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「女性の料理が笑われる」TBS番組への違和感への‘‘違和感‘‘

先日、東洋経済オンラインの『「女性の料理が笑われる」TBS番組への違和感への違和感』という記事が話題になっていた。

また、それに関して、コメントやSNS、ブログなどに様々な意見が書き込まれた。

しかし、僕としては、議論の本質がズレていると感じた。

『「女性の料理が笑われる」TBS番組への違和感』への‘‘違和感‘‘がそこにはあった。

この記事では、日曜の昼に放送される情報番組「噂の! 東京マガジン」(TBS系)で、街角の素人に料理に挑戦させる名物コーナー「平成の常識・やって! TRY」というコーナーが取り上げられている。

何が問題なのかといえば、そこに登場し、失敗して笑われるのが、若い女性ばかりであり、直接は言わなくとも「女は若いうちから料理ができて当然」「料理は女の仕事」という感覚が、「女性差別」だと言うのである。

■ 今は「嫌なら見るな」が成立する時代 ■

まず、男女平等や、性差別といった問題の前に、もっと根本的な部分がズレていると思う。

テレビ局は、あくまで、いち民間企業であり、番組は、その商品に過ぎない

確かに、テレビには国から認可された「公共放送」という役割もある。

だからこそ、放送内容や、制作・取材手法には制限が多く、公序良俗に反するもの、過激すぎるもの、あまりに偏った見解などは放送できないのだ。
多くの不特定多数が視聴する地上波でのゴールデンタイムや、プライムタイムにおいては、特に、その傾向が強まる。

しかし、よく考えてほしい。
今は、誰でも様々な情報や考え方を得られ、自ら発信できる時代である。
お年寄りや、小さな子供を除けば、今や、テレビが「公平公正な公共メディア」だと思っている人は極めて少ない

テレビ業界は、古く閉鎖的で、利害関係、忖度、配慮が渦巻く汚い世界であるということは、すでに多くの人間が知っている。
最近は、インターネットで大きく話題になっていても、テレビでは、まったく触れないということすらも珍しくない。

「あのアイドルは大きな事務所だからスキャンダルが消された」
「あのタレントは、目玉企画の中心人物なので不祥事に触れない」
SNS上などを中心に、業界ツウではない、一般人の間で、このような会話が交わされることは、今では、当たり前のことになったが、それは、誰でも様々な情報や考え方を得られ、自ら発信できる時代になったからこそである。

そういったことを踏まえて、今回の件を考えてみると、「噂の!東京マガジン」は別に悪くはないのだ。

確かに、‘‘若い女性にだけ‘‘料理をさせ、その失敗を笑うというのは、「女は料理ができて当然」という感覚の元に成り立っている、ということは否定できないだろう。

それは、今の時代に、あまり褒められたことではないかもしれない。

そこには、「女なんだから料理ができないと恥をかきますよ」「男からモテませんよ、結婚できませんよ」「あなたもこうならないように料理ができるようになりましょうね」という

料理=女

「女は料理ができて当たり前、できないのは恥」
という部分が時代の感覚に合わないと、東洋経済の記事や、反対派が噛み付いたのだ。

しかし、現代は、
・誰でも情報や見解を得られ、自分の言葉で発信できる時代。
・テレビ局は、あくまで、ただの民間企業。番組は、ただの商品。

この2つのことを考えれば、これは問題にすべきことではないのではないか。

一昔前、インターネットが発達しておらず、誰もが、自由に情報や、意見を得て、発信することができない時代においては、テレビは「公正公平な、公共放送」としての役割を求められていた。

流行や、文化も、多くはテレビの中から生まれ、国民は扇動されていた。
当時の若者が、こぞって同じようなファッションに身を包んだり、プロ野球では、巨人だけの人気が高かったり、伝説的な国民的スターが生まれたのも、テレビの力によるものだ。

