岳であったが、今だけはそう悠長な事など言ってはいられない。
 全身に纏わりつく砂を振るい除き、砂浜の端へと足を早ばせた。

 岳は弥生と出会うまで一人きりで生きてきた。
 一人で考え、一人で行動し、何か思い悩む時にこの海原を見つめては、一人で頭を抱えていた。即ち、正しく独りであった。
 そんな孤独だけを抱えながら過ごしていたある日、岳の身に不思議な出来事が起こったのだった。
 岳の家は近隣周辺の村から少し離れた所に在り、余程の事がない限り村から民が訪れる事などなかった。しかしある日の宵中、家から一番近い場所にある村の長が突然岳の家の前に姿を現した。
 どこか戦慄した面持ちで岳の方を見つめながら立っていた。
「山野村の長よ、こんな刻にいかがなされたのじゃ?」
「岳津彦よ…。単刀直入に物申す。川利村と我が村の戦、是非我らと共に戦ってはくれぬか?」
 山野村と川利村との戦…。
 確かこの村々は、祖の時代から共に力を合わせ山賊や海賊などと戦う為に、熱い契りを交わしている同盟村と話を聞いていた。そんな村々が何故、戦を勃発させようとしているのか…。岳は長に問いた。
「熱い同盟村と聞く汝らが、何故にこの刻に有事と至ったのじゃ?」
 長は暗い目を更に暗くさせて岳から視線を逸らした。
「それは汝の知らなくても良い事じゃ。珠の剣一門である汝の力を手にすれば我が村にとって大いなる飛躍の一歩である事は明白なのである。明日の朝一番に我が村へと出頭し、有事への準備をせよ。では、明日に待ちわびているぞ、岳津彦よ…。」
 長はそういい残すとすぐ様その場から立ち去っていった。
 岳の胸には様々な疑念と疑惑が憑依し、何とも言いようのない混沌とした想いに苛まれていった。
 まず岳が思った事は、理由聞かずして戦に参加する意味などないという事。
 しかも火の精霊『珠子』から賜っている珠の剣術を、そんな訳の分からない戦へ用いられようとしている事が岳に対して心外の他、何物でもなかった。
 実は、ここ二年ほど前から吉備国の豊かな森が明らかに変わってきている事に岳も気がついていた。湧き水は昔から比べると明らかに減っていて、木々の青々と奏でられていた彩りも、どこか卑屈に感じるほどであった。
 そんな森や松林に住んでいる動物達に安息な暮らしなど訪れるはずも無く、以前から消極的な精霊達はいつの日か姿を現さなくなった。
 吉備国は愚か、この土地の他など何一つ知らない岳にとっては、何がどうなっているのかさえ想像できないが、只一つだけ、どこかで災いが起ころうとしている事だけは感覚していた。
 祖から紡がれてきた美しいこの地の、心優しき民達が今、牙を剥き出し合い、血で血を洗うように戦い続け、この地が戦火に埋め尽くされてしまった後の話など…。
 しかしながらどうする事もできない自分の無力さが歯痒くてしょうがなかった。
 ここはまさか、やはり朝一に山野村へと出頭せねばならなくなってくるのか。それに対して、自分なりに意味を見出す事ができるのか、珠の剣術を用いてこの地の民を殺める意義は存在するのか…。岳は激しく憂いた。
 想えば想うほど、どうしたらいいか、どうなってしまうのか分からない切迫感が岳の心を擦り減らしていき、次第に疲労感が全身全霊を苛めていく。今はそれを拭い去る力など岳にはある筈も無く、ここだけは唯一の絶対領域である我が家の中でも形の無い不安に縛られて、激しく打っている脈は治まる気配も無かった。
 息が詰まる感覚が嘔吐の如く込み上げてきて、やっとの想いで玄関の外へと飛び出した。家のすぐ側にある木に背を預け、正しい脈の取り方を思い出すように激しく呼吸を繰り返してみても、やはり動悸は一向に治まる気配などない。
 まるで木偶の坊みたいに全身をふらつかせながら、思わず辺りを見渡してみると、そこには当たり前のように闇しかなかった。
