見出し画像

『ホモセクシュアルな欲望』を読み解く vol.1

1993年刊行の『ホモセクシュアルな欲望』には、一貫した《異性愛規範の問いただし》があります。
「問い直されるべきなのは、ホモセクシュアル側ではなくヘテロセクシュアル側である。」という主張です。

当時、この視点には目新しいものがありました。
しかしながら、それが今の我々の「無意識的な何か」になっているとは言えません。

30年前の著作ですが、そのような意味において(非常に残念であるという意図も込めて)、現在でも色褪せることのない内容になっています。

以下も参考にしています。


序章

P13¶1
「同性愛者の大多数は同性愛者であるという自覚的存在すら持ち合わせていない。」

ホモセクシュアルという欲望は社会的メカニズムによって徹底的に排除されている。そしてそれは、幼少期から始まっている。これにより、ホモセクシュアルな欲望は、どんな人であれ、このメカニズムによって忘却されることから、逃れることが出来ない。そして、このようなホモセクシュアルな問題については、誰にでも「自分は関係ない。」と言わせるのに、十分な力がある。


P13¶2
ホモセクシュアリティという概念自体が、男性というイメージに偏重している。この区分に関しては「男性支配」に影響していると思われる。また、この男女という二分法に支配される区分に関して、それに賛同しているという示唆は持っていないと、念を押して言われている。


P14¶1
「さて、私たち誰もがすでに感じ取っていながら、日常の体験では決して問題にされることのない欲望という名の諸欲動(表現形式)がある。だから、私たちが自分自身の欲望と信じているものについて、よくよく考えているなどということに同意出来はしないのだ。」

ヘテロセクシュアル的環境から考えてみれば、「自分自身の欲望=社会的な欲望」というように必ず一致するということであり、それについてよく考えてみようということについて、意味のないこと、考えること自体に同意できないこととなってしまう。これについては、自慰行為を例にとっている。自慰行為というのは、誰もが見覚えのある行為であるがゆえに、その時に得られた自己満足的なものを、隣の他者に伝えようということは決してしない。


P14¶2
「欲望は多種多様な形をとって現れる。その個々の構成要素はただ後から分けることが出来ただけだ。 つまり、欲望を私たちがすっかりその手に委ねてしまう処理の仕方によって。ヘテロセクシュアルな欲望と全く同じく、ホモセクシュアルな欲望もまた、絶え間のない多義的流れの恣意的な切断の1つなのだ。」 

誰もが感じる欲望については、そもそも多義的であり、1つの切断面にすぎない。そうであるとして考えてみれば、誰にとってもホモセクシュアルな欲望はあるという命題は完全否定することは難しいことになる。ホモセクシュアルと欲望が、強いイメージの作用によって結びつく。それは、「社会的構造」と「それを忌避するマジョリティ」の2者によって促進される。社会的構造は、前述したメカニズムのこと。今のイメージの脱構造によって、人間本来の欲望を解き明かすことに繋がるのではないか。それは、「他の場所では秘密のままだったもの」である。


P15¶1
アルフレッド・アドラーは、自身の著書である「ホモセクシュアリティの問題」において、ホモセクシュアリティは「正常な世界を震撼させる。」といっている。しかしそのような発言こそ、厄介払いをしたと言い建てたはずの災難を再び起こしているに過ぎない。


P16¶1
「資本主義社会では、それがプロレタリアートを生じさせたように、同性愛者をもまた生み出したのだ。」
「ホモセクシュアリティは正常な世界の産物だ。...リベラルな意味で、当を得たものと理解しないでほしい。(中略)その似非(えせ)の、進歩主義的立場こそ、同性愛者にとって、公然と行われる禁圧よりもはるかに情け容赦のないものだ。」

ホモセクシュアルという分類については、ほんのつい最近にされたに過ぎない。それは、精神医学や精神病院などの疑似科学的思考によるものであった。男色なども、他と区別せずに存在していたのに、そのような粗野な偏狭さによって、むりやりに「ホモセクシュアル」という社会的身分という烙印を押されてしまったに過ぎない。このように身分が固定化されることによって、欲望が欲望のまま存在していた個々人が、中心に集められてしまうことになった。そしてそれは、心理-警察的カテゴリーとして作用していたことを示す。


P17¶1
キンゼイの報告⇒「ヘテロ50%、バイ46%、ホモ4%」
「誰もが知るわずかの〈おねえ〉が問題なのではない。あらゆる2番目の人間(バイ)こそ、問題になってくる。」 

セクシュアリティに関しては、キンゼイスケールというものが開発され、「正常さの権利を量的に回復すること」が出来た。これにより、ホモセクシュアルな欲望が個々人のよって等級付けされ、そのパーセンテージを押し付けることになった。


P18¶1
上記のような出来事により、正常なセクシュアリティは四方八方から取り囲まれて、端のほうから浸食されてしまっている。なので、ホモセクシュアルを倒錯した欲望として隔離し、減らしていこうというあらゆる尽力がなされた。しかしながら、それは逆に、ホモセクシュアルな欲望の顕在化に繋がり、中心に押しやる結果となった。同性愛者に発言の機会を与えなかった臨床においては、その欲望の声が顕在化することにより、様々な個々人がその欲望に気付いてしまう、ということについて忌避する心が無意識に働いたということであろう。私は違う、と自分に言い聞かせるように。男性同性愛者の名称がいろいろあるのは、「限界づけ」を試みた形跡である。(おかま、おなべ、ホモなど)しかし、それは色々あるという事実から失敗に終わっているか、それは決して成功しないことなのだ、という帰結を生むのではないだろうか。


P19¶1
「だから、改めてこう主張しよう。同性愛者と異性愛者の間には何の相違もなく、前者と後者と同じく、自らの内に富める者も貧しい者も、男らしさも女らしさも、善も悪も分け与えられているのだ、と。」
「ホモセクシュアリティは存在していないようで、その実、存在している。何故なら、その存在の確実性を再度疑問視することこそ、ホモセクシュアリティの存在様式に他ならないからだ。」

ホモセクシュアリティを正常なものへと押しやることが無へと帰されてきた歴史を見ると、それがなぜそうなってしまったか、という思考へとつながる。それはまさに、「橋渡しのすることのできない深淵が口を開けている」からである。要するに、ホモセクシュアリティとヘテロセクシュアリティは同じ孤島に存在しており、その周囲の向こう側には橋渡しするための崖がなく、ただ深淵が隣接しているだけだ、と。それは、自分の内に、または隣人に、ホモセクシュアルな欲望を持った個体が存在しているのだ、ということを示す。


第1章 反-ホモセクシュアル的パラノイア

P22¶1
例として、『低バイエルン地方の狩の光景』という映画出している。
「バイエルン地方のとある村のパラノイア的妄想解釈が全住民のホモセクシュアルなリビドーを集中化された人物に対して、何を生み出してしまったかを克明に報告してみせる。」

結果、ホモセクシュアリティとを宣言する人物によって、周囲を取り巻く人物たちはパニック的不安を掻き立てられたという。ホモと正常者とのやり取りが、「正常者」からの喚起による緊張状態から生まれる、ということ。すなわち、「このホモは、俺を性的な目で見ているのではないか。」と。男ならだれでもよく、狩りをするかのように、俺をも食ってしまうのではないかという、パラノイア的妄想解釈が働く。


P23¶1
「しかしたいていの場合、精神医学はこの連関に次のような定式を与えてしまう。つまり、しばしば同性愛者はパラノイア性の迫害妄想に苦しんでいる。そう、彼は自分が『おびやかされていると感じている』のだ、と。」

同性愛者の言い分や感じたことは、つねに精神医学の色眼鏡によって投影されてきた。それによって、その投影は治療指針やガイドラインなどで公に認められることになり、それが個々人へと投影されることになる。同性愛者自身にもそれが適応され、そして病理化されうる。同性愛者の内面に関する社会の幻想表像は、パラノイアそのものからの成果である。このサイクルによって、ホモセクシュアリティなリビドーを目の当たりにした「正常者」は、リビドー抑圧へと加担し、自らの不安をも表現しているということになる。


P23¶2
「自分自身へのホモセクシュアリティへの不安が、世の男性をして、彼の周囲にホモセクシュアリティの現れ出るのを目の当たりにするのではないか、というパラノイア的恐れへと導いていく。」
「ホモセクシュアル的構成要素の消滅を狙った企ての必然的失敗から、パラノイアは生ずる。」

