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プロ化の源流(4) 秋田を本当に変えてしまった東京の若者/秋田ノーザンハピネッツ社長 水野勇気

 人気は日本屈指、ファンのブーストはおそらく日本最狂……。秋田ノーザンハピネッツはそんなチームだ。連載「プロ化の源流」の主人公2人目は水野勇気。ハピネッツを二十代半ばで立ち上げ、クラブ発足から13シーズン目の今も社長を務める先駆者だ。
 若き日の彼は苦学生で、そもそもこの土地と縁がなかった。しかし秋田で「プロバスケットボールチーム設立」の使命と出会い、実現させた。水野はどのように年上の大物、仲間たちを巻き込んだのか? まず第1回は秋田の人や風土と水野の会遇について探った。

[ Interview by 大島和人/Photo by 本永創太 ] 

*この記事は試し読みです。全編掲載のダブドリVol.15はココから↓

―― 秋田の大学(国際教養大)に入学する前の水野さんは、どんな少年だったんですか?
水野 まず中学のときにスポーツライターに憧れました。高校が日大櫻丘で、付属なので頑張れば日大に行けたんですけど、日大で勉強したいことが特になくて「どうしよう?」と思っていたら、アメリカにはスポーツジャーナリズムという学問があると知ったんです。もっと調べていたら、スポーツマネジメントという道に出会いました。留学したいと親に言ったら母は大賛成だったんです。だけど父はかなり厳しいので「お前、本気か?」と言われて。
―― 止められたんですね。
水野 止められたというより「ちゃんとやるのか?」みたいな感じです。留学したい気持ちは強かったので、何回か話して最終的にはOKをもらってアメリカのシアトルに留学しました。最初は英語学校に半年ぐらい通って、コミュニティ・カレッジ(短大)で授業を取り始めて、ユニバーシティ(4年制の総合大学)に編入してそこでスポーツマネジメントを勉強する予定でした。そうしたら1年くらいで家から「帰ってこい」と呼び戻されました。父の会社の業績が悪かったからです。
―― 水野さんはバスケ経験をお持ちなんですか?
水野 小4のときにバルセロナオリンピックがあって、ドリームチーム(アメリカ代表)を見て憧れたんです。ただそのときは野球をやっていました。杉並イーグルスという軟式のクラブチームで、平日は毎日朝練をして、水曜日は午後練もあって土日は練習か試合。そんな感じで活動は熱心でした。だけど「バスケがいい」と思って、野球を続けながら草バスケもやっていました。NBAのカードも集めはじめて、渋谷のワールド……。
宮本 ワールドスポーツプラザ、ありました。
水野 あそこに行っていたんです。中学にもバスケ部があったんですけど「顧問の先生がいないから新入部員は受け付けない」と聞いて、それで僕は6年生の冬から硬式野球のクラブチームである豊島シニアに入るんです。
―― 部活でなくクラブチームで硬式野球をやっていたわけですね。
水野 でも中学に入ったら、バスケ部に新しい顧問の先生が来た。こちらはもう硬式のグローブとバットを買っているから、最初は両方に入ったんです。だけど週末はどちらかにしか行けないので、夏頃にどちらをやるか決めなければいけなくなりました。それで野球を辞めさせてもらいました。父はシビアで、辞めると言ったら「それなら道具代を返せ」と、お年玉から取られました。それからはバスケ部です。
―― お父様の会社はどういう業種だったんですか。
水野 店舗のインテリアデザインとか住宅系(の内装)ですね。小学校のときはバブルで儲かっていたみたいで、よく近所の叙々苑に行っていました。
ただ父は最終的に事業で失敗して、破産しているんです。だから僕は借金するリスクをすごく身近で見ています。同時にチャレンジして失敗しても別に命は取られないという感覚もあります。
―― 会社員の子供と、経営者の子供って、良くも悪くもマインドが違いますね。
水野 自分も社長というものに対して、そんな違和感はないですね。ちなみに兄も東京で会社をやっています。名前は元気と言って「株式会社情熱」という変わった社名の会社をやっています。僕も小さい頃から将来は起業しようと漠然と思っていました。

