9月3日の朝に

2018年のカレンダーを見ると、今年の9月1日は土曜日。
平成最後の夏休みには、9月2日の日曜日と合わせて、2日分のアディショナルタイムが設けられていることになる。
いつもの夏休みが8月31日に終わる学生にとっては、朗報だろう。

多くの10代にとって、8月31日は「苦痛な日」として位置づけられていると思う。
苦痛のタイプにも様々あると思っている。
宿題が終わらない、早起きをしなければならない、いじめっ子がいる空間には行きたくない、先生が嫌い・・・
度合いも人それぞれだ。

僕が「8月31日の夜に」という企画に乗っかるのは、適切ではないかもしれない。
僕は、8月31日を苦痛にしていたタイプではなかった。

でも、学校は好きではなかった。特に小学校は嫌いだった。
別に誰かにいじめられていたわけではなく、「大人になってもアイツには会いたくない」という存在はいないが、とにかく小学校は嫌いだった。

行きたいわけでもないし、だからと言って行かない理由もない。
だから8月31日に関する記憶がほとんどない。

僕が小学校嫌いだったのは、どことなく「メリット」を感じていなかったからなのかもしれない。
クラスの嫌な奴は誰これかまわず暴言を振りまいてたし、勉強は簡単すぎて張り合いがなかったし、先生も左翼的思想の持ち主であまり好きにはなれなかった。
だから楽しかった思い出も、あまり記憶に残っていない。

正直なところ、僕は小学校という存在意義を感じていなかった。
「勉強なら家でもできる。家なら嫌な奴や先生に会うこともない。」
そういうことを一度だけ習い事の先生に言った記憶がある。
どういう回答が返ってきたかあまり覚えていないが、たぶん、以下のような“すごく大人的な”回答だった。
「学校は社会性を学ぶためにあり、様々な人間の中で生きてく術を身に着ける場所である。」
正直、全然ピンと来なかった。今も釈然としていない。

当時の僕以上に、8月31日を苦痛に感じている10代は大勢いると思う。
事情はどうあれ、学校なんて行きたくない、そう思っている人は多いはずだ。

僕は「学校という狭い世界に意味を見い出せなくなったら、そんな場所行く必要ない」と主張したい。
「学校が社会性を学ぶ場所」だとしたら、あまりにも狭すぎて異色すぎる世界である。
クラスでせいぜい40人、学年で100~300人。
そんな場所に心、神経、そして寿命をすり減らして行く意味がどこにあるのだろうか。
世界どころか住んでいる地元の自治体だって、これよりも数十倍以上の人間がいる。
学校を世界のすべてだと考える、もしくは洗脳されるのは最悪だし、その世界が自分にとって意味のないものであるのなら、早々に捨てたほうがよい。

そんな世界より、図書館に行ったほうが自分のためになる。
図書館は人との関わり合いがほとんど存在しない代わりに、自分の世界を広げてくれる空間である。
平日に学生が出入りしていたって、なんの違和感もないだろう。

歴史に興味があれば、片っ端から歴史書を読む。
小説が好きであれば、小説を一気読みする。
写真が好きであれば、写真集に目を通す。

いろいろな本に触れていくうちに、自分の興味とやりたいことが、少しずつリンクしていくかもしれない。
学校という狭い世界に囚われていてはできないことが、図書館ではできるかもしれない。

だから、「8月31日の夜」には、地元図書館の開館カレンダーを見てみよう。
9月1日は開いているだろうか。9月3日はどうだろう。
もし開いてなかったら隣町の図書館はどうか。
そこに自分が読みたい本、興味を持っているジャンルはあるだろうか。

そして、9月3日の朝には、自分が行く世界を選べただろうか。

*****

最後に余談であるが、このnoteを書いているのは、齢30を目前に休職という“期間の確定していない夏休み”を過ごしている、しがないサラリーマンである。
そんな僕は、復職日前日という”8月31日”を求めて、図書館に通い、いろいろなジャンルの本を借りて読みまくっている。
おかげさまで、この年齢になっても世界を広げることができた。

10代であれば、もっといろいろなことが吸収できるかもしれない。

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