ホモと暴かれた社会的地位の高い男性について、世間が「中傷ではないのか」と論じる。シュレーバーの例は、社会がホモセクシュアルについて許容できた極地的限界だったと評価している。それは、裁判官としての社会的行動における裏付けによってであったかもしれない。一生を精神病棟で過ごさなくて済んだ唯一?の例であった。様々な指導者層の心理状態を一瞬見透かすことのできた、特異な例であった。


P24¶1
「パラノイアはホモセクシュアリティに直面してだけ、表現される。」

これにより、ヘテロの感じるホモセクシュアリティ的な欲望については完全に否定されることに繋がり、それはひいては、ヘテロセクシュアリティに与えられた唯一の正常な性的関係という地位を疑問視することに繋がっていく。例として、シャツ一枚で、ときには上半身裸で髭をそっている将校がおり、その様をある特定の人物にじろじろと見られていたという言及があった。その言及については、「たくさんの新聞の切り抜き、書類の写し、すべてを将校が起草したパンフレット類」などが、非の打ちどころのない秩序をもって裁判に持ってこられたという。フロイトの弟子のフィレンチはそれを、「彼こそが迫害妄想のパラノイア患者である。」と評している。とにかくホモセクシュアルな存在を迫害しないと気が済まないという行動が見て取れる。それはいわば、社会から迫害さるような、または地位を脅かすような、自己の無意識下に内在するホモセクシュアル的欲望を、自ら抑圧しているように見える。これは、「彼の自我から排斥された欲望は、無意識的偏愛の対象の側からの迫害傾向の知覚として意識に再帰する。」と表現されている。ある種の自己否定と、共同体迎合的な態度は、自分の人生を全うするために、そして自分自身の本心を隠すことに成功した、ということ。これによって、その共同体には「観念」ができる。


P26¶1
「パラノイアは本来、自身の性的傾向の歪んだ顕在化として把握できる。」

昇華された状態=「実際に大人の文化的生活の中で、昇華された形で生き残っていく。しかも、社会的慈善事業や、友愛団体、共同生活やクラブなど、決して過小評価できない役割を演じているのだ。」ということで、ホモセクシュアリティの発生は、いわば抑圧的な社会機会の誤った動作として帰されることとなる。これにより、社会体での昇華によるホモセクシュアリティのリビドーの使用は、それ以外ではありえないだろう、ということになってしまう。


「社会とはそっくりそのまま、まさしくパラノイア的なやり方で、性化とその備給に対し自己防衛するものであり、全力を挙げてホモセクシュアルな脱昇華と戦うものであるのだ。」

「社会の基盤」であると一種のパラノイアに汚染されている異性愛規範社会においては、ホモセクシュアルの脱昇華こそが、自身の基盤を脅かすものとして、無意識に判断を下してしまっている。それは一種の妄想であることに気付けない。宇宙人=ホモセクシュアル/ホモセクシュアル的欲望、と紐付けていることで、それは排除しなければならないような畏怖すべきものであるという意識が、どこかに存在してしまっているのだろう。


P28¶1
「ホモセクシュアリティ、それは、パラノイア的不安に対し、きわめて頻繁に行使される防衛機制の一つなのである。」

今は社会的空気の中でも見直されてきてはいるが、ホモとはつまり、精神疾患の領域や枠組みにおいてのみ、語られてきた歴史がある。それが示すところは、ホモセクシュアリティとは、神経症の倒錯したネガとして、私たちの意識に消せない烙印を押し付ける。つまり、同性愛者は神経症者でありパラノイア患者である、と。


P29¶1
「社会とそれが生み出す医学的表現は、迫害妄想で苦しんでいる。抑圧し、昇華したはずのホモセクシュアリティが、社会体のあらゆる孔隙の中に再び姿を現す。こうして、それらは実際起こっていることは自分たちを裏切り、司法の網の目の間をすり抜けて行ってしまうのを正確に知れば知るほど、ますます暴力的に個人の私生活を探し回ることになる。」

このような状況からさらに禁圧を強め、「正常者」の自己防衛へと繋がっていく。しかし、この禁圧自体は、まさにヘテロの追求する欲望に拘束されてしまっているものである。欲望が拘束されているということが、ホモセクシュアル的なものを抑圧してきた歴史の結晶であれば、その事実については気づけないにしても、それが真なる欲望であるかという問題については、何かを語れるのかというと、それは無理な話だ。そのような、欲望本体を把握できないのは、そもそもホモセクシュアルな欲望を抑圧することによる、ヘテロセクシュアル自身の欲望の理解自体も困難にさせてしまっているという帰結を生んでいる。そのため、禁圧という行為が、何かしらの社会的欲望を基盤としているということ、また、偽なる欲望によって(ホモセクシュアルとヘテロセクシュアル的欲望の混合が本来であるという序文の主張をもとにいうと)のみ、効果を生んでいるのではないか、ということである。


自然に反するものと法-自然と刑法

P30
「司法は高度のホモセクシュアルなリビドーの場だ。」
「精神医学はともかくも同性愛者が自ら好んで有罪判決を熱心に追い求めているとみなそうとし、そこに彼にマゾヒズムのしるしを見出そうとする。」

フランスの刑法について、第二次世界大戦後、ホモセクシュアルを「自然に反する犯罪」と表記していた。これはパラノイア型の退行とみてとれる。当時は、もはや「自然」のような神学形の概念を拠り所にすることは出来なかった。それは、市民革命やフランス革命などによって、個人化され合理化された法であるから、ということだ。これによって、「自然に反する犯罪」とすることで、そもそも神的概念をもたない市民から、完全に排斥するための試みを、この言葉から感じ取ることが出来る。


「ここで自然は、最高の差別的審級というパラノイア的役割を演じている。(中略)そう、欲望とその禁圧の批准としての『自然に反する』という意味が。」

自然という神的な寓話において、「男たちは男たちと恥ずかしいことを行った。」それは男が男と恥ずかしいことをすることを反自然として、反発した行為として行っていたということ。男女の欲望を見捨てて、自分の欲望に燃えることが反自然的であったという意味だが、そういった革命的であるという観点から見れば、市民革命なども同じように反自然的であると言えるのではないか?個人的な、合理的な出来事や法律が、自然であるためには、歴史上語られているホモセクシュアルな欲望とそれを持つ実体は、反自然的としなければならず、それにより「正常」なヘテロは、正常のままでいられるのだ、と。


道徳の進歩という神話

P32¶1
「『それは確かに自然に反している。しかし、誰もがあなたがそうするのを妨げることは出来ない。』と。これはあらゆる断絶や疑問視の無益さと、自らの完全性を絶えず断言する社会が必要とする信念、他ならない。」


P32¶2
ホモセクシュアルの通俗的イデオロギーは、司法のパラノイア的行動を隠匿するような3つの神話を糧に生き延びている。

① 法的禁圧が存在していないという、神話を信じている人が多いということ。「誰もがあなたがそうするのを妨げることは出来ない」なんてことは、あり得ない。1964年の話にはなるが、「自然に反する行為」を私生活中に摘発され、有罪判決を下された多くのホモセクシュアルが存在する。

② 通俗的イデオロギーに深く定着していることとして、ホモセクシュアリティ、したがってまたその禁圧は支配的階級に固有の、つまりブルジョワの退廃に結び付く現象として見られるということ。裁判所に関しては、幹部クラスや知識人よりも、当同社への有罪判決はいとも簡単 に下すという傾向があった。それは、ホモセクシュアリティの観点からも、法的禁圧自体が低い階級への虐げのもとで、偏重して存在していることが理解できる。

③ 益々ホモセクシュアルに寛容なっている社会を説く人がいるが、「自然に反する」という名のもとで実質的な有罪判決や、無意識なパラノイア的差別を許してきたではないか。それをすべて無視して、甘い言葉をささやく正常者は、何ら状況の理解に徹しようという姿勢がみられない。他の国、他の人々の行動を例外的として追いやる言葉にも聞こえる。そして、それはまさしく例外とされ、今の暫定的政治状況、社会-民主主義的政権の到来が、それを引き起こし、無視している。


P34¶1
フランスではペタン政権までは、ホモセクシュアリティに対する刑法は存在していなかった。その後、マレシャル条例に、同性間での性交に関する刑法が可決され、条文化された。それまでは、ホモセクシュアルであれヘテロセクシュアルであれ、未成年への性的接触への刑法があったにもかかわらず、ここでは、ホモセクシュアルのみなのである。


