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ウィル・スミスのビンタ事件をアメリカンコメディ史と文化から面白がろう!【今更だけど……】

前回は「仕事ヤメル!」報告という至極個人的な日記でしたが、今回はもう散々擦られ過ぎたこの「第94回アカデミー賞ビンタ事件」の話題です。

「なにを今更!」と思われるでしょうが、やります!
といっても内容は前回のYoutube生配信の解説を簡単に文章化したものなので、動画で見たい/聞きたい方はそちらへどうぞ!(動画の方が長いですが詳しく話してます)

【はじめに:この記事の目的と概要】

この記事はあくまでこのビンタ事件に関して、アメリカ文化と歴史を照らし合わせて深く面白がろう(そのヒントになれば)といったお話です。

妻への侮辱に対して手を出したウィル・スミスと、シバかれたクリス・ロックのどちらかを賞賛したり断罪するものではありませんので悪しからず。

またかなりザックリと合衆国憲法についてお話ししていますが、アメリカは州によって法律も異なり銃器所持の規制レベルも様々です。なので一概に「コレが本当です!」とは言いませんが、大まかな基本理念に沿って考えていくという主旨でお話していきます。

(※アメリカの法制度や歴史に詳しい方のご意見やご指摘があれば、ぜひコメント欄へお願いします。そうすることでこの事件とこの記事への視点が多重化し、深みが増せば幸いです)

とゆーわけで行きますが、事件の概要は皆さんが知っての通りです。

クリスが壇上でウィルの奥さんジェイダの髪型についてのジョークを飛ばす→ウィルは壇上に上がりロックをビンタ→席に着いたウィルはFワードを使ってクリスを怒鳴る→その後ウィルはSNSを通じて公式に謝罪→4/9 ウィルは10年間アカデミー賞出禁→クリスには今のところお咎めナシ

といった感じ。これに関して日本では圧倒的にウィルへの賞賛が多く、クリスへの(時には殺人的な)批判が多く見られます。一方アメリカ国内ではというとウィルへの批判も多く、クリスへはあのトラブルの後も司会を続けたことへの称賛の声もあります。

どうしてこうも評価が異なり、またウィルへの罰がこうも厳しいのか?

それはこの事件そのものが日本人にあまり馴染みのない、アメリカが掲げる「建国の理念」が衝突した事件だったからです。アメリカという国がどのように誕生し、国家が成立し、その中で培われた独特のコメディ文化と社会を知ると、この事件がもっと面白く見えてくると思います。

今回はその面白さを、なが~く語って参りますので宜しくお願い致します!

【第一章】遠い昔 はるかかなたの14世紀イングランドで……

「いきなりスターウォーズ風にお前、何言ってんだ!」と聞こえてきそうです、スミマセン……。2022年のアメリカのアカデミー賞の話ですが、14世紀のイングランドからお話します。

中世と呼ばれるこの時代、国家は君主や王様が一番偉い専制君主制で成り立っていました。その独裁体制の中で、各地方で配下の領主や地主という貴族が領土を治めていました。

ルイ14世が「朕(ちん)は国家なり」といったように君主の意志で全てが決まり、それに配下の者は従うことが当然なこの世界の中で、その君主への無礼が日常的に許される側近が存在しました。

それが宮廷道化師です。

この宮廷道化師は、中世ヨーロッパの貴族社会の中で実在したエンターティナー兼コメディアンで、なかには身体的な障害をもつ人々もいたそうですが、そんな彼らはこの君主制の世界で王様や君主という圧倒的な権力者を公の場でディスれる唯一の存在でした。

14世紀イングランドで、ヘンリー8世のもとで仕えたウィル・ソマーズという有名な宮廷道化師は、王族や宮廷内での贅沢三昧をジョークを交えながら言葉巧みに批判することで、財政の無駄や浪費に気づかせたり、またその立場からヘンリー8世の精神的な支えになるような存在になりました。

彼らのような宮廷道化師が貴族の集まるパーティーなどの公の場で、皮肉と批判混じりの「キツい」ジョークを披露し、ある種の"吊し上げ"を行うことで、君主に対して恨み辛みを持つ領主たちの溜飲を下げ、ガス抜きをする作用があったわけです(さらにこの道化師のディスをどうウマく言い返したりサラりと流せるかが、その君主の度量の見せ所でもあった)。

つまり、この宮廷道化師という立場は、極めて政治的な存在であり、いわば影の権力者ならぬバランサーであり、アドバイザーだったわけです。

彼らが強力な権力者に対して、ギリギリのユーモアとセンスを武器に"口撃"を行うからこそ、実は避けられていた領土争いもあるかもしれません。

まず、この宮廷道化師という存在が中世ヨーロッパの貴族社会に存在したことを少し踏まえておいてください。

【第二章】自由と平等と流血の建国史

さて戻ってきました!アメリカです!
といっても時は1776年7月4日、そう!独立宣言の日です!

長いので端折ります(動画ではもっと詳しく話してます)が、この独立宣言の序文にはこうあります。

①すべての人間は生まれながら平等で自由だし、幸せ願って生きる権利あるよね!