 しかし、ここにいるだけではこの動悸が治まる事など絶対にない。兎にも角にもこの場を離れなければならないと思った岳は、まるで誰かへと救いを求め、この場から逃げ去るように、岳は松林の中へと飲み込まれていった。
 草木も眠る宵の中、この松林の中は漆黒の闇に塗れていた。
 しばらくは闇の中を何想う事もなく彷徨い続けていると、あれだけ激しく脈打たせていたこの胸が、確実に沈静化されていっている事に岳は気がついた。
 もしかするとこの松林がもたらす闇が、人の心を癒す効果でもあるのだろうかと考えてみたが、直感的にそうではないと思った。
 ただ、幼き刻から岳を育んでくれたこの松林が我が父であり、この先に広がる瀬戸内の海が我が母であるのだ。
 今は我が父の胸にひたすら抱かれているという事になり、心が安らぐのは必然の事なのだ。そう思うと岳は何故か可笑しくなり、腹を抱えて、大声で笑いながら、相変わらずの闇を一人歩いた。
 今まで一度もこんな宵刻に松林の中を歩いた事など無かった訳で、日中なら必ず姿を見せる春日や珠子の気配も感じられない。ただ、今いないだけなのか、気配を晦ませて、いつもより少し様子のおかしい岳を、どこかで伺っているだけなのかは気になるところではあったが、今こそ我に返った岳には最早どちらでもよかった。今度合った刻に問いてみても、敢えてはぐらかされる事など安易に想像できるのだから…。
 どの方角へ自分自身が足を運ばせているのかさえ分からないまま、直感的に路を歩いていると、ふと風が微かな磯の香りを乗せて頬をなぞり始めていた。
 我が母なる瀬戸内の海が近い。そう感じると、岳は思いもよらず、その場の空間を切り裂くように身体を駆けさせていた。

 葉と葉が奏で生む闇は月の光によって徐々に薄まりを見せ始めたと感じた刻、今まで自分の行き先を邪魔するように枝を伸ばしていた木々が、まるでその場から端へと追いやられるような形で生え始め、ふと気がつくと、神殿ほど広い空間がふと視界に広がり、岳は足を止めて息を呑んだ。
 そこには未だ見た事のない昆虫が地を這い、宙を舞っていて、足元には少し背の高い小さい黄色の花をつけた植物が所狭しと風に揺れていた。
 その幻想的と思える空間を朧気に見尽くしていていると、この広がる場所のそのまた先に、今まで通り過ぎた際、見てきた松よりも一回り以上大きい松が二本、左右対称に佇んでいて、その木の麓からこの松林の闇に一閃の光が差し込めていて、そこがこの松林の出口だと岳は確信した。
 辺りを促しながらその場へゆっくりと足を進ませていき、その猛々しい松の麓へたどり着くと、光が指す隙間が、先に立っていた場所から眺めていたより大きなものだと感じた。
 たどり着き立ち止まった今、背中から寒い感覚が這い出てきて、ふと振り返ってみてもそこには月の光に薄く照らされている空間しかなかった。
 不可思議に思いながら、再び足を向ける方へと視線を移すと、その左右の大松から白い霧が交差するように噴出していた。その霧が渦をまくようにぶつかり合い、それは次第に人型と化していく。
 岳はその有り様に目を見開きながら見尽くす事しかできずにいると、その霧のような、煙のような人方から、まるで心を直接触れるような声で語り始めた。
「この地の民、岳津彦よ。汝の憂いを我が闇がしかと受け止めた。然らば、汝は…。」
 その霧のような者の発する言葉の先を岳は呆然と待ちわびていたが一向に言い出さない。ここに現れるという事はこの松林の何かの精霊である事には違いないのだが、今やはり我が心にどこか歪があるのか、その霧の人方が誰かとは分からず岳は徐に叫んだ。
「汝、何者じゃっ!!何故に我が前に姿を現したっ!!!まず自ら名を名乗る事が礼儀というものであろうっ!!」
 岳の金切声を、特に思う事無く、霧人は諭すように優しく呟いた。
「岳、感覚として我が分からぬ程、心此処にあらぬのだな?汝の描写を傍観していたが、致し方なき事…。」
 え…?この者誰だ?その言葉に岳は姿を後ろにたじろかせながら思った。更に霧人は言う。