P35¶1
「フランスの刑法はいまだ、ホモセクシュアルな公然猥褻とヘテロセクシュアルのそれとを明確に区別していなかった。」

なぜか、公然わいせつに関した罰金についても、ヘテロセクシュアルのほうが安価だったというのが、当時のフランスの刑法の実情であり、「自然に反している」という術語に支えられることによってのみ、存在していたということとなる。


P35¶2
「立法のパラノイア的性格が、国民議会の場ではっきりと姿を現した。」

フランスとしての模範を示すために、国民民度の向上などを目指すべく、排除しなければならないものを列挙し、禁圧する必要がある。それは、結核、アルコール、そしてホモセクシュアルである、と。サルトルに関しても、ホモセクシュアリティを擁護したという罪として、告訴された。迫害妄想が極まり、猛威を振るっていた。


P36¶1
パラノイアが絶頂に達している例が書かれている。例えば、2人の未成年がホモセクシュアルを実践したとして、それは相互傷害罪とされたという。公然わいせつに関しても、素早く拒否しなかった者にたいしても、訴追の義務が負わされるのである。つまり、公然わいせつを立証するのであれば、男子用便所に留まっている時間が長いというだけで、それが可能になってしまうという。警察は、こうした事実を捏造的に引き出すために、現場で挑発さえも行い、より重い刑に処するため、ホモセクシュアルのあぶり出しにあくせくしていた。


P36¶2
ベルギーにおいて、1965年に青少年保護を名目に、18歳未満の同性の未成年との暴力なしに犯される猥褻行為による加害を禁圧するために、特別法が可決された。しかしながら、そもそも同性との性交渉は ホモセクシュアル同士で行われ、そしてその密告やカミングアウトに関しては慎重に行われるのであるから、この特別法を作製した警察や司法は、もっとホモセクシュアル事態を知るように努めるべきである。そもそもから、不安定な法律であった。ではなぜ、このような特別法を作ったのかといえば、それは「保護を口実に、警察と司法が自らのリビドーの目標を告訴しているのは明白のように思われる。」ということだ。

「法とはまさしく欲望の体系であり、そこでの挑発とのぞき趣味が、自分の場所を確保している。警察の幻想は、同性愛者の調子の狂った頭の捏造なのではない。警察と司法の変更した欲望の機能の仕方という現実に他ならない。」


反-ホモセクシュアル的パラノイアの自己強化

P37
「ホモセクシュアリティの対する刑の宣告の動きの高まりはまた、ホモセクシュアルの実践と増大と対応している。」

法が存在する中で、人間が進歩するために、法も進歩していかなくてはならない。そのような動きの中で、今日の水準まで法律を改訂しようと動いていくことは、その書いていない様に関した事柄を促進しうることとなる。ということは、ホモセクシュアル関連の刑に関した関心の高まりは、プラスであってもマイナスであっても、ホモセクシュアル事態は増大していくだろうということ。ダメと言われたことは、どうしても人目を盗んでしてしまうような、心理的な働きによって?


「家族の危機は両親-子供という枠組みからはみ出す若者の数の増加を引き起こす。しかし、この危機は同時にまた、両親そして総じて大人たちの下での反-若者というファシズム的傾向の倍増に対応している。」 

上記の具体的な例を、『家族の危機』として捉え直している。村社会的な意味合いと同じく、村の規律を守れないものは、すぐさま村から立ち去るか、または惨殺されるしか他はない。それと同様、家族も同じく、国家や世界全体レベルにおけるホモセクシュアルも、惨殺されるしか他はない。よって、多くの医師などによって、病理化され、それが様々な研究によって実践されてきたのだ。例えば、条件反射 、電気ショック、薬物、外科的手術など。


「禁圧的な欲望機械は充分すぎるほどうまく作動しているので、同性愛者たちは自らそのような処置に身を委ねることを受け入れ、それどころかそのような処置を要求しさえするのだ。」

性的偏執者として見なされるホモセクシュアルによって駆り立てられたパラノイアが、巡り巡って、同性愛者当本人たちへも影響を与える。それは、全員参加のホモセクシュアル的パラノイアの自己強化へと繋がっていく。


ホモセクシュアリティと犯罪性

P39¶1
「ホモセクシュアリティとは何よりもまず、犯罪の1カテゴリーだ。」 
「精神医学には、法的に成文化された禁圧を、罪の内面化によって置き換えようとする傾向がある。しかし、刑法的段階から心理学的段階へと、反-ホモセクシュアル的禁圧を移行させようとすることに主眼が置かれたこの足取りは、決して刑法上の様相を消し去るに至らなかった。」
P39¶2
「同性愛者と犯罪者のこのリビドー的同一視は、権利や個人の責任性といった理性的概念を全く考慮しようとしない。」
⇒ムジルの小説『生徒テレルスのまどい』、バルザック『高級娼婦の栄光と悲惨』
 「同性愛者は全て、潜在的殺人犯なのだ。」 

過去の書物や小説において、同性愛者は犯罪者と同じリビドーを持つ存在として描かれることが多い。 それは、同性愛者が被害者のように書かれることになるが、もはやそれはどうでもよく、常に「正常者」から見れば、潜在的犯罪者なのである。犯罪者そのものではなくとも、おおよそ、このような小説や書物に何度も触れることにより、「未来の詐欺師、殺人犯、恐喝屋を発見するのに大変便利な参考資料 」となることは疑いようがない。


 「(中略)スペインの法律ではこう書いている。『次のカテゴリーに該当する人物は、公然とした社会の危険である。1,浮浪者 2,美人局 3,同性愛者...7,観察保護がない場合の社会に対して脅威となる精神病者...9,麻薬密売人...』」

実際にこのような法律が存在し、社会の危険、ようするに犯罪者的に扱われてきた。また、シュテッケルの「男性のインポテンツ」には、このようなことも書かれている。つまり、私がオルガズムの瞬間に荒れ狂って手がつかなくなってしまい、相手を傷つけてしまいそうになること、そのための自制心を心掛けなければいけないこと。このような傷害欲について、シュテッケルの精神医学の目標が明らかになった。それは、ホモセクシュアルの潜在的犯罪性と、その自身の傷害性について、意味不明な紐づけを行っていたのだ、ということだ。「無意識的犯罪者に打ち勝つこと」と表現する。


P41¶2
「ホモの殺人者について、最も美しいパラノイア的記述の一つを、ロートレアモンの「マルドロールの歌」の中に見出せる。」

実際にホモセクシュアルの犯罪性とのパラノイア的連関が、ホモセクシュアルなリビドーに他する自己防衛として働くだけではなく、「血に飢えたものとしての魅力」のように駆り立てられもする。


「ホモセクシュアルの殺人のパラノイア的反応には、享楽の殺人、文明化された社会に追っての主要な 危険として体験される。それに対し、復讐としての殺人は尊敬にさえ値する。というのも、結局この殺人は家族の権利を確立するからだ。」 

殺人を行った2人の若者が、ホモセクシュアリティな環境人密な関係があったということで、まさにこれが作用して「人殺し(アサシン)」と呼ばれることになる。そして、その被害者の息子が今度は殺人犯を一人殺してしまったのである。ジャーナリストはこの逆流した犯罪劇を嘆きながらも、第2の犯罪を正当化しようとするのである。それは、まさに「父親の敵討ち」という美談として。そして、家族権利の確固たる擁立として。


ホモセクシュアリティと疾患

P42¶1
「ホモセクシュアリティは単なる犯罪上の1カテゴリーなのではない。」 

前章の文章に対する自己否定によって、その強調を感じ取ることが出来る。 「そしてまた、病理上のカテゴリーでもある。」 麻薬とホモセクシュアルが同様の言説で語られるというのは、麻薬使用から見られる「退廃」をホモセクシュアリティにも見出せるだろうという、パラノイア的視座であると言える。


P42¶2
1960年代のフランスにおいて、梅毒とホモセクシュアリティにおけるパラノイア的イデオロギーの蔓延について書いている。梅毒という性病の有病者の増大は、ホモセクシュアルの実践によってなされているのだという偏執によって、それが成されていく。ある意味で、「性病」という確定診断と、その申告については、「疑似警察システム」とも言える。要するに、梅毒と診断された患者の周囲にいた接触者などを申告する義務があり、病気の広がりなどを確認し防ぐ役割があるのは勿論のことではあるが、想像してみれば、そのようなシステムは捗るわけがない。なにせ、犯罪者としてみなされるホモセクシュアリティが暴かれることに繋がってしまうのであるから。そのような連関の中で、こういった疑似警察システムというイデオロギーは強化されていく。