大学進学と交換留学が転機に

―― アメリカ留学からの帰国後はどうされたんですか?
水野 留学は楽しかったし、中途半端に英語ができるようになっていたから、アメリカでまた勉強したいという思いは残っていました。「お金を貯めよう」と考えて、昼間は植木屋で働いて、夜も居酒屋でアルバイトしました。実家暮らしだったのでお金は貯まるんですけど、アメリカの大学に4年間行くとなると相当にお金がかかる。父の会社はどんどん悪くなっていって、もう援助は期待できない状況でした。
 そんなとき、秋田に国際教養大学ができることを新聞で知ったんです。授業はすべて英語で、ビジネスのコースがある。かつ1年間は交換留学するカリキュラムがすごく良かった。公立の学費で留学できるし、自分の貯金と奨学金で通えるなと思ったんです。いわゆる3浪の21歳で秋田に来て、一期生として入学しました。
 受験前日に初めて秋田に来たんですが、夜は時間があったので駅前を散策したんです。当時は本当に寂れてて「何もないな」と思って……。僕は出身が(東京都の)杉並区なので、阿佐ヶ谷駅前くらいのイメージでしたね。(賑わいが)吉祥寺までは絶対行かない。
―― 分かるような分からないような例えですね(笑)。
水野 国際教養大が無ければ、未だに秋田に一度も来てないでしょうね。秋田での活動の原点はすべて国際教養大なのであの大学がすごく好きですし、大学あっての僕だとは思っていますね。
―― 秋田にはスムーズに馴染めたんですか?
水野 秋田は若い人の遊ぶ場所がないと言うんですけど、僕はスノボをやっていたので、これが楽しいんですよ。あと秋田は温泉がどこも泉質がいいんです。遠征先で色んな地域の温泉に入ったりしますけど、やっぱり秋田のお湯がいい。今考えると学生時代は楽しかったですね。
―― 学費や生活費は自分で払っていたわけですけど、生活をどう成り立たせていたんですか?
水野 最初は秋田でバイトしようと思ったんですけど、入学したときにあまりに時給が低くてびっくりしました。590円とか600円です。東京では植木屋のバイトは日当で1万円ぐらいもらっていました。1日8時間働いて4800円だと割が合わないなと感じて、夏休みと冬休みにまとめて東京で働く方針に転換しました。
―― 国際教養大の初代学長が中嶋嶺雄先生です。取材に来る前に中嶋さんの本を読んで予習してきましたけど、水野さんの話も出てきていました。
水野 9年前に亡くなっていますが、中嶋先生は会社を立ち上げるとき、個人で出資して下さったんです。多分すごく心配してくれたんですけど、男気のある方でしたね。
―― 交換留学はどうなりましたか?
水野 オーストラリアのブリスベンにグリフィス大学という学校があって、そこにスポーツマネジメントのコースがあったんです。第1希望、第2希望と折り合わず困っていたとき、大学から「元々オーストラリアに行きたいって言っていたよね。グリフィス大と提携を結ぶことになったけど行く?」と言われたんです。調べたら、高校時代に勉強したかったスポーツマネジメントのコースがあった。
 スポーツは元々何でも好きです。中学のときはNumberを読んでヨーロッパのサッカーをよく見ていて、当時はレアル・マドリードが好きでした。アメリカに行ったら、最初はまったく分からなかったですけど見ていると面白いのでアメフトにはまり、NFLのシアトル・シーホークスを何試合か見に行きました。オーストラリアならラグビーがやっぱり面白かった。
 秋田に来てしばらくして漠然と思ったのは、秋田にもプロスポーツチームがあればいいな……ということです。オーストラリアで印象的だったのは、試合当日のチケットを見せると公共交通機関がタダになって、バスに乗ると地元の人たちがウェアを身に付けたり、グッズを持ったりして、相手が見ず知らずの人でも会話が始まる様子です。
 秋田なら何がいいかな?となると、真っ先に思いつくのはバスケットボールでした。bjリーグは僕が留学に行く直前の2005年11月にちょうどスタートしていました。最初は6チームでしたけどエクスパンションで、新規参入を公募してチームを増やしていくという話でした。「公募ならチャンスがあるな」と感じたんですけど、同じことを当時湯沢の青年会議所で活動した住谷(達)さんがブログに書いていました。秋田でプロバスケチームを立ち上げる活動は住谷さんが言い出しっぺです。僕は留学先でそのブログを見て、オーストラリアから手紙を書きました。
―― メールでなく、手紙を書いたんですか?
水野 字は下手で汚いですけど、手紙を直筆で書いて送ったんです。返信をメールでくれて、連絡を取り合うようになりました。2006年の年末近くだったと思いますけど、留学から戻ってすぐ湯沢に行って会いました。湯沢を拠点にして活動もスタートして、bjリーグに入会の申請をしたんです。ただそのときは落ちました。
 自分は並行して東京で就職活動もしていたんです。将来は起業しようと思っていたので、ベンチャーばかり受けて、最初に内定をもらったのが千葉の船橋にあった会社です。それですぐ就職活動は止めました。まだ秋田のプロバスケのチームを立ち上げる活動を続けたかったからです。

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つづきは本誌で。次号Vol.16に第5回を掲載予定です!

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