「日々の事柄は辛く険しき物。耐え難きを耐え、偲び難きを偲べと我は汝に伝えよう。ただ今宵は…。」
 岳はこの闇に再び神経を研ぎ澄まさせながら、この霧人が発している言葉の含みを、我が五感の全てをかけて考え尽くした。
 岳は意識をはっとさせて、すかさず霧人の方へ視線を向けて呟いた。
「ま…まさか…。父上…?」
 岳の言葉に霧人は何も動じず、深遠とも感じる面持ちで立ち尽くしていた。
「汝がそう呼びたいのならばそう呼べばよい。我はこの松林の神。幾千年もの古より、ただこの地を治めているしがなき国津神なり。」
 霧人の諭すような言葉は、しっとりと濡れる大地のように染み渡り、いつしか岳の心は落ち着きを取り戻していた。
「貴方様がどう申されようと、我が父である事に変わりはございません。」
「ならばそれならそれでよい…。しからば岳よ、父の言葉を今、疑わずして聞けよ。」
「ははあっ…。」
 岳はすぐさまその場へと平伏した。
「今宵、この先に汝を待つ御仁がおられる。そのお方に心中を曝け出すのじゃ。さ、先を急がれるがよいぞ。」
 そうとだけ言い放ち、父の姿はその闇に溶け込むように消えていった。
 岳は感極まる心のまま、父の姿を垣間見たが故、止め処なく頬を伝う涙を隠すようにその場から動けず平伏したままであった。
 父の姿がない事を密かに確認し、涙を拭いながらその場へと立ち上がった。
 そして視線を前へと向けると、今まで父の姿で見えなかった我が母である瀬戸内の海が満月の光に煌き揺れている姿が視界に広がっていた。
 潮風が岳の髪を靡かせては消えていく。砂浜は月の光と戯れを見せ、白金のように輝いていた。
「なんと素晴らしい…。宵中の海がここまで美しい姿を見せていたとは…。」
 その美しい景色に心奪わせながらぼんやりと足を進ませていると、いつしか砂浜の端までたどり着いていた事に気がついた岳の前に、大きく聳え立つ岩山一つ、薄く紫立ちたる妖艶な光を放たせていた。その岩からこちらへ優しく見つめる視線のようなものを感じ、何を思う事もなく岳はその側まで歩み寄っていった。
 そして天を仰ぎ、何気なく岩肌へと手を触れると次の瞬間、これまで聞いた事がない旋律のような美しい声が岳の頭上へと降り注いできた。
「貴方、どうしたの?そんな鬱々しい顔をして…。男の子でしょ?その男前の顔が台無しだわ…。」
「えっ…、何っ!?」
 その声に岳は驚愕させ天を再び仰ぐと、そこには麗若き女人が一人、左手を腰に当て、柏の葉を右手に持たせ、妖艶に腰をくねらせては耽美な睫をゆっくりと瞬かせながらこちらを眺めるような視線で見下ろしていた。
 二千年後の言葉を股度用いると、それはまるで八頭身でモデル並みのプロポーション誇る、目鼻立ち豊かで、バッチリメイクを決め込んだお姉さ…、否、姉君が、岳の前へと姿を現したのだった。
 柔らかい声が、岳へと変わらず降り注ぐ。
「男の舐めるような視線には慣れてるけど、そんな訝しげな視線で私を見るのだけは心外よ。…まあ、いいわ。今からそちらへ行くから…。」
 そう言葉を発しながら、まるでふわりと舞うような出で立ちを表現しながら岳の元へと降りてきた。父が申していた御仁とはこの者なのだろうかと思ったのだが、今の岳には如何せん艶かしく、こんな不埒な女人に心を曝せと言われても、何を伝えれば良いのか…。
 全身に悪寒を這わせながら、その怪しげに醸し出す雰囲気をひしひしと感じながらもその姿をまじまじと眺める他なかった。
「貴方、ビビりすぎっ!!」
「えっ!?ビビっ…!?」
 岳の反応に「きゃはは」と両手を頬に当て、まるでお転婆と思えるほどの笑い声を上げながら女人は再び言葉を発した。
「あ、気にしないでね。そんなに驚かなくていいのよ?貴方、お父上からも私の事聞いたでしょ?だからっ!!」
 その女人の言葉を聞いても、父が何故にこの者へ私を誘ったのか、今のところ全く検討もつかない。