「同性愛者はホモセクシュアリティを伝染させるように、梅毒を移し回る。ファシズムのイデオロギー同様、健全さと退廃さが闘争の中で対置される。この闘争にこそ、私たちの文明の命運がかかっているのだ。」

梅毒の蔓延によって、同性愛者の発見が成されていくということである。そしてそれは、これまで説明したようなパラノイア的イデオロギーによって、強化されている現状があり、事態を深刻にしてしまう。このように、梅毒というある種で「健全な」病気としての判断と、ホモセクシュアリティというパラノイア的思考による「退廃さ」が同居しながら対置されているこの事態を、ありありと見て取れてしまう、という意味であろう。


P44¶1
「ホモセクシュアリティをその心理学化を通じて見苦しくないようにしようとの試みは、見込みのないものだ。」

ホモセクシュアルに関して、「寛容による予防」として、J・ウエスト博士が論じているが、そもそも、どんな事情があっても予防しなくてはいけないホモセクシュアリティを、どうして寛容に扱わなければいけないのか、という問題にあたる。これは、了解へと洞察することは不可能である。「結局、社会的禁圧の、あとから取ってつけた正当化に過ぎない。」


「ホモセクシュアリティの存在に対しては寛容であらねばならないとしても、その肯定に対し決して寛大であってはならない。」

ハロヴィック・エリスの指摘である。寛容による予防ということに対して、《少なくとも寛容というボーダーラインに留まっていなければならない》、というような考え方である、という補訂になっている。だからこそ、肯定だけはするな、と。


「欠陥は確かに秩序の中で起こっている。しかし、倒錯はこの秩序に反するものである。」

キーゼ博士が、このように論じている。これは、欠陥というのが、再生産的セクシュアリティの感覚の喪失を示しており、倒錯というのが、ホモセクシュアリティの肯定を意味しているということ他ならない。


P44¶2
フランス共産党について。極左にホモセクシュアルの運動が生じた際に、ブルジョワ道徳の真相を語る場面を提供したことがあるという。それは要するに、ホモセクシュアルなどの性的倒錯を主題にした運動と革命的行動を混同してはいけない、などといったことである。


P45¶1
「ホモセクシュアルな行動それ自体が、道徳を説くパラノイアによって狙われることは無い。男性がほかの男性と性交したという事実そのものがこのパラノイアの諸表明の中で問題にされることなど決してない。むしろ、ホモセクシュアリティはいわばうまく使いこなされた社会機械の中のくずを表像している。」

当時は、再生産的セクシュアリティの存続という無意識的な目的のために、ホモセクシュアリティを社会機械として利用するに至った。これは、ホモセクシュアリティが、「分類-階級化できない部分」、使用に耐えない部分として存続しているものということであり、厳密に定義されたセクシュアリティに対する、非-性的なものである、ということだ。ホモセクシュアリティの居場所はどこにもない。特定の欲望の形式としても局在することを許してもらえない。社会は、そんなくずを焼却してしまう。これについては、「道徳的環境汚染」とも表現される。ホモセクシュアリティが倒錯者として判断されることが「道徳的」であり、そんなくずを焼却することによって「環境汚染」が進む。道徳的という表現の二義性を利用して、「道徳的環境汚染」となる。環境汚染に対抗するには、何かしらの資源(ヘテロセクシュアルとして養育されながらホモセクシュアルの色を帯びる赤子、とも表現できるのかも。)を活用しながらそれに対策を講じる必要がある。それは、その資源の帰結を想像すれば、その処理も将来必要となることがわかる。このように、自らの増殖を食い止めることが出来なくなってしまった機械(ホモセクシュアル)そのものであり、精神病棟にて心理療法や作業療法などの「治療」を行い再出荷されるしかない、ということが示唆として含まれているのではないか。


「潜在的」ホモセクシュアリティ対「顕在化した」ホモセクシュアリティ

P46¶1
「ホモセクシュアリティに対する社会機械の圧制を、ホモセクシュアルな根を持つパラノイア的欲望の体系の表現として提示して見せようとするなら、あらゆる制度の中に欲望が現前しているのを認めることが前提とされる。」

キンゼイスケールでもあったように、異性愛と同性愛はきれいに二分割されるわけはなく、グラデーションの中で存在しているということだ。要するに、体制側に属する人間に関しても、完全な異性愛者以外の者が必ず存在しているということを暴くことになる。であるならば、当本人はこの事実については隠し通す必要が生じてくる。当本人としては、意識的集団のおける社会的闘争的立場を足場としているように感じるかもしれないが、それは本心とは言えない。「再認する必要があるのは、意識的(政治的)備給と並んで無意識的リビドーの備給が存在すること、しかも、時折、後者は前者と矛盾していることだ。」ここが重要な論点であるという。この論点が次のような、「昇華」に繋がっていく。


P47¶1
「つまり、精神分析家たちにとって大切な潜在的ホモセクシュアリティは、顕在化したホモセクシュアリティの圧制に対応するのだ。」

分子レベルのホモセクシュアルな欲望が、モル状レベルの社会機械の機能の仕方を基盤としたホモセクシュアリティの例の昇華(軍隊、学校、教会、スポーツなど。)によって、圧制されるということ。このような社会機械の機能へと昇華することにより、欲望が「欲望の禁圧」へと変換させる手段として構成されていることになる。社会という場所に、いつでも犯人探しができるように、制度として組み込まれているということ。例えば、結婚の話題にしても、普段正常とされる人は世間話として何気なく話をするが、このような無意識的な再生産的セクシュアリティの呼び起こしによって、人社会に存在している性的倒錯者、いわばくず を探し出し焼却する機能が備わっている、ということであろう。


P47¶2 P48¶1
「ホモセクシュアリティは誰にも関わりがある。それにもかかわらず、ホモセクシュアリティは至る所で追放されている。」
「ホモセクシュアリティに対し、無垢で客観的な立場などあり得ない。ホモセクシュアリティが作動し始める欲望の諸状況があるだけだ。」


第2章 羞恥・倒錯・狂気

P49¶1
「近代の禁圧は正当化の働き、法による罪悪感と罪責感の心理学との相乗効果を必要とする。」

ホモセクシュアリティの精神医学化によって、刑法的禁圧が成立するのではなく、精神医学-刑法的禁圧、のこの関係はともに付随しながら存在するものであるという。心理学、と上記されているが、心理学者の理解は裁判官的行為を伴い、裁判官的行為は「正常さ」によってもたらされる実際的制度を反映する。また、心理学者による理解によって、この禁圧が必要なものであるという再認が起こる。この再認まで行われれば、「良い裁き」へと向かう。


P49¶2
「こうして(中略)神経症的なものとして現われる。」
「頭の中の警察が、制服を着た現実の警察の真の手段となる。」 

社会的禁圧が必要なものであるという、同性愛者自身の再認によって、「危険な存在である」ということを、自己実現してしまうのである。たった1つの性の様式(異性愛規範)が、他の多様に存在している性への可能性を分かりやすい権力や刑法、またはそのようになるように心理学的、精神学的に追い詰める文明は、決して繁栄することはない。


「フロイト主義は特権的役割を演じている。」

フロイト主義理論的には、それは「無意識の心的過程」「抑圧と抵抗の理論」「性、とくに幼児性欲とエディプス・コンプレックス」という三原則を柱としていた。さらに、これを全部承認することが精神分析家の資格とされたため、この原則は精神分析運動の組織原理ともなった。


「労働を価値の基礎として発見することによって、ブルジョワ的政治経済は直ちに労働を私的所有という形で、生産手段に連鎖させる。」
「他方、フロイトはまた、リビドーを感情生活の基盤として発見し、直ちに家族的オイディプスの私人化という形で、リビドーを拘束する。」

