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Ⅰ 三河支配の成立 #2 桶狭間の合戦と元康の自立(3)

今川氏真との断交

 元康と氏真が断行した時期はいつ頃か-

通説では、桶狭間合戦後、元康は氏真に弔い合戦を勧めながら織田信長と争っていたが、水野信元の勧めもあり、翌永禄4年(1561年)に信長と和睦をした。
 それ以後、今川方と交戦。さらに永禄5年(1562年)清州城に赴き、信長と会見して同盟を結ぶことになった。

 この通説を批判した平野明夫氏。
元康が桶狭間合戦後、織田方が各地を攻めたとする記述は誤り。

合戦直後に織田方と領土協定を結び、今川方と戦闘開始。翌永禄5年の清州同盟も事実はない、という説。

論拠となる書状は足利義輝の調停に関わる一連の文書。5月1日付の水野信元に宛てた北条氏康の書状。

将軍義輝が、各地の戦国大名の調停をしていた。今川・松平両方に対しても5月20日付の御内書が下された。

氏真と三州岡崎(松平元康)と矛楯むじゅんの儀、関東の通路期を合わさざるの条、然るべからず候。よって三条大納言(三条西実澄)ならびに文次軒(孝阿)を差し下し、内書を遣わす間、急度意見のごとく無事の段、馳走を加うること肝要に候。なお信孝に申すべく候なり。
正月廿日          花押(足利義輝)
 北条左京大夫(氏康)とのへ

まず、当事者である氏真宛には、「是非をさしおき早速和睦せば、神妙たるべく候」と停戦を勧めている。

氏康と信玄公には、今川・松平両氏の和平のために尽力するよう要請している。
5月1日付で酒井忠次と水野信元宛に出された北条氏康の書状は、義輝の要請に応えたものだった。

 この文書は永禄4年のものとされていたが、平野氏はそれを前提にして水野信元宛の書状に「去年来候筋目、駿・三の和睦念願す」とあるところから、去年=永禄3年から両者の合戦は既に始まっていたといわれていた。

 しかし、この文書は柴裕之氏と筆者が明らかにしたように永禄5年とみるべきだ。

 数多くの文書を見る限り、元康が東三河に侵攻し、今川・松平両氏が衝突するのは永禄4年4月からである。

4月に牛久保から始まって、5月には八名郡宇利・設楽郡富永口、7・8月に八名郡嵩山すせ、10月に設楽郡島田など、遺された発給文書だけでも東三河各地で激戦が展開されたことがわかる。

 氏康の立場からすれば、「岡崎逆心」「松平蔵人逆心」と非難してやまず、「三州錯乱」「三州忩劇そうげき(=混乱)」と言わざるを得ない状況だった。

 この事態を打破すべく、将軍義輝が通路を確保するため、朝廷の御内書を発給した。

ゆえに、正月廿日付の御内書は永禄5年とみなければいけない。

少なくとも、永禄4年は義輝公が御内書を発することはなかったのだから、そこまで争いは発展していなかった。

「去年来」とあるのは永禄4年ということになるだろう。
ゆえに、永禄4年4月から侵攻が開始された、と見るべきである。

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