 岳は考えれば考えるほど、感じれば感じるほど訳が分からなくなってきて、徐に腹の底から叫んだ。
「汝、何奴っっっ!!!!」
 そんな岳の情緒不安定な姿を、まるで癖のように右手を頬に当て、困り果てた面持ちで女人は言った。
「そんな怖い顔浮かべちゃって…。まあ、そこもいいところなんだけどね…。いいわっ!名乗ればいいんでしょ?名乗ればっっっつ!!」
 そう言い放つと、辺りが唐突に凛とした雰囲気へと変わり、その女人の先ほどまで見せていた妖艶な立ち姿は、神々しく感じるものへと様変わりしていた。
 そして女人は誇らしげに言葉を発した。
「我が名は天鈿女。民の心の隙間を埋めしもの。」
 辺りは緊迫した雰囲気に包まれているものの、月の光だけは変わらずその女人を照らし出している事に岳は何故だか違和感を覚えたが、今はそんな事を気にしている場合でもない。
 この登場の雰囲気からこれまでの経験を元に感覚すると、現役女神が実際この場へと降臨し、卑しくも民である我に語りかけてくれているという、全くもって信じられない出来事を目の当たりにしている瞬間であった。
 しかもこんな豊満な体つきをした女人に視線を向けられている事など…。
そういえばと今こそ思い返してみると、これまでの人生の中で女人とまともに接した事は愚か、話した事さえなかった。物心がついた頃には村の外れでひっそりと暮らしていた岳に女人と関わる機会などある筈もなく、そして今、妖艶な雰囲気で、耽美な長い睫の、見た目麗しく、豊満な体つきを誇る女人から放つ熱い視線に、岳の心は篤く、切なくなるしかなかった。
 浮き足立っている心情にふと、真面目一徹である本来の自分の声が聞こえてきた。

『この女人は神である。父上に何かを伝わり、我が声を聞く為だけに降臨なされた女神なのだ。父上の教えに基づき、この女神に全てを打ち解ければ良い。ただそれだけなのだ…。落ち着け、我、岳津彦よ…。』

 自らの声に意識を取り戻した岳は、とりあえず我も名乗り返さなくてはならないと思い、きつく瞳を尖らせて前を見たものの、やはりその女神の姿に心は揺らいでしまう。経験不足とはよくできた言葉である。
 やはり心此処に在らずというような心情のまま、岳はとりあえず口から言葉を出任せた。
「えーーーーーとっ。わ、我が名は、たたた、岳津彦と申す。うーーーんと。い、以後、おおお、お見知りおきを…。」
 明らかに尋常ではない面持ちで言葉を発した岳の姿に、天鈿女は何故か気を良くしたように「きゃはは」と天真爛漫な笑い声を上げ、満面の笑みを浮かべていた。
 笑う時、頬に両手を当てるのはこの女神の癖なのだろう。
 しばらくは何故か嬉しそうに左右へと体を揺らしながら微笑んでいるだけで、この女神が登場した刻に持っていた筈の柏の葉も足元で同じように風に揺らされていた。
 掴み所のないこの女神を困惑しながら見尽くしていると、何かに気づいたように、はっと目を見開いて、頬に手を当てた姿を残したまま岳に視線を向けた。
 そしてみるみるうちに大粒の涙が零れ落ちそうに瞳を潤ませていき、辛酸舐めたような表情へと変わっていった。
「お父上から話は少しだけ聞いたの…。今、困ってる事あるんだって?どうしたの?」
 その言葉に我、至って冷静に想ふ。
『本来の降臨した意味を今こそ思い出したのだろう』と…。
 掴み所はやはり見当たらないし、時折、人の心を弄ぶ描写はあるものの、どこか愛らしく、憎めないこの女神の事をきっと嫌いにはなれないと岳は思った。今、我が鎖を解き放ち、この女神に心情を語らねば成らぬと思い、岳は意を決して言葉を発した。
「いや、天鈿女命、実は…その…。」
 まるで岳の声を相殺するように天鈿女の言葉が覆い被さってきた。
「私の事呼ぶの、アメちゃんでいいわ!」
 アメちゃん…。アメ…ちゃん…?アメは何となく分かるものの、『ちゃん』って何だ?全く持って知識の中にない呼び名の種類に困惑し、岳の回路は一瞬にして凍結した。