エディプス・コンプレックスでは二つの側面が生じる。子供は最終的にこの葛藤から逃れるために両親を捨てるのであるが、子供は父親と対立するために「同一化」していた強い男性的側面と、父親から「やってはいけない」と言われた禁止事例を、超自我として形成するのである。それは良心や倫理感や理想として保持され、潜伏期以後の子供の行動を統制するようになる。また、エディプス・コンプレックスの葛藤を克服すると、子供は近親相姦的願望やそれに付随しているリビドー、それに去勢不安や父親への攻撃心などを無意識に抑圧する。これらの欲望はエディプス・コンプレックスが生じるまでは子供の思いのままに表出されていたが、この葛藤と克服を機に、それらは 捨てられることになる。 これらの欲求は無意識に捨てられる。つまり、無意識に抑圧される。こうして、その頃までは曖昧だった意識と無意識の境界が明白に形成されるようになる。子供はエスから自我を派生分化させて、つまり抑圧によって近親相姦的願望や去勢不安などを無意識に押し込めて、現実的な自我を作る。また同一化した部分と禁止事項が合わさって超自我が作られる。こうして三つの心的構造が作られるのだとジークムント・フロイトは主張している。リビドーの拘束とは、すなわちエディプス・コンプレックスによって越境されるという、近親相関や去勢不安といった超自我が形成されることで、無意識に追い込められ、それが現実になる、ということであろう。リビドー(性的欲望)は、そうあるべきものとして拘束され、その拘束されているもの以外を見えなくする。


P50¶2
「ホモセクシュアリティのオイディプス化もまた、社会制度のまさに同じ危機状況に対応している。もうただの放蕩に対する戦いだけが、問題なのではない。治療ということが、処罰に与えられた意味作用を、再び取り上げてしまうことこそ、問題の核心となる。」

ホモセクシュアリティのオイディプス化とは、つまり男性/女性という境界線の強化に繋がってしまうという危機感であろうか。そこに本質的な社会的機能があるというのに。(それは一体なんであるのかここではまだ書かれていない段階。)


多形倒錯性・バイセクシュアリティ・非-人間的な性

P51¶1
「今、フロイトによるリビドーの発見は(中略)反-ホモセクシュアルの禁圧という課題を確実なものにすることができるのだろうか。」

フロイトの提唱したエディプス・コンプレックスこそが、ホモセクシュアルのリビドーを禁圧へと導いた犯人である、ということであろう。そして、この近代精神医学の基礎となっている理論は、変更するには相当の努力を要する。


P51¶2
「何よりもまず、欲望は生産ではない。欠如なのだ。」

欲望の空洞に、欲望の管理を可能にするような不十分さがあり、その烙印が下されることになる。エディプス・コンプレックスにおいては、近親相姦の禁圧という形での欠如の割当によって構成されるものである。つまり、「非‐人間的な性」というものが、人それぞれには存在しており、それは人格化されていないものである。今の自分とは非対称的なものであり、そのリビドーの流れは、家族内での人格間の関係、という想像的なものになるのである。


P51¶3
「性は非‐人間的で、欲望は非差異化されていて、ホモセクシュアリティとヘテロセクシュアリティの区別を知らない。」 

フロイトは、このことを「多形倒錯」と表現している。著者がいうには、欲望とは根源的に、多義性が含まれている。そもそも、性とは、何を欲望するのかという問いに対して、的確な答えを与えていないのである。『生徒テルレスのまどい』のテルレスは、実際に「全て」を欲望していた、ということだ。


P52¶1
「多形倒錯性とは、フロイトが男性と女性の構造的バイセクシュアリティと見なしていたものを指す。そう、それは生物学と心理学とにまたがる概念に他ならない。」

フロイトによれば、ホモセクシュアリティはその名(倒錯)に値しないという。それらは全て、バイセクシュアリティに還元されていくからである。これによってわかるのは、根源的にホモセクシュアルな欲望が誰にでも存在していることを示す。生物学と心理学の概念を混同することは、何かを知るという行為にとっては不誠実である。ヘテロセクシュアルもホモセクシュアルも、欲望の《不確かな仮の出口》に過ぎない。


P53¶1
「WHジルスピーによるフロイトの構想に対する長大な批判(中略)『フロイトはバイセクシュアルという考えを、大部分、生物学的・解剖学的考察に立脚させようとした。』(中略)念入りに区別された生物学と心理学の機械的関係に逆戻りされることがこの方向転換の最初の操作なのだ。」 

染色体理論という近代テクノロジーにより、男性性/女性性に対応する特徴を発見できたことによって 、バイセクシュアリティの仮説に対する深刻な反証としようとした。そして、このような安易な2つ以上の概念によって、ホモセクシュアリティを「倒錯」という枠組みから外し、特別視することを拒んだ 。これにより、ホモセクシュアリティは精神医学、つまりオイディプス的心理作用へと戻らざるを得なくなっていく。


女性に対する嫌悪

P55¶1
「精神分析という制度によって、欲望はもはや欠如(抑圧下)としてだけ存在することが許される。」

欠如した欲望というのが、つまるところ欠如しているのであるからその欲望自体を認識することは不可能である。この認識不可能な欲望が存在しているからこそ、相対的に意識される欲望が健全化されるのであり、自然な帰結として、それらの欲望を基盤とした社会が構築されていく。欲望は常に何かを意味していることを強制され、そしてエディプス的三角形の中で、自らの意味を獲得するためのある対象へと、関係付けられなければならない。

「リビドーの統制という任務を帯びた、市民社会の制度として、フロイト以後の精神分析は自分の居場所を見出す。」


P55¶2
「ホモセクシュアリティはその欠如によって定義される。」

幼少期の父親や両親からの無意識的な注意で、ホモセクシュアリティは歴史の流れの中で、いけないものとして定義されてきた。そして、その欲望は欠如として現われる。欠如した欲望として、ホモセクシュアルが可視化されてきたのが現存の社会である、ということだろうか。超自我として存在するこの異端ともいうべき欠如したホモセクシュアルな欲望は、それが発現するや否や、総攻撃をされるのであろう。欠如した欲望は、欠如しているからこそのものあり、そこが安住の地であるのだと。だからこそ、「女性への嫌悪」として措定されることになる。


「生産としての欲望に、再生産、家族としてのセクシュアリティにとって代わる。」 

フロイトのセクシュアリティに関する2つの存在区分。《個人的なセクシュアリティは自分の意図の1つ にすぎないこと》、《個人が性細胞質の付け足しに過ぎない》ということ。これにより、フランス共産党員によって、セクシュアリティが体系化されてしまう。つまり、同性愛者に直面している「正常者」によって感じ取られる、イデオロギー的確信を表現しているに過ぎない。女性こそが全てを担っているのであると。そう、私たちの快楽と種の保存について。


「社会的に認められた唯一の性的対象として指示されているにもかかわらず、他方それ自体としては社会で何の場所も持たない『女性』。このように『女性』もまた、ホモセクシュアルな関係に帰される欠如なのだ。」

ヘテロセクシュアルと共存しているような、ホモセクシュアルは、実のところ、再生産を欠くような関係に過ぎないのである。


「ホモセクシュアリティは本質的に神経症的なのだ。この神経症は、女性への嫌悪に深く結びついている。欲望はその欠如によって定義される。欠如と不安は、オイディプス的構成へのばねとなる。男性/女性への不安、父親/母親への不安、この両者の説明は並行して与えられる。ある個人をホモセクシュアリティへと駆り立ててしまう原因として最も流布したものの1つは、男性への不安、つまり父親的イメージへの不安である。」 

性的関係とは、ある1種の形態に帰結され、語られることが常である。それは、男性/女性という両性間の意味の配分者としての、ファルス(男性における理想的自己イメージ)役割について再び見いだされるだろう不安ばかりである。生まれた瞬間から言語環境に居る私たちは、言語による表現された対象しか知らない。そして、その対象の「なま」を知らないのである。これは「失われた対象」とも言える。知らない「なま」を追い求める人間の欲望が、この「失われた対象」、「なま」に存在している。 このような、初期的なホモセクシュアルの欠如によって、その対象への欲望があるということであり、 結局、ホモセクシュアルは欠如で定義される、ということの所以である。ホモセクシュアルは「正常者」から見れば、慣れ親しみのない「斜線を引かれた主体」であるとも表現が可能である。言語環境の中で規定された、何かしらの主体は、根源的に再起不能になり、無意識化に抑圧されているのではないか ということである。当然、ホモセクシュアルと対面するヘテロセクシュアルは、「斜線を引かれた主体」と対面することと同義である。そして、その状況は、どのように発展するだろうか。

ファルス:生物学的男性性器を拠り所とするイメージであり、男性の理想的自己イメージの核となる。「ファルス」の記号的変換は様々な領域に及ぶ。知的能力もファルスの能力の記号的変換物となる。知的領域においては「理想的ファルス」は「理性」と呼ばれる。


