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作家の痕跡と想像力。想像に共感はいらない。

昨年のクリスマスだっただろうか。ある古書店主の粋な計らいで、好きな作家の原稿を手に取る機会があった。肉筆の力を感じた。その作家がたしかに生きていた痕跡であり、内面世界の作家像と、リアルな作家の生あるいは死が交差する瞬間である。

僕が今の仕事でなんとか食べていけるようになったのは、26だった。開業して2年ほど経って、安家賃と生活費のわずかな余りを貯金しはじめていた。はじめて古本で奮発をしたのは、その頃のことで、福永武彦の署名本だった。神保町の八木書店で見つけた『夢百首 雑百首』の美本。たしか20,000円ほど(今考えれば、少しばかり高い気もする)だった。造本が素晴らしい和綴じの2冊セット。

東京への旅費を考えると、随分と無理をした出費だった。今も仕事に埋没して心を失っていたり、なにかで気落ちすると、それを開いて署名を眺めることがあるから、しっかりと元は取れている……はずである。

福永が生きていたころに、筆ペンを握って書いたのであろうと想像すると、焦燥感が湧き出てきて、落ち込んでなどいられないと奮起する、せざるをえない。

それは彼が生きた跡であり、名を記すときに、きっとページの端を、その指で押さえたのだろう。彼の指紋はきっともう残っていないだろうけれど、たしかにそこに触れていた。

それから古本に耽溺して、さまざまな署名本と出会い、入手することになるけれど、この夢百首だけはどうしてか特別でありつづけている。

生原稿も同じである。作家の苦悩が筆に乗っていたとするなら、その息遣いが筆の運びにも写っているに違いない。

ただの署名である。ただの肉筆である。福永のこれは出どころが確かではあるが、ただの筆跡といえばそれまで。たった数文字の書き文字に勇気づけられるというのは、無論、想像力がおおいに補完してくれているせい。

思えば、作品も同じなのだ。その一文字ずつの羅列には、その人の人生が詰まっている。喜びも苦しみも欲も愛も詰まっている。作品は作品だけで完結するべきだなんて声を聞くこともあるけれど、人が人に遺していくものなのだから、そんなわけはなくて、作品を通じて作者と読み手は切り結び、対峙する。ときにその相手は死んでいるが、たしかにその作家と対峙するのである。死んだものがまた息をしはじめるのは、読み手の想像力であり、作家が労作を遺したことの偉大さでもある。

そういうその人だけの想像力で補われて完成する世界は、その人だけのもの。僕だけのもの。それは共有する必要もないし、共感も必要とせず、ただ僕のなかで完成していて、それでよい。趣味や嗜好は自己満足でよいという話ではなくて。

あえてなにかを分かち合わなくても、つながるべき人とはきっとつながるし、つながっているはず。つながりや共感は口にした瞬間に、そうでなくなってしまうことがあるから、唇の前に指を立てて。

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