 幾ら思考してみてもやはり答えは見出せない。これまでの描写の中で、この女神が放つ天真爛漫さが故に、様々な事が流されていった訳なのだが、今こそ断固意見すべき刻が来たのではないかと厚く岳は思った。
「否、天鈿女命。アメはまだ理解できるものとして、『ちゃん』とはそれ即ち如何なるものぞ…?」
 岳の反応にどこか嬉しそうな面持ちで天鈿女は言った。
「えっ?岳の祖にもアメちゃんって呼ばれてるから、あんまり深い事気にしないのっ!?」 
 その言葉に岳の心はざわついた。その刹那、二人の間を遮るような風が髪を靡かせては消えていった。
「私の…祖?」
 やっとの想いで口にできた言葉にいとも容易く応えてきた。
「そうよっ!さ……、えっ!?」
 その鏡のような大きな瞳の中に、蒼白した自身の姿が見えたと思うと、すぐに目を細め、疑うように顔を傾けながら呟くように言った。
「岳ぇ…、実は自分の祖知らないとか言うんじゃないわよねっ…?」
 その質問に対してなら迷いなく答えられると思い、岳は自信満々に力強く頷いて見せた。すると…。
「えええっっ!?まじっ!?それ、まじ言ってんの!?つか、信じらんないんだけどっ!!!まじっ?ええええっっっ!!!?」
 天鈿女自身が爆発したかと思うほどの大声というか、奇声というか…。何よりも訳の分からない事を発しながらその場で乱痴気騒ぎを起こしていた。
それは無知に対して馬鹿にしている感じではなく、懸命に生きてきた人生そのものを愚弄されていると感覚し、流石の岳もこれには堪らなくなった。
 物心ついた刻には既に何も無く、雨の日も風の日も呻き声さえ立てず、たった独りで気高く駆け抜けてきた我が人生とは…。そう思うと我ながら居た堪れない感情が心底から煮えたぎり、気がつくと頬が涙に濡れていた。
 熱い涙は頬を伝い、暫くその場へと立ち尽くす事しかできなかった。天鈿女は相変わらず乱痴気騒ぎを続けていて、この涙模様はどうやら幸い気づいてないらしい。
 岳は即座に顔を下に向かせて、腕で涙を拭い、深い呼吸を幾度か繰り返した。ようやくすると脈は正しく打ち始め、気持ちも安寧に向かいつつある。
漸く本来の落ち着きを完全に取り戻した岳は、口をきつく縛り、三角眼で睨むように前方へと視線を向けた。
「岳、もうその眼で私を見ないで…。」
「えっ…?」
 華のような息が薫る距離に天鈿女の顔…、というよりもその大きな瞳だけが岳の視界を支配していた。
 視線がぶつかり合う事暫し、岳の身体は岩のように固まってしまった。すると、みるみる内に岳の全身が赤くなったと思うと、瞬時に青くなり、次の瞬間岳は叫んだ。
「宇和嗚呼嗚呼あああああああああああっっっっ!!!!!」
 
『この私に何を仕出かすつもりなのだこのオン、…否、この女神は!このような事など、こんな不埒な事などあってはならぬっ!私はこの吉備国の猛々しき民、岳津彦なのだっ!そう、うん…。』
 
 天鈿女が立つその場所から跳ねるように飛び退いていき、激しい動悸に苛まれながら少し離れた砂浜へと落ちていった。その場へ身体を這い蹲らせて息を荒げては高ぶる心を治めようとしていた。
 しばらくすると落ち着きを取り戻し始めた時、背後に気配を感じた矢先、肩に手の温もりを感じた。
「ちょっと悪ふざけ過ぎたみたいね。うふふっ。」
 相変わらず無邪気な笑顔まま、天鈿女明るく声を発していたが、その反面、岳は再び心を取り乱した。せっかく落ち着きを取り戻しつつあったが、このような事を繰り返されると情緒不安定にならざるを得なかった。
 そんな事など露知らず、天鈿女の天真爛漫な言葉は続いた。
「うふふ、まあいいわ。そんな事より、本来の話に戻りましょ?一体何があったというの?」
 本来抱えていた問題も大切だったのだが、それよりもこの女神が発した先の話の方が岳には気にかかってしょうがなかった。
