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プロ化の源流(2) ―迷走と挑戦― 新潟から動き出した夢/大阪エヴェッサGM 阿部達也

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 JBL(バスケットボール日本リーグ機構)は2000-01シーズンで資金的に行き詰まった。バブル経済の崩壊が影響し、日本バスケは“厳冬”を迎えていた。
 そもそもプロ野球では球団数削減と1リーグ化が唱えられ、プロスポーツそのものが失速していた時代だ。
 後にbjリーグの専務取締役を務めた阿部達也は当時三十代。リクルートに勤務する傍ら、1995年に発足したJBLの立ち上げ、プロ化の動きに関わっていた。一方で1997年からは関西に戻り、大阪府協会や学連などの業務に関わりつつ、中央の動きと距離を置いていた。
 そんな阿部をプロ化の流れに引き込もうとする新潟を中心としたグループがあった。彼らは「アルビレックス」の名称で1999年にサッカーJ2(Jリーグ2部)ヘ昇格。2003年にはJ2ながら3万人を超す観客を集めていた。そしてバスケでも、2000年にJBLへ参入していたのだ。
 阿部は最終的にそんな動きへ呼応し、再びプロ化の渦に巻き込まれる日々を迎えることになる。
 この時代のバスケ界における挑戦を、阿部の動きとともに振り返る。

[ Interview by 大島和人/Photo by 三浦雄司 ] 

*この記事は試し読みです。全編掲載のダブドリVol.13はココから↓

主な登場人物
池田弘 新潟を中心に教育など多彩な事業を展開する「NSGグループ」の創業経営者。アルビレックス新潟の代表取締役となり、スポーツビジネスでも成功を収めた。バスケでは最終的に新リーグ設立を後押し。bjリーグ会長も務めた
河内敏光 三井生命、男子日本代表の監督を歴任。アルビレックスの社長兼HCを経て、新リーグ設立を主導。bjリーグ元コミッショナー
松井聰 選手としてベルリン五輪に出場。日本協会副会長を務め、初期のプロ化構想を主導した。京大バスケ部OBで、後輩の阿部にプロ化を託す
吉田正彦 モントリオール五輪男子監督。日本鋼管OB。リーグの運営、改革に関わった。「クロさん」の通称で知られる
石川武 日体大女子監督、女子日本代表のコーチを歴任。日本学連会長を経て、2000年代には副会長・専務理事として日本協会執行部の中枢を担った
蒔苗昭三郎 秋田の「辻兵グループ」で幹部を務めつつ、日本協会の副会長を務めた。JBLの再建に尽力。明治大バスケ部では河内の先輩に当たる
民秋史也 モルテンを世界的なボールメーカーに成長させた経営者。日本協会副会長、プロ化検討委員会の会長を務めた

相次ぐ撤退。そして果たされぬ「プロ化」の約束

―― 2000年代に入ってプロ化は「企業チームの受け皿」「チーム消滅対策」の側面が強まっていたと理解しています。
阿部 企業の経営が悪くなり、チームが無くなっていっているときに「沢山お金を出してプロ化をしてください」とは言えません。ディフェンシブにプロ化をしましょうという考えになっていましたね。少なくともプレーの場を作らないといけないし、そのためには自立が必要という発想です。
 あの頃はバスケをやっている人たちが、みんな企業に失望していました。バスケで入社したのに「明日からバスケ部が無くなる」と言われていたわけですから。
―― 全く予想できない、突然の撤退もあったようですね。
阿部 本当に衝撃的ですよ。シーズン最後の試合が終わったら呼ばれて「明日から解散です」と言われた話もありました。「役員会議で決まったから」の一言で、チームが無くなるんです。
 会社は雇用の維持が大義名分です。このような状態だからバスケットを休み、仕事を頑張ってくれ……という話です。でも選手は「急に仕事をやれと言われても」となる。
―― 阿部さんがbjリーグにつながる流れに絡み始めたのはどのような経緯ですか?
阿部 最初に新潟アルビレックス、千葉バジャーズ、埼玉ブロンコス、あと小浜(元孝)さんのやっていた横浜ギガキャッツの4チームでリーグを作る勉強会みたいなのをやっていたんです。2001年くらいに「JBLを作ったときのノウハウを教えてくれ」みたいな話が来ました。
―― そのグループと阿部さんはどうつながったんですか?
阿部 吉井信隆さんというリクルートのOBから連絡が来ました。INTERWOOSというベンチャー、新規事業を育てる会社の創業社長です。 
 吉井さんは新潟の出身で、(同じく新潟出身の)池田さんからプロバスケリーグ立ち上げを依頼されていました。
 池田さんがバスケのプロジェクトを始めて、さらに河内さんも社長兼ヘッドコーチでいた。3人が相談をしている中で、私が呼ばれたんです。
 ただそこからが長かった。私は家族がいるし、大阪で部署も作ってもらった。府協会とか関西学連の仕事もある。結構忙しくて、呼ばれても行かなかったりしたんです。
―― ともあれ2001年頃から関わるようになったんですね。
阿部 バスケと関係なく、週に1回くらい会議で東京に来ていました。出張で来たときに少し時間を作って、私の知識で良ければお話ししましょうと。

実は撤退も視野に入っていたアルビレックス

―― アルビレックスのプロ化がテーマだったわけですか?
阿部 いや「新リーグ」ですね。でも独立ではないんです。どういうリーグがいいのか、JBLの蒔苗(昭三郎)理事長に提出する資料を作る話です。
―― 新興チームがJBLへ働きかけるのだから、大胆な動きですね。
阿部 新潟は元々、大和証券を引き受けてくれと頼まれたわけですね。そのときの理事長はまだクロ(吉田正彦)さんですけど、クロさんは「3年以内にプロ化する」と約束していました。地域密着のプロ化をして、Jリーグのようなものを作るというのでアルビレックスは受けているわけです。でももうすぐ3年という頃に、クロさんがいなくなった。
―― つまりプロ化の約束が果たされない状況になっていた。
阿部 運営を引き継いだ蒔苗さん、民秋(史也)さんは「(JBLが)破綻してしまってそれどころではない。プロ化は据え置き」という立場になった。プロにならないなら永遠に赤字なので、アルビレックスをやめようという話になりかけていました。
 でも民秋さんが中心になって改めて考えようとなって、プロ化検討委員会ができた。新潟側もそれにジョインしようとしたらしいんですけど、入れてもらえませんでした。しかも情報があまり公開されなかった。
―― アルビレックスは受け身でなく、当事者たろうとしたんですね。
阿部 河内さんたちも「このままではチームが持たない」と考えていました。バジャーズやギガキャッツもプロ化に意欲的で、ブロンコスも含めた4チームでプロ化する腹案があった。
 アメリカの独立リーグ「ロングビーチ・ジャム」を呼んで興行をしました。ホーム&アウェイの実証実験みたいなのもやりました。ジャムは池田さんが買収していたチームです。

vol.13_プロ化の源流_168

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このあとも、「絵に描いた餅」となった協会主導のプロ化、怪文書で協会とリーグが敵対、箱はあるのに試合が...... などまだまだ続きます。続きは本書をご覧ください。

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