ホモセクシュアリティのオイディプス化

P57¶1
「というのも、オイディプスこそ、リビドーを効果的に制御できる唯一の手段だからだ。」 

フロイトが提唱したエディプス・コンプレックスによって、ホモセクシュアルな欲望が無意識化に抑圧されることになる。実際に、ヒルシュフェルト博士が提唱した「第3の性」という概念を、フロイトは容赦なく批判している。 「ホモセクシュアリティを受け入れようという自由主義に対抗し、多形倒錯性の翻訳としてのホモセクシュアルな欲望の普遍性をフロイトは主張した。」 フロイトは男性のホモセクシュアリティについて、2つのことを語る。それは、『母親への固着』、そして 『誰もがホモセクシュアルな対象選択が可能である』という事実である。それを事実として実現すると、ホモセクシュアリティとはつまり、それが実現したということ、いまだにその場に留まったままであったのか、それともうまく防御が出来ていないのか、ということになる。しかしこれは、単性的選択における「抑圧されたものの回帰」があり得るとして、ホモセクシュアリティだけが、この単性的方向づけでの神経症として宣言を受けるのである。


去勢・ナルシシズム

P59¶1
(『ハゲタカの幻想』について語りながら...)「ダヴィンチのホモセクシュアリティは、女性の下でのペニスの不在の発見に誘発された不快感に由来する。」

女性のペニス不在によって不快感を覚えた原因は、ペニスが傷つけられ切断されてしまうのではということに由来する。ここには、去勢という働きが存在する。よって、オイディプスへの普遍化へと姿が変わってしまう。


「意味の配分者としてのファルスは、小さい女の子にはペニスの不在として、小さな男の子には去勢不安つまりペニスを失うのではないかという恐れに対して体験される。やましさの意識、すなわち罪責感が生じ、ここに主体と対象が互いに分割される。」

⇒ 失われた対象/斜線を引かれた主体 のこと。
ファルスという存在が、今後の子供の意識を決定づけるということ。おそらく、男性の理想的自己を半ば強制的に説かれることによって、様々な対象が失われることになる。いわば、「なま」で経験できなくなるということ。そのような認知できない対象を認知できる、またはさせられる存在、いわば「斜線を引かれた主体」が面前に現れたとき、そこには自己との差異に驚嘆し声も出ない状況に陥るということであろう。主体である自分が、何かしらの対象と、相互に乖離してしまうという現象が生じた過去があり、その乖離したもの自体を自己を同一化することこそ、言い知れない罪責感を生むのではないだろうか。


P59¶2
「受動的な同性愛者。彼こそ本質的に語られるべき存在。」

受け身な同性愛者、要するに、同性愛者であるという意識が無意識内に抑圧されている同性愛者、そして表面的な性的指向はヘテロセクシュアル的であるということだろうか。ファルスによる抑圧が、ペニス不在への不安を掻き立てる。そして、徹底的に母親のもとから切り離され、近親相関という欲望は完全に忘れ去られるのである。母親への執着はつまり、母親には彼自身に欠けていた意味が充実している、ということなのだという。


P60¶1
「ここで(p59¶2)ナルシシズムが意味作用を得る。個人が自分の外部に性的対象を選択することは 、『支え』のための選択として必要とされる。」 

ファルスによって母親から切り離され、リビドーにおける発達を完遂するのであるが、その発達に何らかの障害があったのだろうと思われるのは、倒錯者や同性愛者であるとフロイトは論ずる。エディプス ・コンプレックスによって、母親への欲望とそれに付随したリビドーは、だめなこととして無意識化へ抑圧されるが、その葛藤の段階において、父親に対する葛藤の無意識化に障害があったということだろうか?

「彼らは後に、自分の愛の対象を母というひな型に基づいてではなく、まさに彼ら自身という人物に従って選択するということである。」
 「ナルシシズムに基づいて『支えのための』対象選択を行うことによって、同性愛者はいわば対象を見失っていると言えよう。」


P60¶2
「ナルシシズムは非‐人間的な性の無意識の終焉であり、人格化された想像的オイディプス的セクシュアリティの始まりでもある。」 
ナルシシズム:一次性ナルシシズムの発生は、子供が頼るべきものを探して手元にある自我を選び、満足したと感じる適応的な現象である。しかし、ナルシシズムが遷延すると、オートエロティシズムが成 立する。ナルシシストは自我を刺激して喜びを得ることに慣れ、普通の性行為よりもマスターベーションと性的妄想を好むようになる。フロイトは対象に一切のリビドーが向かっていない事をナルシシズムと命名した。それは、空想などの対象表象などにも一切のリビドーが向かっていないような現象を指す。
鏡像段階理論:生後6ヶ月から18ヶ月の時期を迎えた乳幼児は鏡に映った自分の姿を発見し歓喜に満ちた表情を見せる。この反応はチンパンジーの、鏡の自己像に一旦興味は示すもののそれが単なる鏡像だと分かればたちまち興味を失ってしまうそれとは対照的である。このような発達過程をフランスの精神分析医、ジャック・ラカンは鏡像段階と名付けた。

人格化されたオイディプス的セクシュアリティというのは、三角関係の中でその輪に収まる様に上手く抑圧されたセクシュアリティのことであり、ここには倒錯性や同性愛は存在していない。


「ナルシシズム的段階は、名付けることのできない欲望が俺を通して、似たもの異なるもの、ヘテロ/ホモと自己同一化していく作業なのだ。」

ナルシシズムがホモセクシュアルの歴史を操作するものである。神経症がホモセクシュアルの歴史の存在様式になっているように。


P61¶1
「フロイト『この理想(すなわち、自我理想)の不履行による不満足さは、ホモセクシュアルなリビドーを自由にする。』」 

ヘテロからホモを、ナルシシズムという理論によって切断することによって、この社会的不安というリビドーの罪の意識へと自分から姿を変えるのだとすれば、これはあの窮屈なオイディプス的なもの、それと神経症的な自我が、緊密にナルシシズムと結びついている。 

自我理想:フロイトは、自分が最も「こうありたい」と思う自己像(self image)を自我理想(ego ideal)と呼んだ。 超自我と混同されやすいが、欲動に批判的で罪悪感を体験させる内在化された規範が超自我、この規範に一致し自分がこうあるべき姿として思い描く姿が自我理想とされる。


 「多量の本質的にホモセクシュアルなリビドーはこうして、ナルシスティックな自我理想の形成へと引き込まれる。」

多くの人による、例えば両親や教育者による介入が生み出す道徳意識の形成は、ここにある。異なるとされるリビドーが、過去の自我理想の未達成によって引き起こされたものであるという理論が、ホモセクシュアルを三角形の中に閉じ込めるようないい前である。ヘテロ/ホモを切断する操作としてナルシシズムの本質があるのだとすれば、ナルシシズム自体が社会的不安を形成しているのではないだろうか。オイディプスの三角形に閉じ込められたホモセクシュアルなリビドーは、その中自体には、人が前もって観念として持っているものしか語り得ない。ホモセクシュアルな欲望とは、罪状が明らかにされた死刑執行前の罪人のようにも見える。私たちが罪人を観察すれば、その罪人の「醜悪さ」をその人の観念によって読み取ることになるだろう。しかしながら、生まれながらにして罪人である罪人は居ない。とすれば、その私たちが観念を通してみる罪人は全く違う人物であるともいえるのではないか。監獄された理由を罪状というシンプルな構文で表現しても、その罪なる行為におけるバックボーンは一生見ることは出来ない。純粋無垢かつ残酷な殺人鬼ならまだしも、監獄するのに「動機」が必須なように、罪に関した動機について熟考する必要がある。


オイディプスと同性愛者

P62¶1
「家族的なヘテロセクシュアルの帝国主義は、ホモセクシュアリティをその神経症的意味作用へと滑り込ませる。」
P62¶2
「母親への固着は、ホモセクシュアルな欲望を正常な世界に繋ぎとめる最も頑丈な鎖で、最も確かな正常化の手段なのだ。」 

フロイトのオイディプス・コンプレックスをもとに解釈をすると、もともと近親相姦的な欲望が父親のファルスによって抑圧されるのに対し、逆に母親へと固執するという行動は、虚勢不安からの解放、ということだろうか。男性器が男性のイメージであるのであれば、SOGI的側面から見ても不安定な言い前にはなるが、そのような男性器、若しくは男性的な自己実現イメージからの脱却をも厭わない!ということであろうか。これによって、「母へと固着」することは、ホモセクシュアルとして、正常に機能するための、逆説的正常化への道であるということであろうか。
このような事態が、フロイトのオイディプス的セクシュアリティの正常化、通俗化を促進させる。「なぜホモセクシュアルなのか。」という問いが、染色体学的説明のほかに、答えを明瞭に与えうるものというのは、精神分析の通俗化しかないじゃないか。このように、オイディプスの強化サイクルが働いてしまう。


