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哲学者を隣において生活をしてみたら vol.2

前回に書いた、「哲学者との対話」が面白かったので、《vol.2》としてまた書いてみようと思います。


学校の授業がだるい私

自分:毎日の授業がつまんなくてだるいんだよね。

プラトン:それはいけないな。しっかりと学ばなければ。

自分:退屈なものは退屈なんだよ。毎回眠くなる。

プラトン:君がそれで仕方がない、と思うならそれで良い。結局はそれが、「正しいこと」へと導くかどうかが肝心だからな。

自分:正しいことじゃないかもしれない…。でも。どうしても退屈なんだよね。授業よりも、部活とか課外活動の方が楽しいし。

プラトン:部活や課外活動が、授業ひいては座学に対する逃げ道にはなっていないか?

自分:…なってないよ!!多分。

プラトン:部活や課外活動を否定するわけじゃないが、逃げ道や言い訳にはするなよ。「誰にも気づかれないのであればいいじゃないか」と思うこともできるが、それが自分の本心であるのかどうか、しつこく内省することだ。

自分:怠心を誰にも気づかれてないならいいと思ってたし、今もそう思うけど…正直にいえば、こんな感じで自由に上手く生きていければいいじゃん?

プラトン:それは上手い生き方じゃない。自由にうまく…と言ったが、自由自由と言う奴ほど、自由に対して不自由なんだ。そのうち壁にぶち当たることになる。

自分:その時はその時だろ。その時に考えればいいじゃん。

プラトン:その時に壁を越えるためにこそ、まさに今、君自体の《思考や魂》を回転させることが必要だが、どうだ?できるか?つまり、授業がつまらないことも、自由に上手く生きたいということも、目の前のめちゃくちゃ狭い視野に囚われていることが要因かもしれない、という考え方だ。180度、見る方向を回転させられるか?

自分:今思う俺の視点が、全く違っていて、後ろにあるものこそが本当だっていうのか?全否定するつもりか?この世の真理すらわからないお前が?

プラトン:そうじゃない。ではなぜ、君は「授業がつまらない」という相談をしてきたんだ?そして君は、それが正しくないと思っていたんじゃないのか?君に、《正しくない側》以外の側面の見方を教えただけだ。

自分:《正しくない側》以外…。

プラトン:何事も、「正しい側か正しくない側か」という回答については、一概に言えない。そこから、「どちらか一方である」と回答することが、君にメリットがあるのか、と考えてみろ。

自分:どういうことだよ。

プラトン:要するに俺が言いたいのは、《見る角度を真逆にして再度考える》、このためには君がつまらないという授業こそが必要なんだ。教育こそ、さまざまな視点やきっかけをくれるんだ。

自分:でも、今は楽しいと思う気持ち、今の自分にとって、《やりたいこと》に対して、嘘をつきたくないんだ。

プラトン:なるほど。そのように、「正しい側なんだ」と思うのはいい。しかし、今言ったことは覚えておいて損はない。とりあえず、授業に出て、教師の言うことをリアルに聞いて、メモを取れ。最初は無機質的でもいいから。授業で得た教育は、人生における壁を越えるための思考力になる。


著作:「国家」/プラトン


音楽を聴く私

自分:この前友達とオーケストラのコンサートに行ったんだけど、演奏の解釈とか作品の理解が一致しなくて、険悪なムードで別れちゃったんだ。

ウィトゲンシュタイン:その後どうなったんだ?しっかし仲直りしたか?

自分:一応その後に、別件で連絡を取り合って、最悪の事態は避けられた、って感じかな。

ウィトゲンシュタイン:それならよかった。愛すべき友を失うことは、この世で一番と言えるほど、辛いことだろう。

自分:そうだよね。反省した。けども、私の思った、「演奏に関する解釈や理解」が間違っているとも思えないんだよね。

ウィトゲンシュタイン:私もよく音楽などの芸術作品を見聴きすることが多いが、それに関した感想や命題めいたものというのは、非論理的であることが多いと思うよ。

自分:ああ…。それはなんとなくわかる。

ウィトゲンシュタイン:「Aという音楽は、美しい。」という言葉であっても、真偽が分かれることだろう。こういった事柄は、独我論的な世界観によって語られる。要するに、自己中心的なものなんだ。間違ってもいないし、合っているわけでもない。このような命題のぶつかり合いというのは、不毛になることが多いね。

自分:譲れなくなっちゃって、熱くなっちゃうんだよね。うーん。

ウィトゲンシュタイン:わかるけどね、その気持ち。おそらく2人が話している時は、「Aという音楽について:Bという理由で美しいと思うし、また、B以外の理由で美しいと思う。」という命題が錯綜していたんじゃない?

