映像フィクションが苦手
昔からドラマや映画を滅多に見ない人間だったが、最近「そもそも映像フィクションが苦手である」ということに気付いてしまった。
反面、ノンフィクションやドキュメンタリーは好きだし、フィクションはフィクションでも小説は大好きである。
このテーマを書くことになったのは、今いろいろな意味で話題の某朝ドラがキッカケである。
その朝ドラはもうすぐ最終回を迎えるとのことだが、日に日に批判の声が高まっているように思える。
元々、朝ドラにも例外なく興味がなく、職場のテレビでお昼の再放送が垂れ流しにされているのをぼんやり眺めるだけだった。
そのため、これまでの朝ドラがどういう話だったのかはあまりわかっていない。
ところが、今回の朝ドラに関しては、休職ということで比較的自由な時間が得られたことや、妻が育休中でなんとなく見ていることにより、今まで以上に生活の中で話題になることが増えている。
ただし、どちらかというとネガティブな形で話題になることのほうが圧倒的に多い。
完全に見ているわけではないので、あくまで「他人から話」をベースに感想を述べるが、とにかく作りが雑であるという印象が強い。
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小説は、読者が文章を読んであれこれと物語を頭の中で構築する。
だから、小説の中の物語は見聞きした一瞬に収まらない。
過去の文章で構築した世界観を、新しく読んだ文章から構築しなおすこともできる。
登場人物の姿や性格、物語の舞台となっている情景が、読者の中で多種多様に想起される。
だからこそ、小説は面白いのだと思う。
大きな賞を獲得している作家さん、特にヒット作を何本も出して映像化されている作家さんの本はめちゃくちゃ面白い。
伏線の回収の仕方、物語の組み立て方、そして史実に基づいた取材力。
これらが組み合わさった名作は、読んでいるとまるでノンフィクションのように引き込まれる。
(個人的なオススメは、アーサー・ゴールデンの「さゆり」 と、山崎豊子の「大地の子」である。特に前者は翻訳も素晴らしく、外国人作家の手によって書かれたものであることを忘れるほどの名訳だと思う)
一方で、本とは異なり、映像コンテンツは録画でもしない限り、振り返ることができない。
映像コンテンツは、見聞きした一瞬がその瞬間の物語のすべてを構築することになる。
つまり、その場での思考の時間を与えてくれないのだ。
自分はそれがかなり苦手である。
自分の悪い癖なのだが、どうも演者が登場人物の「すべて」になっているため感情移入しにくいし、細かな小道具や背景の粗さが気になって仕方がない。
見たことのある風景や地元の商店街なんかがロケ地になっていると、リアルとフィクションが混ざってしまって全然内容が入ってこない。
見えたものや聞いたものがコンテンツすべてである以上、それ以上考えられないのである。
だから余計と、雑なドラマは「雑さ」が際立って見える。
ところで、ここまで「朝ドラ」が非難を浴びることがあっただろうか。
過去の設定・出来事を大胆に切り捨て、多くの国民に悲しみを刻んだ災害を軽々しく扱うことには、見ていない自分でも違和感を禁じ得ない。
丁寧に作られ国民に幅広く受け入れられる映像フィクションこそが、「朝ドラ」にふさわしいのではないかと思ってしまう。
いや、「朝ドラ」だからこそ、映像フィクションに対する繊細さや丁寧さは、より一層考慮されるべきなのかもしれない。
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