P63¶2
1972年の「フランスーディマンシュ」誌にて、このような文言が記載されていた。 「ホモセクシュアリティの真実-家族の母親たる者すべてが必読の諸説論。」という題目が与えられ、母親のせいで、子供にホモセクシュアルの芽生えが始まってしまうのだ、と。

 「オイディプスのもっとも強固な論証の1つは、普遍的責任性の武器としての両親の責任性だ。」 

普遍性を無意識に享受する正常者たちは、ある意味でパラノイア患者とも言える。パラノイア患者が神経症者を生み出し、ヘテロセクシュアルがホモセクシュアルを生み出し、それらはすべて父親と母親から始めるということにし、ホモセクシュアルという神経症者がどの地点で異常となったのかという「起点」を設定しなければいけないからだ。女性への嫌悪に結びつけられるホモセクシュアルは、母親との切り離しによってそれが成されてしまうということを示唆しており、現状の全母親に対して、警鐘を鳴らしているのである。ホモセクシュアルは、イドを知らない。イドとは本能的なリビドーを備えた無意識の領域のこと。ただ知らないだけである。だから、それを知ればいい。性的な傾向がホモセクシュアルに傾く前に、母親にその事実(といえるのだろうか)を知らせるべきであると思ったからこその、この題目なのであろう。そして本著においては、これを否定する。「自我は欲望の真に無意識的なものであって、欲望が自我の無意識なのではない。」


ホモセクシュアルな控訴院長

P64¶1
「彼(シュレーバー)の症例に関しては、フロイトと共に、現実化されず抑圧も不十分なホモセクシュアルなリビドーの補償としてのパラノイアを認めた。シュレーバーは、パラノイアであると同時に神経症者でもある。」

シュレーバーはホモセクシュアルであり、かつ女性へトランスした人物である。当時、社会的や性的にも当時は地位が低かった「女性」へ変身した彼は、まさに世界を救うための驚異的犠牲者となった。つまり、女性として強姦されてしまうことと、強姦されたいという欲望を保持する人物として。受動的なホモセクシュアリティは、オイディプス的な関連性の中でのみ生き延びられる。それはつまり、去勢への不安がない、去勢されている、存在としてである。「ホモセクシュアルであることは、まさに父親に去勢されていることに他ならない。」同性愛者は、性の分配者、ようするに性とはなにか、不変なものは何かを教えてくれる最初の教師であるファルス(父親)から、意味を受け取る。それはつまり、「去勢-犠牲」という構図。男らしさという、贖罪の贈物である。シュレーバーは、女性への変身によるホモセクシュアルのリビドーの補償を裏付けするが、この行動はまさにパラノイア的であり、結局はオイディプスへの強化になる。


P65¶1
前述した通り、シュレーバーは異性愛者がそう生きるだろうと思い描く通りにホモセクシュアリティを生きた。女性が女神や家政婦、性的対象とみられるのと同じ通り、「このように生きる生き物なのだ」という固着した観念が与えられてしまう恐れを生む。


P66¶1
グスタフ・アッシェンバッハが出ている「ヴェニスに死す」について。

「アッシェンバッハは貴族の生まれに属し、血統パラノイアとしてこの所属を生きた。」
「(若い少年を性愛に基づいて追い掛け回したという話から)最も高い地位から、性的対象が神格化されすべてを支配する段階へと移行すること。それがホモセクシュアルの昇天に他ならない。」

同性愛者の愛とは、基本的に実ることのない、不毛な愛として見られることが多く、その視点こそが《ホモセクシュアルな愛が成就する奇跡》として、大多数の人々の心へと映り込む。

「こうしてそこに、贅沢で呪われた予定説が顕わになる。」


P67¶1
「《ヴェニスに死す》では、ホモセクシュアルな欲望が社会へと出現するのにオイディプスという覆いが絶対必要とされるので、これら妄想は同時にまた、自分自身への解釈ともなるのだ。」

ある意味で、オイディプス的解釈がホモセクシュアルなリビドーを覆い隠しているのである限り、このような覆いは必要になってくる。だからこそ、これについて全員で考えることこそが、自分自身への解釈へと均等に繋がっていくということである。現時点では、「ホモセクシュアルは一種のパロディー。オイディプス的キリスト教のユダ(裏切者)」のようなものである。人々が自分自身への欲望の構造の深部を考察しない限り、このフロイトによる伝統は継続されていく。常に、ホモセクシュアルというのは、パロディーだし、他人事だし、怖いし、軽蔑さえすべき存在だ、といった迫害しか生まない。これがホモセクシュアルの社会的地位になってしまえば、ピンクキャピタリズムのような、商業主義的な言い前によってホモセクシュアルはヘテロセクシュアル(または、オブラートに包まれたヘテロセクシュアル。ヘテロセクシュアルとして生きていても、比較的障害が低いホモセクシュアル達。)に、迎え入れられてしまうだろう。要するに、これは何の解決にもなっていない。ヘテロセクシュアルが迎え入れてくれたとして、その人が「僕は理解している」といっても、ペニスやアヌスの関係について考えれば、気分を害することだろう。相互間における理解と、欲望に関した理解や把握というのは、分けて考える必要があるのではないか。異性愛規範の中では、かなりの難題である。


矯正というような地獄な循環

P68¶1
「肝心なのは、良い同性愛者かどうかである。」
「もし、あなたが昇華されていないのであれば、自分の卑劣さを自覚すればよい。」
「セクシュアリティに天国と地獄があることを承知の上で、たとえあなたが地獄を選んだとしても、それはあなたの犯した罪に過ぎない。」

このような考え方は、今でも相当数のヘテロセクシュアルの心の中に、存在しているのではないだろうか。


P69¶1
「我々の示してきたことから、充分こう結論付けられるだろう。ホモセクシュアリティとは、《人間間の教育(個人的な社会的教育)の失敗》(アドラーから引用)を意味している、と。」

ヘテロセクシュアルなイデオロギーが示すのは、まず、生得的で倒錯的なホモセクシュアリティを倒錯として迎え入れる中で、その矯正を行い、矯正が完了した人は歓迎される。しかしながら、神経症的な、病気的なホモセクシュアリティは、教育の失敗として、人間の失敗作として結論付けられる。また、これを逆手に取って言えば、このような倒錯者や同性愛者の存在によって、ヘテロセクシュアル自体が規定されていると言っても過言ではない。ヘテロセクシュアルは、倒錯者と同性愛者を必要とする。

「このイデオロギーは、それなくしては他方がその意味を失ってしまう二者択一の二つの恒常的選択肢の一方を指している。」


P69¶2
「治癒すること、それは自らオイディプスを引き受けることに他ならない。治療しないことは、自らホモセクシュアリティを引き受けることになり、結局は別のオイディプスを引き受けてしまう。」

前述した通り、ヘテロセクシュアルには、その自己同一性を保つために、倒錯者や同性愛者が必要となる。ということは、治療せずにホモセクシュアルなリビドーを引き継ぐ決心をした人は、そのヘテロセクシュアルの強化、ひいてはオイディプスを強化することに繋がってしまう。「ホモセクシュアリティはこうして、オイディプスの封じ込め的性質、その『二重-拘束』的働きを継承することになる。」ホモセクシュアリティを受け入れることは、社会的に想像的な「同性愛者の諸問題」を引き受ける結果になる。こうして、ホモセクシュアリティの拒絶こそが、自らの正常を受け入れることに繋がる唯一の道となる。


P70¶2
「反動精神医学は治療を拒否するものとして倒錯者を告発・中傷し、リベラルな精神医学は自分から治療を引き受けることのできない者たちを哀れむばかりだ。」 

どちらへも逃げることのできない倒錯者・同性愛者は、治療されることをいけ入れなくてはいけない環境下に置かれる。しかしながら、正常者にとっては、治療してもしなくても、どちらでもいい。自分は自分であると受け入れることに対しては、どちらも尊重するという立場で歩み寄る。しかしながら、矯正しさえすれば母は喜ぶのではないか、といった囁きをするかもしれない。お母さんとお父さんの2つの頂点はしっかりしているから、あとはきみだけだよ、君が決心して三角形を作ってくれ、というように。この役割を担えないものは、すぐさま神経症と診断される。