テレビが取り上げるものは良いもの、正しいもの、流行の最先端であったのだ。
みんなが同じものを見て、同じような感覚を共感する意識が強い時代だったのだ。

こういった中では、「料理=女」という感覚の番組を放送すれば、多くの国民にこういった意識を植え付けることのなってしまうだろう。

だからこそ、テレビには公共メディアとして、できるかできないか、実際は、どうかは別としても、「公平公正でニュートラルな姿勢」が求められたのだ。

こういった時代の中では。テレビを見た若い女の子は、「こうなってはいけない。料理の勉強をしなきゃ」、若い男の子としては「料理は基本的に女がやるもの、できて当然」という感覚が広まってしまうだろう。

しかし、今は、多様性の社会であり、誰もが考えや、意見を発信できる時代だ。
たかだか、いち番組の、いちコーナーで、多くの国民が同じように「女は料理ができて当然」と思い込むわけがない。

多様性の時代の中では、逆に「女には料理ができてほしい」という考え方も、認められるべき多様な意見のひとつなのである。

■ 番組に差別意識などない 単に‘‘数字‘‘がほしいだけ ■


先程は、社会的な観点から偉そうに述べたが、恐らく、TBSや制作陣は、このような大仰な理念などはないだろう。

テレビ局は利益を追求する民間企業なので、つくりたい番組、視聴率の取れる番組を制作するという自由がある。
単に、それを行っているだけだろう。

要するに、女に料理を作らせて、失敗させるほうが、面白いし、‘‘数字‘‘がとれるからだ。

この番組の視聴者層は、中高年世代が中心であると推移できる。また、出演者の多くが50歳以上のおじさん世代である。
時代に敏感な方もいるだろうが、「男は仕事、女は家事・子育て」という感覚がベースとなった時代であり、家事や花嫁修業の代表格が「料理」なのである。

実際、このコーナーを始めた当初のコンセプトは「母から娘への台所の知恵と技の伝承」という、女性の大半が結婚したら専業主婦として夫を支える、昭和的な時代の元に生まれているのだ。

番組の視聴者ターゲットである、中高年世代の共通認識として、「女性ができて当たり前の料理」ができないから、面白く、笑えるのである。
逆に、男性に料理をさせて失敗したところで、この番組の視聴者の多くは、女の場合よりも笑いはしないだろう。

実際に、男性が登場したり、「若い男が壊れた家具を修理できるかどうか」というコーナーに変わった時期もあったが、評判は芳しくなかったようだ。

‘‘男子厨房に立たず‘‘というほど、極端な時代でないにしろ、男は、料理ができなくて当たり前、できたら、褒められるべきことという時代の感覚なのだ。
料理でなくとも良いが、料理というのは、分かりやすい、笑いやすいテーマであったということなのだろう。(コーナーの最後には、プロの料理人が、オリジナルのお手本をつくる流れもあり、主婦層への需要もあったのだろう。)

ビジネスとして考えれば、より視聴者に面白いと思ってもらえる方=数字が取れる方を選択するのは当然のことであり、昔からの名物コーナーとなっていれば、なおさらである。

私は、テレビ業界の擁護をしたいわけではない。

自著『「テレビ離れ」は松本人志のせいだった!? ーテレビ・バラエティー番組がつまらなくなった本当の理由ー』の中でも、テレビ離れについて取り上げており、テレビの節操のなさ、軽薄さには辟易している側の人間である。

だからこそ、この番組においても、深い意図や理念なんてなんてものは、恐らく、ないだろう。

・お年寄りにスマホを操作させてみたら面白いだろう
・一流のプロ野球選手にサッカーをやらせてみたら下手で面白いだろう
・おじさんに若者世代の流行りものを体験させて見たら笑えるだろう
・車の免許をもっているのに運転が下手なタレントに、車庫入れさせたら楽しいだろう

というような、通常はできることとの‘‘ズレ‘‘を笑いにする感覚と同じで、そこには、当人には、差別意識などはないのであろう。

ある程度は、料理ができることが基本とされる女が、とんでもない失敗をすれば、それが面白いという思考にすぎないのだろう。

こう考えると、このような議論はあまり意味をなさない。

ひとつのものを見ても、視聴者が、その内容のみに影響されることは少なく、様々な意見をもてるような多様な時代のうえに、深い意味もなく放送しているような番組を、晒しあげて何になるのだろうか。

