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エガオが笑う時 第5話 凶獣病(1)

 久々に訪れたメドレーの宿舎は、酷くかび臭かった。
 酷くゴミが散乱しているとか、掃除が行き届いていないとか、湿気が多いとかそう言う理由ではなく、この建物自体が体臭のようにその臭いを発していると言うのが正しい。
 私は、漆喰が塗られた壁を触る。
 冷たくもなんともないただの壁。
 私が物心ついた時から何十回、何百回、何千回と触れてきた壁に触れても私の心には何も湧いてこない。
 それはこの宿舎を見た時もそうだった。
 何も感じなかった。
 寝食、鍛錬、健やかな時も病む時も過ごした建物のはずなのに何も感じない。むしろ知らない場所に訪れた時のような余所余所しさすら感じる。
 私は、本当にここで過ごしていたのだろうか?
 自分の私室だった場所や唯一の安らぎ場所だったお風呂を見れば少しは感慨のようなものが湧いてくるのだろうか?
「何をしてるんですか?」
 私の前を歩くメドレーの上官が不機嫌そうに漆喰の壁を触る私を睨む。
「懐かしいのは分かりますが感傷に浸るのは後にしてください」
 そういうと上官は前を向く。
 感傷になんて浸ってないが否定せずに彼の後に続く。
 彼は、何故、私に対していつも不機嫌な態度を取るのだろう?
 私は、彼の後ろ姿をじっと見る。
 中肉中背、身体の運びや体幹にブレがないことからかなり鍛え上げられているのが分かる。
 板金鎧プレートメイルの着こなしも様になっている。
 年齢は20代前半と言ったところだろうか、金髪を短く刈り上げ、顔付きも凛々しく、整っている部類と言えるのだろう。
 私にはよく分からないけど。
 以前の話しだと私は彼と何度か前線を共にしたらしいのだがまったく覚えていない。メドレーの上官になるくらいだから実力はあるのだろうが印象がまるでない。
 ひょっとしてそれを怒ってるのかな?
 そんな事を考えているうちに彼は、歩みを止めて扉に向かい合う。
 その扉には見覚えがあった。
 彼は、扉を2回ノックする。
 扉の奥から知ってる声が「入れ」と返す。
 彼が静かに開けると甘酸っぱい匂いが鼻腔に入り込む。
 部屋の中に入るとカビ臭さが消え、綺麗に整頓された室内に豪奢な調度品や家具、窓から入り込む日差し、そして部屋の真ん中に立つ青磁色の騎士鎧ナイトメイルに身を包んだ白髪の男性が出迎える。
「お帰りエガオ」
 白髪の男性、グリフィン卿が硬い髭に覆われた口元を釣り上げる。
 お帰り・・・。
 なんだろう、凄く居心地が悪くなる。
「疲れたろう。座りなさい」
 グリフィン卿は、部屋の真ん中に置かれたソファに私を促す。何度も座ったことのある豪奢なソファ。しかし、私は座るのを躊躇った。
 そんな私を横目で見ながら上官が「失礼します」と言って奥のソファに腰を下す。
 グリフィン卿は、彼が先に座ったことに驚く。
「貴方もどうぞお座りください。招いた側として客人にずっと立たれるのも居心地悪い」
 そういうものなのか、私は、彼に促されるままに手前のソファに腰を下ろす。相変わらず熟した桃のように柔らかい。
 私が座ったことにホッとしたのか、グリフィン卿は、白い陶磁のティーセットをトレイに乗せて運んでくる。上官が私がやりますと立ち上がるも視線でそれを制する。
 グリフィン卿は、わたしの前の小さなテーブルの前に白いカップを置く。
「お前が来ると聞いて急いで準備させたんだ」
 そういうとポットを傾けて中身をゆっくり注いでいく。
 甘酸っぱい匂いの赤茶色の液体がカップに注がれていく。
 アップルティーだ。
 その時だけ、感慨のようなものが私の心を小さく刺す。
「滅多に手に入らない上物だ。飲んでみなさい」
 グリフィン卿は、ポットをテーブルの上に置き、1人用のソファに座る。
「・・・いただきます」
 私は、そっとカップを持ち上げて口を付ける。
 ・・・こんな味だっただろうか?
 私は、一口飲んでカップから口を離す。
 膨らむような芳醇な香り、柔らかな口当たり、蜂蜜を入れたであろう優しい甘味。
 確かに高級品というだけはある。
 でも、私はこれを美味しいとは思えなかった。
「どうだ。美味いだろう?」
 グリフィン卿がじっと私を見てくる。
「・・・はい」
 私は、躊躇いながらも頷く。
 私が頷いたのを見てグリフィン卿は得意げに笑う。
「そうだろう。あんな男が作るものなんかよりも遥かに美味いだろう」
 えっ?
「どうせロクなものを食べさせてもらってないのだろう?今日は久々に・・」
 私の心に一瞬、黒いものが湧き上がった。
 乾いた音が上がり、手が生ぬるい感覚を覚える。
 目をやると手に持っていたはずのカップが消え、手がびしょ濡れになっていた。
 足元に敷かれた絨毯に黒いシミが広がり、小さな陶器の破片が散らばる。
 視線を動かすとグリフィン卿が表情を固めて青ざめ、上官はガタガタと身体を震わせている。
 何を怯えているのだろう?
 しかし、それよりも何よりも私は言いたいことがあった。
「カゲロウの作るものは全て美味しいです。2度とそんなこと言わないでください」
 自分でも驚くくらい低く、冷たく、硬い声だった。
 グリフィン卿は、首が折れたようにカクンッと頷く。
 上官は、寒さに震える子犬のような目で私を見る。
 私は、ハンカチを取り出して濡れた手を拭う。
「それではそろそろ教えてもらえませんか?」
 私の言葉に2人は、眉を顰める。
 私は、少しイラッとする。
「マナのことです。一体、彼女に何が起きてるのか知っていることを話して下さい」
 そう、私はそれを聞くためにこの古巣を訪れたのだ。
 グリフィン卿の顔に威厳が戻る。顔色は少し青いものの眼光に鋭い光を宿す。
「王国と帝国の騎士崩れどもが手を組んだ」

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