多様性について

多様性という言葉が叫ばれて久しい。

トランスジェンダーの問題が大っぴらに議論されるようになったし、日本企業では外国籍社員も当たり前になった。
外国人材を増やす法案も、つい先日成立したばかりだ。
「多様性」はじんわりと生活に溶け込んでいる。


ところが、「多様性」はその定義が明確にされないまま、イタズラに使われている言葉でもあろう。
どこか「多様性」という言葉は危険性を孕んでいると感じる。

「多様性」という大義名分のもと、社会ではいろいろな方向性やルールが定められている。
一方で、一人一人の考えや意見といった「多様性」が、どこか置き去りにされたままであるような気がしてならない。
それに加えて、人々はどこまで声高に「多様性」を主張してよいのだろうか、その匙加減も曖昧である。


先の外国人材の話に関して極端な話をしてしまえば、「外国人材を受け入れたくないという人の多様性は、認められないのか?」という問題が浮上する。
つまり、様々な立場を超えて、右倣え右的に「外国人材を受け入れなければならない」といった姿勢が強要され、それに反対する人の考えが置き去りになっているのである。
差別やヘイトは決して許されるものではないが、「日本語が不自由な外国人の店員さんはちょっと…」という思考を持つことは自由であろう。

自分は外国人材の受け入れに基本的に反対ではないが、「多様性」や「人材不足」といった大義名分のもとで強引に進めると、いつか「多様性」のバランスが崩れるのではないかと考えている。
言語や文化に馴染み切れていない外国人材、そしてその面倒を見なければならず仕事も振ることができない現場。
その皺寄せを受ける顧客。
この間のミスマッチングは、見ていて辛いものがある。

都内のコンビニや外食チェーンが良い例であろう。
このような業界が人材不足であるのは事実だろうが、一方でどこか企業側にも「外国人がやっているのだから、多少サービスレベルが低下してもよいだろう」という驕りはないだろうか。
これがあるとすれば、外国人材にも顧客にも大変失礼だと思う(自分は安価な外食チェーンに行くと、たまにこのような魂胆を感じて嫌になるのだが)。

様々な立場間でのミスマッチが続くと、結局その隔たりが大きくなってしまい、「多様性」が尊重される社会から掛け離れてしまう。
先の例で言えば、「外国人材を受け入れて、彼らを暖かく見守るべき」といった、一方的な「多様性」ばかりが押し付けられ、
その他の意見が排除される「多様性の矛盾」は、結局「多様性そのもの」を蔑ろにしてしまっている可能性も否定できない。
実は、これは非常に怖いことだと思う。

「多様性の矛盾」は、何も外国人材に関して発生する問題ではないだろう。
「トランスジェンダーを認めない古風な考え方VSトランスジェンダーを積極的に認める現在の風潮」という構図もあるし、「仕事人間の上司VS家庭を大事にしたい部下」という構図もある。
日常の様々なシーンでミスマッチングやバッティングが発生する以上、「多様性」という言葉を何かの拠り所にするのは、どこか間違っていると思わざるを得ない。

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