現実はなぜひとつなのだろう 『ゆるく考える』/東浩紀
「意味」に居る私
『黒い正方形』という、無対象を志向した絵画がある。
「約束事」とはつまり、絵画そのものが持つ《写実性》である。つまりは、絵画は何かを「再現」するプラットフォームであり続ける限り絵画的リアリズムは絵画に存在していない、と逆説的に示してしまうような事実のことを〈規定性〉のある「約束事」として保持している、ということだ。
いつでも私たちの視野は「中心となるもの」と、その「中心の周囲の背景となるもの」の、2つの要素から成立している。全ての事物に対して、ピントを合わせて視ることはできない。そういう意味では、全てにピントが合った絵画というのは、実は写実的ではない。
このような、ウィレム・クラース・ヘダによる静物画は、「徹底した写実性を伴いながら、その内には非現実性も含んでいる。」この命題が崩せない限り、この絵画は写実的ではないことになる。(写真も、グーグルマップも、これからリリースされるだろうグーグルマップライブもそう。)このような問いで追及されるのは、『写実性に付与された〈規定〉』についてだ。私たちは、事実について、俯瞰するための冷静な立場を持てるような、学知や知恵が必要なのではないか。この問題提起によって、上記した「約束事」の不要性を考えるに至ると思うのだ。
ようするに、私(たち)は何も見ていない。
上記の抽象画は、徹底した無対象(非現実的・非写実的)であるがゆえに、「(私たちが)何も見ていない」側に存在する「見えるもの」へ視点を移動させてくれる。無対象な黒い正方形が面前に表れることによって、私たちが今存在する世界が〈背景〉へと置き換わり、私たちが「見えないもの」として「見える」ように仕向けられる。
黒い正方形が、絵画のリアリズムに気付かせてくれる。そして、私たちの〈規定〉された現実、背景に退行した現実そのものを、「見えないもの」として可視化してくれるのだ。
そして、ウィレム・クラース・ヘダによる静物画のような、いっさいのものが前に歩みでてくるような「究極の背景」はそれ自体が存在し得ないということになる。「芸術」は、さまざまな誤認識からの解放を提起してくれる。
「世界」は、一義的(ここでは、「極めて写実的な」と言う方が今までの文章と繋がりやすい、かもしれない。)なものではなく、実に多様なものとして存在するしかない。よって、芸術や学問を振興することには意味が在るのだ。民主制の基本思想に倣えば、この振興は万人に平等に、半ば義務的に存在してもよいのではないかとさえ思う。
何者か見せられている現実に、私たちは存在している。しかし、私たちの実在は、「究極の背景」という『統一的世界』には存在していない。断続的に変容する自身の「価値観」や「意味」の中に、私という実在の意味が存在している、そういう示唆を感じる。
ゆるく考える
『ゆるく考える』は、批評家で作家の東浩紀による、「平成20年代」の思想が詰まったエッセイ集である。本著においても、上述したような「私のありか」的な話が、多分に散りばめられている。
特に印象に残った話に、「シミュラークルな想像に対する唯一性」がある。「たしかに!」と、誰もが思う内容だと思う。
たとえば、自転車で数分でいけるような「地元のショッピングモール」は、私にとって、小学生の時の青春を描いたキャンパスのようなもので、そのモールはわたしにとってかけがえのない、特別な場所であり、思い出であり続けている。過去、(都会ではない)田舎という現実を覆い隠すような、役割があった「モール」は、たしかに私の心に、「青春の唯一性」を思い描かせ、一種の陶酔を覚えさせる場所になった。
「青春」という観念自体に対し、オリジナルを探求することは不可能であるのかもしれない。私は、小学生の青春を「モール」という反復性のある模造(シミュラークル)からしか、《もはや感じ取ることが出来ない》仕様に近似していると言える。
シミュラークルは、様々な観念に存在する。その内で現象している、なにかしらの「唯一性」、もしくは「究極な背景」や「統一的世界」は、シミュラークルなのだ。これは、私の実在の「意味」だ。この「意味」は、絶対的なものではなく、シミュラークルである。この「意味」自体で、他者の何かを判断することはできない。しかしながら、それゆえに私の実在は、この「意味」自体に存在している、と言えないだろうか。
(ちなみに「ジャスコ」のことを言っています。ジャスコ本当にスキ。)
キャンパスはキャンパスのみで存在できない
絵画を描くための「無地のキャンパス」は、その絵画自体によって、さらにいえば絵画の最小単位である絵具によって、その存在を認知されるに至る。しかし、「無地のキャンパス」でも、「何かが描かれたキャンパス」でも、そのキャンパス自体の存在は、何かの背景を伴って存在するしかない。無地のキャンパスに「何を思うか」、また何かが描かれたキャンパスに「何を思うか」、そこが重要だ。
強固な写実性は、そこに偽の現実を見させる。強固な抽象性は、そこに私自身の意味を見させる。そして、シミュラークルな現実は、写実性と抽象性の両義的な意味を見させる。(モールという物質的模造と、モールに付与した唯一的な観念)
私は、この徹底された合理的観念に、どこまで「軽薄」でいられるのか、試していきたいと思った。
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