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Ⅰ 三河支配の成立 #1 三河松平氏と竹千代(7)
元服と婚姻
天文24年(1555年)3月、14歳の竹千代は元服して、「松平次郎三郎元信」と名乗ることになった。
今川義元が加冠し、関口義広が理髪した。
義元が烏帽子親で、義元の一字「元」を与えられて、「元信」と名乗ったことは、主従関係が結ばれたことを意味した。
今川家当主から諱(いみな)をもらえることは、かなりの期待をかけられていたことが伺える。後々、三河統一を松平元信に委ねよう、という意志の表れにも見えるが…。
天文25年(1556年)6月頃、元信は一時岡崎に帰った。亡父広忠の墓参という名目であったが、新たに成人した当主のお披露目の目的もあった。
(6月24日付で、元信名の初文書あり。老臣・鳥居忠吉が松平家再興のために蓄えた米・銭を見せてくれた、という内容があった。)
弘治3年(1557年)1月15日(5月15日?)、元信は関口義広の娘を娶った。「築山殿」である。
義広は今川氏の一門・瀬名氏の出身。築山殿は今川義元の姪。元信は、今川氏の一門となった。
松平元信が16歳の時。現代でいえば高校2年生…。時代の流れは恐ろしいものだ。
また、同時期あたりに「元信」から「元康」に改名。祖父・清康の勇名を慕ったものと言われている。
遡って、天文21年(1552)年3月、織田信秀が病死、織田家は信長の時代になっていた。
今川方が尾張の沓掛城・蟹江城を攻め、織田方は信長自身が三河幡豆郡に侵入。
永禄元年2月、寺部城(豊田市)の鈴木重辰が今川氏から背き、元康は討伐のため出陣。これが、元康の初陣となった。
結果は、勝利に終わった。
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