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Ⅰ 三河支配の成立 #2 桶狭間の合戦と元康の自立(2)

元康の西三河制圧

 桶狭間合戦当日19日、元康は早朝から先鋒隊として丸根砦の攻略、大高城の兵糧運びに成功。同城で人馬を休めていた。その折、今川義元討死の報が入った。(夕方)水野信元からも、浅井道忠を使者として織田勢来襲前に大高城から退くように勧めがあったようだ。

 その日の夜に大高城を発ち、20日に大樹寺に到着。当時は岡崎城に今川勢が留まっていたため、衝突を避けるためであった。

 今川勢はほどなく岡崎城を捨て、空き城となったため、「捨て城ならば拾わん」(三河物語)と言って、23日に岡崎城に入った。実に10年ぶりの復帰であった。

 なお、浅井忠道は22日付でその忠節を賞され、以後は徳川家の家臣として活躍することになる。

 桶狭間合戦勝利後、大高城・沓掛城は今川方が退去したため、織田方が接収した。

鳴海城は岡部元信が奮戦した結果、今川義元の首級と引き換えに開城した。

元信は帰国の途中、刈谷城を攻め、水野信近を討った。

三河でも、知立城・重原城が、今川勢退去により空いた。

元康は松平家臣の再結集を図るとともに、西三河の制圧に乗り出した。

順調にいったが、牧野貞成が守る西尾城、吉良義昭が守る東条城は1561年に持ち越された。

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