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定本 徳川家康

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本多隆成氏著作の「定本 徳川家康」。天下人・徳川家康の生涯を描いた作品です。出典も多く、分かりやすいと思い、購入しました。  波乱の人生を送った徳川家康を紐解いていきます。
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2023年3月の記事一覧

Ⅰ 三河支配の成立 #3 三河一向一揆の展開(2)

一揆の勃発と要因三河一向一揆が起こったのは永禄6年(1563年)秋のこと。 翌年のはじめ…

だい
1年前
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Ⅰ 三河支配の成立 #3 三河一向一揆の展開(1)

三河の一向宗一向一揆とは、「一向宗」=浄土真宗-特に本願寺派の門徒たちのことを指す。 1…

だい
1年前
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Ⅰ 三河支配の成立 #2 桶狭間の合戦と元康の自立(6)

元康から家康へ 永禄4年(1561年)4月から始まった東三河侵攻は、永禄5年(1562年…

だい
1年前
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Ⅰ 三河支配の成立 #2 桶狭間の合戦と元康の自立(5)

将軍義輝への献馬この御内書は永禄4年(1561)のもの。 この御内書や関連文書によると、…

だい
1年前
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Ⅰ 三河支配の成立 #2 桶狭間の合戦と元康の自立(4)

織田信長との同盟 元康は桶狭間合戦後、西三河の平定に着手。  他方で刈谷・小河(東浦)・…

だい
1年前
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Ⅰ 三河支配の成立 #2 桶狭間の合戦と元康の自立(3)

今川氏真との断交 元康と氏真が断行した時期はいつ頃か- 通説では、桶狭間合戦後、元康は氏…

だい
1年前
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Ⅰ 三河支配の成立 #2 桶狭間の合戦と元康の自立(2)

元康の西三河制圧 桶狭間合戦当日19日、元康は早朝から先鋒隊として丸根砦の攻略、大高城の兵糧運びに成功。同城で人馬を休めていた。その折、今川義元討死の報が入った。(夕方)水野信元からも、浅井道忠を使者として織田勢来襲前に大高城から退くように勧めがあったようだ。  その日の夜に大高城を発ち、20日に大樹寺に到着。当時は岡崎城に今川勢が留まっていたため、衝突を避けるためであった。  今川勢はほどなく岡崎城を捨て、空き城となったため、「捨て城ならば拾わん」(三河物語)と言って、

Ⅰ 三河支配の成立 #2桶狭間の合戦と元康の自立(1)

桶狭間の合戦 永禄3年(1560年)は桶狭間の合戦の年。この年を機に、松平元康は自立に成…

だい
1年前
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Ⅰ 三河支配の成立 #1 三河松平氏と竹千代(7)

元服と婚姻今川家当主から諱(いみな)をもらえることは、かなりの期待をかけられていたことが…

だい
1年前
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Ⅰ 三河支配の成立 #1 三河松平氏と竹千代(6)

駿府への人質 広忠は24歳であった。この時代の寿命は、短いものである。なお、広忠の父・清…

だい
1年前
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