「法の目からすれば潜在的に罪のある者としての同性愛者が、精神医学の目には潜在的病者と映る。だから、同性愛者は知るべきだ。自分の運命が、ヘテロセクシュアルでないことの良心の呵責を顕示する能力、輝かしく栄光で、でも悲惨な一例外に属している、という確信にかかっていることを。」

《ヘテロセクシュアルでないことの良心の呵責》を一瞬でも感じたことのないホモセクシュアリティは居ないのかもしれない。この良心の呵責をもつ能力は、天国と地獄を指し示している。ホモセクシュアルとして生きるということは、自己一貫性のある行動のように見えて、内実ではヘテロセクシュアル的社会秩序が存在する一理由に加担していることになる。また、ホモセクシュアルを治療、社会的に矯正すること、社会的に迎合され/することは、ヘテロセクシュアル的社会秩序に迎合するということで、他のホモセクシュアルや倒錯者の苦悩を無視することにもつながりかねない。しかし、そのような「二重-拘束」にこそ、今自分が存在しているのだ、と確認することが、自身の運命を変える第一歩となるのかもしれない。


恥辱とホモセクシュアリティ

P71¶1
「恥辱(はじ。はずかしめ。)とホモセクシュアリティが緊密に結び付けられているというだけでは十分ではない。前者は後者の動きそのものにおいてだけ存在する。」

恥辱が結び付けられるのは基本的にはホモセクシュアルなリビドーを持つ者だけである。ヘテロセクシュアルにおいても、特徴的な性癖を受け入れてもらえず、恥辱な目で見られることもあるだろうが、ホモセクシュアリティはこの点においては無差別に恥辱であることと連動しており、それは普遍性を持っている事実なのである。無差別的な恥辱との連動を、差別的に被っているのがホモセクシュアルである。


P72¶1
「ホモセクシュアリティはもう、欲望の一関係などではない。存在論的な場所取り(態度決定)なのだ。」

ホモセクシュアルな欲望を持つ者は、被造物としての生の甘き部分、ようするに性的欲望のことであるが、まさにこの欲望によって処罰されている種族なのである、ということだ。ホモセクシュアルに理解を示し、分け隔てなく接してくれる友人が居たとしても、それは友情なき友人たちと言えるのかもしれない。一般に認められるような部分に焦点を当てながら、ホモセクシュアリティへの理解を示そうとしても、それはその当本人の本体ではなく、その部分においてのみである。本人を理解しているのではなく、今見えている一般的に認められるであろう部分を理解しているだけである。それは、理解という言葉で覆い隠されている「嘘」他ならない。しかし、この些細な理解さえも、「慣習的な紋切り型の心理学」によって、混乱させられ、差別や迫害といった感情を生むきっかけになってしまうだろう。要するに、同性愛者という実存は、正常者のパラノイアの中に存在しているのである。


P73¶1
ホモセクシュアルを「恥ずべきものたち」や「呪われた種族」などと表現されている過去があったことは、覚えていて損はないであろう。いかに、自分たちの存在様式を客観的に見られるかが、この存在様式、存在論的観点を見直すきっかけになるのである。100年前も現在と変わらず、ホモセクシュアリティなリビドーを持つ者たちは、ある共通点を鍵に、相互に認識し合い、兄弟的関係を結び、本性を隠しながら、社会的秩序を保つために加担している、虚構のヘテロセクシュアルなのである、と。どのようにして、今の秩序を少しでもかき乱すことができるのだろうか。法人という虚構の人間や、政府などに、「LGBT」を総称され、ゲイでも「LGBT」を呼称される始末である中、さらにはLGBTに優しい社会をスローガンにしたキャンペーンも多くなされている。このキャンペーンを企画する個々人はこのスローガンに対して、日常のどの範囲まで適応しているのだろうか。日々LGBTに優しい社会などについて考えているはずもないことは容易に想定がかのうである。達成されるべきと日々考えていることと言えば、「企業」や「法人」という虚構の人間が、いかに社会的秩序に迎合できるかのみだ。そして、その現状を、楽観視してはいけない。LGBTに対して寛容であるべきだが、大っぴらに存在するべきではない、というキャンペーンとしても捉えることが出来る。ホモセクシュアルな欲望が、このようなキャンペーンに裏付けられる、ヘテロセクシュアル/ホモセクシュアルのボーダーレス化やヒエラルキー化については、何の解決にも結び付いていかない。人間というのは、往々にして、相対化せずには生きていけない生物なのである。この、想像上のヒエラルキーに対抗するにはどうしたらいいのであろうか。残酷ながら、想像上のものは、想像上のもので対抗するしかない。フェティッシュな宗教が、フェティッシュな宗教に対抗するのと同じように、不毛でしかない。どこに打開策を見つけるべきであるかではなく、どこまで浸透していくべきなのか、ホモセクシュアルな欲望が完全に消去されないようなヘテロセクシュアルへの浸透点を、どこに設定すべきか、という問いに帰結していくのではないだろうか。


P74¶1
「同性愛者と周囲の人々との間のあらゆる関係は、告白という問題圏に捉えられている。罪ある状況。何故なら、ここでの欲望は犯罪であり、それ自体が生きながらえているのだから。」
「そこで、ユダヤ人が反-ユダヤ主義者となるように、同性愛者もまた進んでホモセクシュアリティに敵対する。」

カミングアウトをするという行為自体が、オイディプス的社会の確固たる存在の証明になる。また、カミングアウトするということはつまり、恥辱であり、犯罪なのである。犯罪者は、犯罪を隠すべく、犯罪を非難する側へ回る。同胞を攻撃するという、自己矛盾な行為に陥る。この行為は、青少年にとって性的倒錯というものが、差し迫った危険に感じられるからなのである。


P75¶2
「サントーブーヴに抗して」においては、プルーストのホモセクシュアルな欲望が、「母への固執」の場面によって覆い隠されている。つまりは、オイディプス的意味で読むことを勧めていることになる。


P75¶2
「花や昆虫たちは性などもまったく持ち合わせていない。それらは、性的欲望の機械そのものなのだ。」

シャルリュスとジュピアンという2者の関係については詳細が語られていないが、《その2者による一瞥の美しさ、外見上何か特別なものに行きつく目標を持っていないように見える》のである。ドゥルーズ/ガタリに倣い、それは「花々の言葉」と称される。つまり、この花々の策略というのは、何かしらの場面においてシニフィアンとして意味ある様に思われないような性格を帯びることにある。動物や昆虫の交尾を目の当たりにしたところで、それはいわば人間の交尾を目の当たりにするのとは、状況が異なってくる。そのように考えれば、「花々の言葉」というのが、ホモセクシュアリティに満ちていたところで、それ自体は覆い隠され、シニフィアンとして感じないように細工がされているということである。プルーストの苦悩が見え隠れするようだ。社会的欲望というのは、心理学的又は精神医学的に統制され、ある秩序をもって作用しているが、本来の欲望とはこのように花や昆虫のような不規則な動きを基盤としているのである。複数の欲望が離接を繰り返しながらも動線を描き、欲望機械(主体)が形成されていく。それによって、他の欲望への連合的結束を生んでいく。このような欲望が固着してしまっているのが、パラノイアトゥリーだ。苦悩が見え隠れする「花々の言葉」であるが、そこからは欲望の本質も見て取れるかもしれない。

「もう、潜行的集団もなければ、秘密もない。ただ中庭に午後の日がふりそそいでいるだけ。」


P76¶2
「プルーストは、ナルシシズムがそうであったようにあいまいなのだ。彼は解放への道を入り開くと同時にまた、呪われた種族への道にも開かれているのだから。」

プルーストの作品には、直接的なホモセクシュアルな欲望が描かれておらず、しかもそれを覆い隠すために、オイディプスの道徳的覆いを実施している。この点から言えば、フロイトのホモセクシュアリティの分析と同様な程度、貢献してしまっている。これではいけない、と本著では述べられている。ユダヤ人のシオニズム運動を例にとって、「男色家の運動を創始し、ソドムを建国する」と、『ソドムとゴモラ』で述べてられている。欲望の爆発的猛威を示唆するこの文体は、欲望のための倒錯者属領化など全く必要ないのだ、と高らかに宣言する。しかし、それらは、この作品から、オイディプス的還元を行う必要があるのだ。作家が代表で描いた言葉たちを無視し、この還元によって露にしなければならない。この点で、プルーストはあいまいだ。解放への道を開きつつ、オイディプス的三角形に追いやるような、呪われた種族への道も解放してしまっている。


続く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?