自分:そうそう。私はBという理由で「この音楽はいいなぁ」と思っていたけど、友達は違かった、と言うだけなんだけどね。

ウィトゲンシュタイン:わかるわかる。ちなみにこの命題は真だ。ということは、君と友達は、相互に真であり偽でもある。それによって、個々人の見る音楽に関した観点はそもそも違うのだという了解を得られるよね。そうなのだったら、その《違う観点における共通性》を探してみるといい。

自分:というと?

ウィトゲンシュタイン:例えば、同じ音楽を聴いて、君が美しいと思った演奏の「響き」がよかったとしよう。そして友達は、演奏の「速度」がよかったとしよう。「響き」と「速度」は一見違う見方だが、いったい《演奏のどの箇所でそう思ったか》を掘り下げることだ。そこから、さらに話も進むだろう。漠然とした感想をさらにブラッシュアップしていけば、相互に共通した何かにたどり着けそうじゃない?

自分:なるほどー。全体的な感想をいろいろ言っているうちに、論争になってしまったんだった。響きは、速度によって変わるかもしれないし、速度は響きによって印象が違うかもしれないから、この2点を対立させるのも、確かに不毛だ。

ウィトゲンシュタイン:そして、2人が共有したいのは、「今日聞いた音楽の演奏は本当に良かったよね!」という観点のはずだから、けんかする必要もない。そこを目指せば良かった、というだけなんだよ。


著書:「論理哲学論考」/ウィトゲンシュタイン


うわさ話をする私

自分:友達のAさんって、なんだか私の性格と馬が合わないというか、とりあえず友達ではあるんだけど、距離を置いちゃうんだよね。

ヒューム:私とは馬が合うから、そういう話をしてくれるってこと?

自分:そうかも?馬が合う合わないって話は、そもそも当本人にあまりしないけどね。笑

ヒューム:うれしみが深い。しかしながら、あなたの私の印象が、本当に正確かどうかちゃんと考えたことある?もしかしたら私は、あなたのことを憎んでいるかもしれないよ。

自分:そんなことないじゃん絶対。いつも付き合って話してくれるし。好きよ。

ヒューム:さらにうれしみなんだが。意地悪なこと聞いたわ。けどね、「いつも付き合って話を聞く」人が、あなたにとっての良い人に対する《観念》になっている、というのは気をつけてね。これ、俺からの助言。

自分:全てを信じすぎることはやめろってこと?

ヒューム:簡単にいうとそんな感じ。あなたはあなたの主観を飛び越えて、さまざまな事柄を知覚することは、無理じゃないにしても、めちゃくちゃ難しいってことさ。印象自体の原因は、決してわからない。

自分:私自身の知覚に対する、反省というか、分析というか、とりあえずそういう自己分析的な解釈を客観として持つべきだわね。Aさんについても、私の一方的な観念で、違う印象を勝手に感じてるだけかもしれん。

ヒューム:いいじゃん。あんたいいじゃん。


著書:「人性論」/デイヴィッド・ヒューム


哲学とは

哲学の追求が「真理」にたどり着くのであれば、その「真理」というのは一体どういったものなのか。つまるところ、「真理」というものは、多義的なものであり続けるのだろう、と思えてなりません。

《世界の真理》についていえば、過去のホモサピエンスには確かに必要だった。しかしながら、数万年前の《世界の真理》と、現代の《世界の真理》は1対1対応するようなものではないですよね。

ということは、「何が正しいのか」とは、常に考えていく必要がある、ということになります。しかし、その行為が果たして、健気にも「真理」へ導いてくれるかどうかは、全くもって予測不可能です。

個々人の、1対1に対応しない「真理」とは、非常に脆弱なものですが、「脆弱である」と自覚するたびに、《人類という大きな枠組み》に思いを馳せざるを得ません。

「弱さ」こそ、人を結束させ、強くさせる「何か」なのだなと、改めて思わされる昨今です。

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