時間帯的にも、内容的にも、いちテレビ局の、いち番組の、いちコーナー、それも、ある程度の特定の層に向けて放送している番組に対して、生真面目にクレームをいれたり、議論をすること自体がナンセンスだ。

ニュースや天気予報といった絶対に必要なものでもない。

テレビが王様だった時代は終わり、ひとつのメディアによって、国民の意識や感覚が形成され、扇動される時代は終わったのだ。

いち民間企業のいち商品(番組)くらい、好きなように作らせてあげれば良いではないか。

つくる側は、好きなものをつくり、それをユーザーが、好きか嫌いか判断すれば良いだけの話だ。

日本政府や、教育機関が、このようなことをしていたとすれば問題ではあろう。

しかし、いち、民間企業がつくった商品を買うか買わないか、見るか見ないかは、ユーザー個々が判断すれば良いことで、正義の代理人のように、社会問題化する必要などはあるのだろうか。

そうやって、色々と文句を言っておきながら、最近のテレビはつまらない、パンチが足りない、ネットのほうが自由で面白いなどと言うのであれば、そういった人間こそ、テレビをつまらなくしている元凶である。

確かに、大手メディアや、広告から視聴者が受ける影響というものは、小さくはないだろう。
直接的に言葉で言わなくても、さりげない演出の中で、感覚や意識は刷り込まれいく面もある。

例えば、テレビのドラマ・番組、CMや広告などにおいても、

・カップルでの食事の会計で、男性が格好よく支払うシーンが見られなくなったり
・タバコを吸う場面を意図的に少なくしたり
・家族でのドライブで、父親が助手席、母親がハンドルを握っていたり
・子育てや家事、子供のお迎えを父親が行うシーンが増えたり

それが分かっているからこそ、これらにも、時代に合わせて、演出に変化が加えられている。

特に、近年は、何かあれば、すぐに‘‘炎上‘‘してしまうため、そういった面に配慮がなされており、‘‘炎上‘‘を恐れるあまり、過剰すぎるものも見て取れる。

大手メディアには、一定のモラルと、公平性、責任感が求められる。
その点は否定しない。

ただ、彼らはあくまでも、利益を追求するいち企業に過ぎない。
セールスマンが、自分の会社の商品を紹介する時に、普通は、なるべく、マイナスなポイントを言わないということは、大半の人間が知っている。

だからこそ、客として、彼らと対峙する時に、彼らの言葉をそっくりそのまま信じる人間が少ないのだ。

また、写真週刊誌や、スポーツ新聞をそのまま信じる人間が少ないのも、ちゃんとした報道機関ではなく、信憑性に乏しい、世俗的エンタメメディアという認識があるからだ。

もはや、テレビとは、そういったメディアなのである。

昔のように、インターネットがなく、テレビがトップメディアであった時代、情報を得る最有力手段であった時代は、「嫌なら見るな」では通用しなかった。

(実態は、利害関係とご都合主義な業界ではあるが)国から認可された、数少ない公共メディアとして認識されていたからだ。

今は、そういった時代ではなく。
数多あるメディアの選択肢の中のひとつ、さらに、その中の番組の、いちコーナーに過ぎない。

「嫌なら見るな」は通用するのだ。

社会を変えたい、新しく、より良いものにしたいという時に、大きな活動ばかりではなく、テレビ番組のいちコーナーのような、小さな何気ないことに目を向けることは大切なことだとは思う。

ただ、根本的なものを見誤り、難癖をつけるだけでは、本当に豊かで多様な社会など、生まれてこないのでないか。

東洋経済のネット記事は、読ませてもらうことも多く、勉強をさせてもらうこともあるが、今回の記事は、何でもかんでも騒ぎたてる、勘違いフェミニストのように、本質への理解が乏しいのではないかと感じ、残念である。

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