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Ⅰ 三河支配の成立 #2 桶狭間の合戦と元康の自立(4)

織田信長との同盟

 元康は桶狭間合戦後、西三河の平定に着手。

 他方で刈谷・小河(東浦)・拳母・梅が坪などの三・尾国境で織田方と抗争を続けた。

当時の刈谷・小河城主は織田方の外父・水野信元氏。

「三河物語」や「松平記」によれば、小河や刈谷、石が瀬などで合戦があった。

 酒井忠次の上申を受け、元康が8月1日付で筧平十郎宛てに発給した感状が残されている。

永禄4年、信長との関係は一変する。2月頃までは小川・石が瀬で合戦が続いていたが、その直後に元康と信長が和睦した。

 通説は水野信元の仲立説。
「石川数正譜」では、滝川一益(織田方)が数正と通じて和議を申し入れた。
ここで、今川氏を見限っている。

和議の内容は領域確定の領土協定。
西三河を早急に平定し、東三河を制圧したい元康と美濃の斎藤氏への攻勢を強めたい、とする信長との思惑が一致した者による協定。

そして、両者の関係は当時としては珍しいことに揺らぐことなく、信長が本能寺で討たれるまで続いた。

 通説では、永禄5年(1562年)正月に元康が清州城に赴き、信長と会見して盟約を結んだといわれてきた。

平野氏は真っ向から反対。筆者も反対。

第一、「信長公記」「三河物語」「松平記」にこの事実が一切記されていない。
第二、元康に供奉ぐぶして清州に赴いたとされる武将たちの家譜類にもそのような記載がみられない。

もし、清州で会見となれば相当大きな出来事であるから、必ず記録に残すはずだ。
また、当時の元康の情勢からいうと、簡単に岡崎城を離れることは難しかっただろう。

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