「いやーーーー。天鈿、否、アメちゃんさん?申し訳ないがその前に一つ、伺っておきたいことがあるのだが…。」
「ん?何?」
 爛々とさせた瞳に、岳は再び赤面させて身体を硬直させてしまいそうになったのだが、『我こそ吉備の漢ぞ』と奮い立たせ、自らを叱咤させた。そして岳は勢いに身を任せて言葉を迸らせた。
「我、我こそが吉備の漢っっっ!!!」
 嫌に冷静な瞳に変えて、天鈿女はその言葉に応える。
「え?そんな事など知ってるわよ?」
 思わず口にした言葉に我ながら又度、顔を赤面させた。
「否、あ、あ、あ、アメちゃんさん…。貴方に問う。私の祖とは、一体何者ぞ…。」
 その言葉に気を良くした天鈿女は、再び天真爛漫さを取り戻したように岳を見た。
「まあ、いいわ。嫌でも分かる時くると思うから、今は私の口から教えてあげなーいっっっ!!うふふふふ。」
その長い睫を幾度も揺らしながら、意地悪そうに上目遣いで岳を見ながら言った。
 岳は思った。

『何て意地の悪い奴だ…。』

 一瞬にして、五臓六腑から光が抜けていく感覚に陥り、岳の心はもぬけの殻になった。しかしながらそうなってもいられない。本題に戻らなければならぬのだ。
 岳は再び心に光を取り戻し、父の教えの通り、この女神に我が心を打ち明ける決意を固めた。と、その瞬間…。
「もう、じれったいわね。先に言うわっ!そんな戦、岳には係わり合いがあるの?」
 その言葉に岳は深く思い返せば思い返すほど、関係もなく係わり合いもない事だという結論にしか至らなかった。
「えっ?何故それを…?」
 困惑。覆いかぶさる感情が我が身を混沌とさせていったのだが、それを風の如く拭い去るような言葉が優しく降り注いだ。
「うん、知ってるわ。貴方のお父上から全て聞いているもの…。だから、もういい加減うるさい事言わなくていいのよ。」
 そんな事を言われても、やはりどうすればいいか分からない。だから逆に問うことにした。
「では、どうすれば…?」
 しばらく沈黙が続き、岳の心も不安がやどり始めた矢先、視線が合ったと思うと、一瞬だけ片目を閉じ、軽く首を揺らせながら微笑んだ。そして、初めに見せた出で立ちで、我が未来を掌握するように易しく言葉を発した。
「んっと、岳、それ、ほっとけばいんじゃない?」
 その言葉には反論の余地がある。
「しかしながら、アメちゃんさん。山爺にも川爺にも日頃から世話になっているが故、この有事をほっとく訳にはいかぬのだっ!!!」
「んっ?だからって貴方、珠ちゃんの術を使って、貴方が知る民を殺めてもいいって話になるの?」
「珠子を知っておるのか?」
「当たり前じゃない、私を誰だと思ってるの?あの子親戚の子みたいなもんだから?」
 シンセキ?言っている意味はよくからないが、どうやら近しい間柄であるらしいから余計に自分の事を心配しているのだろうか。
「珠子にはいつも世話になっておるのだ…。」
「あの子、いい子だから、岳ならいつまでも優しく過ごしていけると思うわ。」
 右手に翳していた柏の葉が風に躍らせられていた。そして言葉は続く。
「大体ね、私想うの。川の水を巡って争うなんてどこかおかしいじゃない。て言うか、そんな人の手によって争う事なんて私には考えられないわ…。」
 その天鈿女の言葉でその戦の根本を理解する事ができたのだが、何故此処で理解しなければならないのかという感情が芽生えてきた。しかし、ふいに嫌な予感がして、岳は口を噤む。それは、その戦の根本が解った今、介入する必要もないという事に気がついたからである。それよりも解決の糸口を見出す事の方が最優先だと岳は思った。
「双方共に生きる路は無いというのか?」
「ある事はあるんだけど、でもね…。」
 長い睫を揺らしながら、遠くを見つめ呟くように言った。

 静かな海からの旅立ち 5  6に続く

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