②その権利を守るために人々は政府を作るし、統治者の合意でその権力を握るよ!

③でもその政府が、①や②の権利に反するときは、こっちから政府をシバいて改造か廃止をして新政権立てんぞ!コラ!

この独立宣言に書いてる"政府"とは主に大英帝国のことで、"新政権"はこれから俺らが作るアメリカって意味です。

当時アメリカは13州で、それぞれ地方自治がほぼ独立していましたが、そもそもがイギリスの植民地なので、どの州も多かれ少なかれ本国=大英帝国からの重税と圧政に苦しめられていました。

ブリカスの茶を捨てるだよ!

この独立宣言はイギリスという悪しき帝国から、入植者にとっていまや我が家となってしまったアメリカという故郷の自由と平等を "たとえ暴力に訴えても" 守るという主旨がありますが、このときの理念がアメリカ合衆国憲法には残されており、それが個人の権利までに降りてきたのが、合衆国憲法修正第2条の武装権です。

この権利は「個人が武器を所持、携行することで自身の安全を確保してもいい」ということですが、それは同時に政府が個人に対して自由と平等を侵害する存在になったとき武器を用いて身を守る、あるいは戦うこと(それが自身の自由と平等を守るという意味なら)を許しているという権利でもあります。

そして同時に、個人から政府が武装する自由を奪わない(禁止しない)ことこそが自由と平等を象徴する国家の証明なのです。

どうですか?ちょっと凄くないですか?アメリカ!
もちろん独立戦争後の西部開拓時代には、開拓者が自身と家族を守るために自警団を結成し、原住民や盗賊たちと戦うということもあり、銃社会の下地は更に固められていきますが、その根底にはこの武装する権利を許し、それを政府が取り上げないという自由と平等が、そもそもある社会だという前提も頭の隅に入れておいて下さい。

【第三章】『言論の自由』の中にある際限なき自由

こんな銃社会を憲法で認めているアメリカですが、言論の自由はどうなのか?日本にいる僕らは怖くて何も言えなくなりそうですが、安心して下さい!ちゃんと認められています!ただし、その自由に際限はありません!

合衆国憲法修正第1条では、政府が国教(国が定める宗教)を樹立したり、またそれぞれの宗教の自由を禁じない。また表現/報道の自由と平和的な集会の自由を禁じない、それによって政府への何らかの要求(請願権)を示すことを禁止及び妨害をしない、とあります。

要は何をどう表現し、どう政府に訴えても、政府はその自由に対して権力を行使しないぐらいアメリカは自由だということです。

あくまで憲法的な解釈ですが、それほどまでの自由と平等をかなり強引に認めざるを得ないほど、アメリカという国は人種も宗教も言語も価値観もバラバラで、同時にその"まとまらなさ"を認めることこそが自由と平等を(曲がりなりにも)本気で信じ、スローガン化している国家という面白さが伺えます。

【第四章】セレブを焼け!残酷な『コメディロースト』は自由の象徴!?

時は流れて1949年のとある日、ニューヨークはパークアベニューとマディソンアベニューの間に位置する55番ストリートに1904年からある老舗クラブハウス「フライヤーズ・クラブ」にて、一人の大御所フランス人俳優が業火に焼かれるという催しが行われた。

しかしその業火は文字通りの業火、炎のことではない。
コメディアン達の口から発せられる"火炎放射"によってであった。

あ、すみません(汗)
ちょっと気取って小説風に書き出させてもらいましたw
これはアメリカのコメディ文化の中にある"コメディロースト"という伝統的なイベントです。

セレブといわれる有名人や成功者、あるいは政治家や大富豪をゲストに招き壇上に立たせ、その周りにいるコメディアン(ロースター)たちがゲストへ向けて痛烈かつユーモラスな口撃を加え"ロースト"し、観客を笑わせるという日本人から見るとあり得ないぐらい残酷な感じがするショーです(ディスだけでなく、ちゃんと賞賛もするのが礼儀であると同時にコメディアンの腕の見せ所でもあります)。

そしてこの年に行われたのが、残された公式の歴史上初のセレブを対象にしたコメディローストでした。

ローストの対象になったのはフランス生まれで、10歳のころからダンスパフォーマーとしてエンタメ界に入り、叩き上げでハリウッドの頂点まで上り詰めた稀代のエンターティナー、モーリス・シュヴァリエでした。

私が初めて焼かれたセレブです!

彼がどのような内容でローストされたのかについての詳細は分かりませんでしたが、それ以降セレブを相手にしたローストは大々的なイベントへと発展していきます。

同時にローストされる有名人は、ローストされるほど有名になったというある種のステータスと、ローストに対するウマい受け答えや返しを出せるか?という度量を見せる場でもあります。

あくまでこのローストという場では口と口での言い争いであると同時に、そこにはリスペクトと皮肉が入り混じった高度な言語能力とそれを読み取る知性、そして互いの器のデカさが要求されます。

そして、ここまで読まれた皆様、なにかに気づきませんか?

