見出し画像

『ダーク・アンド・ウィケッド』の恐怖を落語と聖書で考える

先日、Youtubeの生ライブで今年の最新ホラー映画『マリグナント 狂暴な悪夢』と、ホラー映画史の金字塔であり2018年から新シリーズを展開している古典ホラー『ハロウィンキルズ』を語り上げましたが、またまたホラー映画です!(そちらのライブは、コチラでご覧いただけます)

『マリグナント』が、ホラーを主軸にした最新のジャンルミックスでハイテンションなジェット・コースターなら、今作は軋む吊り橋に敷かれたレールの上を、ゆっくりとビクビクしながら前進するトロッコです!

さて、今回ご紹介するその作品は、、、

『ダーク・アンド・ウィケッド』!

画像1

公開館数が全国で12館でしかやってないという状況(2021/12/1現在)がなんとも残念なんですが、ホラー映画好きには堪らない寒々しい地獄のような映画なのでオススメさせていただきます!

■あらすじは究極的にシンプル

——あらすじ——
余命幾日もない危篤の父を見舞うため、故郷であるテキサスの片田舎に帰郷した兄妹。

しかし、父を懸命に看病していた母の様子がどこか妙だ。
久々の再会にも関わらず子供たちに対し不機嫌どころか、招かれざる客といった感じで、どうやら何かに怯えている。

ーいったい何に……?

この家には"何か"が居る。
"何か"が来訪者を見張っている。
父を巡る帰郷が人生で最悪の事態になることを、二人はまだ知らない。
————

といった具合です。

父の危篤で帰郷した兄妹が、その"何か“の手によって、とんでもない目に合う。

三文で説明ができちゃう、とんでもなく単純なストーリー。
捻りの利いた設定や、意表を突くどんでん返し、想像を絶する新展開は一切なし!

じゃあ、怖くないのか?
いいえ、死ぬほど怖いです!(当社比)

この映画で描かれる恐怖は、薄暗い木造の小屋や森で、ジットリとした湿度で淀んだ空気の中を、突き刺すような冷風が突如として首元を掠めるような恐怖です。

冒頭、この兄妹の母親がひとりキッチンで料理を作るのに、人参をナイフで切るシーンがあるのですが、たったそれだけの場面がひたすら怖い!

ここだけでも、観る価値があるぐらい怖い!
この場面で観客は「ここで○○が起きたらヤダなぁ~」と、誰もが思い描くある想像をしながら観るわけですが、それがお約束通り起こります!

「起こるだろうな~、ヤダなぁ~」と思っていたら、やっぱ起きるッ!

これはもはや、稲川淳二の「怖いなぁ~怖いなぁ~」からの「うわぁーーーッ!!」とおんなじです!(文章化すると怖くなくなるかもですが汗)

この物語の主人公である兄妹は、その"何か“の恐怖に晒されながら危篤状態にある父の魂を守るために、必死に看病をしようとします。

しかし、その"何か“はありとあらゆる方法で、この兄妹を騙し、脅し、恐怖の連鎖に叩きこみ、父の魂を巧みに狙ってきます。

この戦いに、この兄妹は勝つことができるのか?
いったいどんな結末を迎えるのか?

それは是非とも、劇場でお確かめになって下さい。
今回はネタバレ無しでございます!

画像2


■この映画のウラにある恐怖の構造と信仰心


ちょっとここから、この映画の何が怖いのか?を落語とキリスト教目線でお話しします。

この映画を観ていると、ふと思い出すお話があります。
それは落語の怪談噺の古典『牡丹灯籠(ぼたんどうろう)』です。

萩原新三郎という浪人が、お露という女性と恋仲になるが、逢瀬を重ねるごとに新三郎は衰退してゆく。
実はお露は亡霊であり、徐々に新三郎の生気を奪っていたのだった。
僧侶の助けで、悪霊を祓うお札を屋敷の門に張り付ける。
その夜、お露がやってくるがお札の力で中に入れない。
あの手この手を使って新三郎を惑わし、お露は戸を開けさせようとするが…

といったお話です。

この物語は、いかに幽霊の家への侵入を防ぐか?という至極シンプルな構造で、その単純さがゆえに幽霊話の古典中の古典として長く引き継がれ、現代に至るまで様々なスタイルに形を変えて残っています。

近年のJホラーでは『クロユリ団地』がこの牡丹灯籠をやってますが、この侵入を防ぐという設定が、作品によって体内への侵入や精神への侵入など、物理から精神へと設定変更があったります。

今作ではその『牡丹灯籠』の要である「家」が、物語の流れの中で徐々にスライドしていき「父の魂」へとその“何か”の侵攻先が移行します。

「ちょっと待て!それはあくまでも落語だろ⁉ でもこの映画はアメリカの映画じゃねーか!」と批判が飛んできそうですが、まさにその通り!

では人非ざる者が家に侵入してくるような物語は他にあるだろうか?
あります!

『牡丹灯籠』よりもあるか昔、新約聖書の記されたヨハネの黙示録3章20節の一説です。

「見よ、わたしは戸口に立って、叩いている。誰かわたしの声を聞いて戸をあける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」

キリストを人とするか否かはさておき、神の子が受肉した人知を超えた存在であることは間違いないでしょう。

彼が叩いている戸は家の敷居を仕切る扉のことではなく、心の扉の比喩であり、この一節は「信仰と共に恐れずに他者や世界を受け入れる心を持ちなさい」という救いを促すの物語です。

「真に疑いなく主を受け入れる心があれば、心の扉が開かれるはずだ。」

と信仰心を試すのですが、この手法を使ってこの“何か”は主人公たち兄妹を恐怖のどん底まで誘います。

この二つの物語を合わせて、この映画を考えるとどうでしょうか?

人々の魂を救うために戸を叩くキリストの“フリ”をした邪悪な“何か”が、今まさにあなたの玄関の前に立っている。

この『牡丹灯籠』の構造と、ヨハネの黙示録によるキリスト教(西洋社会)圏における文化的な認識が合わさると、この映画が西洋人にとってどう恐ろしいのかが、日本人の僕らにも少し見えてくるような気がしてきませんか?

画像3

さて、それではここからは皆様がこの恐怖を劇場で体験してくる番です。
是非とも劇場から、この恐怖をご自宅にお持ち帰りくださいませ。

この記事が参加している募集

#映画感想文

68,724件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?