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プロ化の源流(3) 相次ぐ「事件」を乗り越えてbjが残した人と文化/大阪エヴェッサGM 阿部達也

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 B.LEAGUEはもう6シーズン目だが、そこに至るまでの11年、この国には2つのトップリーグがあった。bjリーグは2005年秋に開幕を迎えたが、日本協会からほぼ排除された状態でスタートを切った。その歴史には様々な試練があり、資金的にも苦境の中で幕を閉じた。
 しかし彼らが垂らした一滴は、枯れかかっていた日本バスケの命脈を辛うじてつなぐ一滴でもあった。プロリーグが各地に根付かせた文化と人材は、B.LEAGUEという大河に合流して我々を潤している。
 最終回ではリーグの設立を実務面で支えた阿部達也が、創成を支えた縁やbjリーグの理想と実情を振り返っている。

[ Interview by 大島和人/Photo by 三浦雄司 ] 

*この記事は試し読みです。全編掲載のダブドリVol.14はココから↓

急転直下のエヴェッサ参入

―― 阿部さんは現在、大阪エヴェッサのGMです。エヴェッサはbjリーグに初年度から参加していて、オーナーはヒューマンホールディングスです。阿部さんとヒューマン、エヴェッサはそれ以来の縁ですね。
阿部 実は大阪ディノニクスというチームが新リーグに入る予定でした。クラブチームの強豪でしたが事務所も決まらない、法人化するか分からない状況でした。2004年のクリスマスイブに代表の方とbjリーグ経営諮問委員長の原田宗彦先生(現・大阪体育大学長)、私で面談して、最終的にディノニクスの参戦を認めない決定をしました。
―― 開幕まで1年を切るギリギリのタイミングです。
阿部 翌年10月に開幕だったので、「どうしよう?」となりました。そんな頃にちょうど庭野(孝夫)先生がヒューマンで働いていたんです。ヒューマングループは専門校を持っているから、高校の進路指導部に顔の利く人を採用していました。
―― 阿部さんが茨木市立東雲中バスケ部のときに、コーチだった方ですか?
阿部 そのコーチの旦那さんです。私の中学校のときの顧問が庭野道子先生。私は大学時代に娘さんの家庭教師をやったりもしていました。
―― 庭野孝夫先生がエヴェッサ発足のキーマンだったわけですね。
阿部 キーマンです。立ち上げのとき、石川(武)専務理事や梅野(哲雄)先生など日体大出身の大物を紹介してくれたのも孝夫先生です。最初に連絡があって「ヒューマンがバスケットボールスクールを立ち上げようとしている。そのためにはプロチームもあった方がいい。プロリーグがどうなっているのか教えてくれ」という話になったんです。
 ディノニクスのディノニクスの撤退が決まった後だったので、渡りに船だなと思って行ったら、事業開発室に上原(光徳)さんがいた。彼はその後、大阪エヴェッサ初代社長、西宮ストークスの社長を歴任しています。「分かりました。会長へ報告します」という返事で、佐藤耕一会長(現ファウンダー)も「それは面白い」と。
 ただ「バスケットの観客は2~300人だし、学校の引率や社員動員ばかり。そんな状態で本当にプロができるのか」ともおっしゃった。「(新潟の)朱鷺メッセは5000人がいっぱいなので見に行きましょう」と誘って、お連れしたんです。オレンジ色に染まったアリーナにMCが入って、照明もピンスポが入って……。それまでは選手入場さえ紹介のアナウンスがなくて、淡々と試合が始まっていましたからね。
―― 佐藤会長はそれ以前もバスケと関わりをお持ちだったんですか?
阿部 関西大バスケット部のキャプテンで、大阪府のクラブ連盟会長もされていた。だからバスケット界では有名な方です。
 確か2005年の2月ですね。試合が終わった後に古町の、座敷がある店の個室を取って、中野秀光社長も後から来てくれた。店を出たら雪景色のすごく良い雰囲気で、佐藤会長がご機嫌になって、中野社長に「あんた、いい仕事してまんなあ」と声をかけて帰られた。程なくして「チームを持つことにします」と返事があったんです。
―― 開幕前からつまずきが起こりかかったbjリーグを、ヒューマンが救ったわけですね。
阿部 「5チームでやむなし」みたいな感じになっていたところを、偶数の6に出来て、良かったです。

難航した資本金の調達

―― 池田さんや木村育生さんなど「ニュービジネス協議会」のメンバーが立ち上げに大きく貢献したと聞いています。
阿部 ベンチャーを支える団体でオーナー社長が多く参画していました。穴吹工務店もニュービジネス協議会経由で(池田氏や木村氏と)親しかった。
―― 木村さんはbjでどのような役割をされていたんですか?
阿部 木村さんは最初、東京にチームを持ちたいというので来られたんです。本体の会長は池田さんと思っていたら、池田さんは「自分よりもバスケが分かる人が良い。どうしても木村さんに」という考えで、東京アパッチのオーナーでありながら、リーグの代表になりました。ところが途中でインボイス自体が上手くいかなくなって、それで池田さんに会長が変わった経緯があります。それぐらいから色んな事件がありすぎるほどなんですけれども……。
―― 事件とおっしゃると?
阿部 一つはリーグが協会からいじめられた、嫌がらせを受けたことですね。もう一つはお金の問題です。bjの資本金として想定していた15億を、私は(上層部が)集めてくれると思っていたんです。それが「リストを渡すから、ニュービジネス協議会の会員企業に阿部が説得に行け」みたいな感じになってお鉢が回ってきた。池田さんと話したときは「良いよ」と言ってくれているみたいなんですけど、実際に行くと経理の人が出てきたりする。トップに会えても、ウヤムヤになってしまうことが多かった。結局4億しか集まらなかったんです。
―― 初年度からそこまでシビアな状態だったんですか。
阿部 そうです。1年目は「ギリギリ行けるかな?」ぐらいの額です。4億円のうち5000万は私個人の出資ですからね。3、4人が5000万ずつ出して、私の弟にも100万出してもらったりして……。何とか4億まで積み上げたんですけど、2年目が見えないわけです。
―― 最終的にbjリーグは15億円近くまで資本を増やしましたが、新規加入チームから出資を受けたりして、10年で少しずつ積み上げたんですね?
阿部 そうです。例えば穴吹さんが(高松ファイブアローズのオーナーとして)bjリーグへ入ってきたときに、リーグにも上限5000万円で出資して下さいと話したら「5000万円ですか、いいですよ」と。まあそういう具合です。
―― 入会金は2000万だったと聞いてますが、それとは別ですね?
阿部 別です。こういうのは私より池田さんが交渉してくれてやってくれていました。
―― 最初に資本を集めて、それを投資する目論見は外れたわけですね。
阿部 火の車をずっと続けてきたので、資金繰りでかなり疲弊しましたよね。私もその後、数千万単位でリーグにお金を貸したりしていました。
―― 資本金に入れた最初の5000万以外にも、阿部さんが資金繰りを回すために個人でお貸しになった?
阿部 私も追加でリーグに数千万円単位の貸付をして未払いを防ぎました。自分の給料ももちろん止めて、ものすごく大変な資金繰りです。オーナー不在のチームが資金繰りで大変だったのも、大体同じ経験をしたのでどれだけの苦労か分かります。

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