そうです!
このコメディローストの精神的構造って、第一章で出てきた宮廷道化師が君主を公の場でディスるのに似てませんか?

中世ヨーロッパの貴族社会で行われていたことが、時を経て20世紀のアメリカで行われている。そのどちらにも成功者(あるいは権力者)に対する賛美と批判と意見と侮蔑が同時に行われ、それにより観客(配下の領主たち)は留飲を下げ、一時的な不満を笑いという形で解消させる。

たしかに14世紀とは違い政治的な意図はないにせよ、20世紀の大衆には娯楽という生きる糧、文化的消費が生活の中で重要になってくる時代のなか、このローストというカルチャーは急速に人気になり、70~80年代ではテレビ番組で一世を風靡し、今ではネット配信でも行われます。

数多くのセレブがローストされ、ジャスティン・ビーバーやドナルド・トランプも焼かれています。

しかしながら、こうした口撃イベントで辛辣でキツイ批判が許されるのも、このアメリカという社会にはどのような表現であれ「表現の自由」そのものが憲法で認められているという認識が強くあり、またそれをどう考え発言するか、それに対しても自由が許されているからこその(あくまで政府や司法からの)無規制なのだと考えられます。

【第五章】ウィルVSクリスは、アメリカの理念の闘いだ!

さて、ここまでの長いお話を踏まえた上で、このアカデミー賞のビンタ事件を考えていきましょう。

先ほども言ったようにアメリカでは「自由と平等を守る」という前提で武装し、力を行使することが憲法上認められています。同時にどのようにキツく、汚く、無礼な表現であれ、それ行う自由も平等に認められています。

この非合理的で状況によっては即矛盾が表出するような2つの理念が同時に存在し、せめぎ合いながらも幸福追求をし続けるという歪な国家スタイルを無理矢理 "自由と平等" という名の元に引っ張ってきたのが、人工多人種国家アメリカです。

妻への侮辱に対し家族を守る一人の男としてその力を行使したウィルのその背後には、いかにもアメリカ的な「自由と平等」、そして幸福を、家族という形に置き換えた状態で“守った”という精神と理念が表れているように感じられます(もちろん、ウィルがあの瞬間にそんなことを考えていたとは思いませんが、理念に照らし合わせればという話です)。

しかし、アメリカ国内で非難を浴びているのはその「自由と平等」を守ったはずのウィルであり、対してシバかれたクリスは賞賛すらされているのはなぜか?

なぜならそれはウィルが「表現の自由」というもう一方の自由と平等の理念を武力の行使によって妨害したからです。

そしてなにより、この映画界というのはこの「表現の自由」を最も重んじなければならない最前線のはずだからです。

言うまでもなく、この会場に招かれている俳優、監督、プロデューサーの面々は皆、ある種の成功者であり先に述べたようにコメディローストという文化形態が成立しているアメリカでは、彼らはこのアカデミー賞の式典中はロースト対象に他なりません(当然ですが、これは一般人ではなくセレブにだけ向けられた価値観です)。

だからこそ、クリス・ロックの他にレジーナ・ホール、エイミー・シューマーといったコメディアン達が司会を務めているし、それはローストありきの場所であるという文化的大前提があるわけです(19年はコメディアンのケヴィン・ハートが過去の差別発言で辞退、過去20,21年の2年間はパフォーマンス多めの構成で司会者ナシでしたが)。

つまりこのアカデミー賞の会場はアメリカ文化的には、どのような歪な形でスタンドアップコメディアンが会場のセレブたちを"ロースト"しても、それは無礼講が前提であり、その言論/表現の自由が暴力や権力によって脅かされないという安全が保障されているからこその式典なわけです。

なので今回のような事件が頻発し容認されてゆくと、それは言論の自由を個人の裁量で断罪できるということに繋がる危険性があるのです。

それはかつての宮廷道化師の様に、大衆が政府やセレブに感じている嫌悪感や不満を、コメディという形で発散させるというガス抜きの役割を踏まえた文化的娯楽を消滅させ、コメディアン達に「誰かに危害を加えられるかも」という懸念がステージ上で付きまとうことになります。

裏を返せば、コメディアン達が好き勝手にセレブをロースト出来ているということは、このアメリカという国家において「言論の自由」が機能しているという証明でもあります。

どうでしょう?
こう考えるとなぜ家族を守ったウィルが厳しく断罪され、クリスに賞賛が向いているのか、少し見えてくる気がしませんか?

もちろんこれはあくまで、アメリカ文化の話であり、そのまま日本で置き換えられる訳でもなく、このウィルに対する処罰が適正とも個人的には思いませんが(この件に関しては人種差別的なバイアスが働いている印象もありますが、それは動画の後半でお話しています)、自由と平等に対してのアメリカ文化の異様な側面が浮き彫りになるように感じます。

まぁこの記事の全てが正しいわけでもなく、一個人の視点から見えたこの事件への印象と考えを書いてみました。

結果的に非常に長い記事になりましたが、最後まで読んでくれた皆様、本当にありがとうございました&お疲れさまでした!

大変ではありましたが、書きたいことが沢山あるのは本当に幸せなことです。

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