エガオが笑う時 番外編 月のない夜に
「月が見えないですね」
夕暮れが過ぎ、キッチン馬車の中で使い終えた皿や調理器具を片付けていたカゲロウは聞こえてきた声に思わず顔を上げる。
鳥の巣のような髪のせいで目元こそ見えないが顎髭を生やした口は驚きに丸く開く。
目元の見えない視線の先に街灯の灯りに照らされたピンク色のワンピースを着た金色の髪の整い過ぎるくらい整った顔立ちの華奢な少女が挑みかかるように青い目を鋭くして厚く黒い雲に覆われた空を睨みつけていた。
その横には六本脚の大きな黒馬、スーやん……彼女がスーちゃんと呼ぶ愛馬がひんやりとした石畳に腹を付けて一緒に空を見上げていた。
「エガオ?」
カゲロウは、恐る恐る今にも空に襲いかかりそうな少女に声をかけるも彼女は空を見たまま反応がない。
隣に寝転がるスーやんも聞こえてはいるようだがこちらを見ない。
仕方なくカゲロウは、食器を洗う手を止めて、タオルで拭くとキッチン馬車を降りてエガオへと近づく。
足音を立てないように歩いているのもあるがエガオはまったく気づいていない。
かつて王国最強の部隊メドレーの隊長まで務め、"笑顔ないエガオ"と呼ばれ恐れられた少女。
敵の気配や殺意に臆病なくらいに反応し、近づけば見た目からは想像も出来ない圧倒的な戦力で敵を屠っていたというのに今はあどけない表情でじっと黒い雲に覆われた空を睨んでいる。
その姿にカゲロウはいつも感じている以上の愛しさを感じて口元を緩めてしまう。
「エガオ」
カゲロウがそっと声を掛けるとエガオはびくんっと背筋を伸ばした青い目を丸くしてカゲロウを見る。
本当に気づいてなかったようだ。
カゲロウはおもわず苦笑し、スーやんも目を細める。
カゲロウは、そっとエガオの金色の髪の上に手を置く。
「どうしたんだ?ぼおっと空なんて見て?」
カゲロウは、優しくエガオの髪を撫でる。
咲いたばかりの花の花弁のように柔らかい彼女の髪は少し撫でるだけで心地よい香りを漂わせる。
この匂いがカゲロウは堪らなく好きだった。
「……月が見えないんです」
エガオは、形の良い唇を尖らせて言う。
カゲロウは、再びどきりっと心臓を高鳴らす。
しかし、次にエガオが発した言葉に違う意味で心臓を高鳴らせる。
「今日は中将の鮮血です」
「はい?」
カゲロウは、思わず口を開く。
目元が見えていれば目を丸くしていることだろう?
中将の鮮血?
なんだその不吉すぎるワード?
メドレー時代に起きた事件かなにかか?
「これじゃあお団子が食べれません」
エガオは、むうっと頬を膨らませる。
本当に表情が豊かになったな、と思う反面、何を言ってるのかさっぱりわからなかった。
中将って奴が血を流してなんで団子なんて食べるんだ?
そんな残虐趣味がエガオにあったのか?と思わず口の端を引き攣らせる。
「……ひょっとしたカゲロウ知らないんですか?」
何故かエガオは勝ち誇ったように胸を張る。
「今日はみんなで月を見ながらお団子というものを食べる日なんですよ」
エガオは、どうだっと言わんばかりに鼻息を吐く。
「お母さんに習ったんです!」
エガオの言うお母さんと言うのはキッチン馬車の常連客でマダムと呼ばれる人のことだ。かつてのエガオの上司の妻でお貴族様。つい最近、養子縁組の手続きを終えて正式に親子になってからと言うもの甘やかしがさらに酷くなり、エガオの親友である四人組には呆れられ、妹のようなお姉ちゃん的存在の犬の獣人娘からは「これ以上、エガオ様をダメ人間にしないで下さい」と怒られていた。
そんなマダムが可愛い娘に不吉なことを教える訳ないから……。
カゲロウは、顎髭を摩り一つの答えに辿り着く。
「ひょっとして……中秋の名月か?」
カゲロウが出した答えにエガオは首を傾げる。
「何ですか?それ?」
エガオは、本当に分かってないようでに眉を顰める。
「いや、むしろ中将の鮮血こそなんですか?なんだが……」
カゲロウは、疲れたように言う。
中秋の名月とはこの国に伝わる行事の一つで、満月が最も美しく見えるこの時期に親しい人達で団子やお菓子を食べながら楽しいひと時を過ごすと言うものだが……。
「今日は月を見ながらお母さんとお団子を食べるはずだったんです」
エガオは、悲しそうな顔を歪ませて肩を落とす。
なるほど……。
カゲロウは、顎を摩る。
ちゃんとした親子になって初めての行事だったわけか。
それは力の抜けてがっかりもするというものだ。
カゲロウは、空を見上げ、髪に隠れた目を触る。
あの雲を晴らそうと思えば出来なくはない。
しかし、それはやってはいけないことだ……特にこの国では。
(だからと言ってあの雲じゃあ直ぐには晴れないよな……)
カゲロウは、顔を下ろし、エガオを見る。
エガオは、さすがにどうしようもないと諦めた表情を浮かべながらもその青い目は薄く涙を蓄えていた。
カゲロウは、顎髭に皺を寄せ……思いつく。
「ちょっと待ってろ」
カゲロウは、ぶっきらぼうに答えるとキッチン馬車に戻っていく。
突然のカゲロウの行動にエガオは首を傾げ、スーやんは顔を上げる。
カゲロウは、綺麗な洗ったばかりのボールに卵とミルク、蜂蜜、そして小麦粉を入れて力一杯かき混ぜる。
火を起こし、フライパンを乗っけて、大きなバターで表面を塗りたくるとかき混ぜたものを一気に流し込む。
甘い香りが暗闇に包まれた公園の中を流れていく。
スーやんは、鼻を動かし、エガオは思わず凹んだお腹に手を当てる。
本当に食いしん坊だな、とカゲロウは苦笑しながら目の前の作業に集中する。
裏側を確認して綺麗な焼き目が付いたことを確認してからフライパンを大きくて振ってひっくり返す。
そしてじっくりと焼き上げながら別の作業に取り掛かる。
昼間のカフェの時に余ったクリーム、栗と芋を甘く煮込んで砕いたもの、そして明日用に作った黒い小豆……。それらを所狭しと並べる。
フライパンの中の物がじっくり焼けたの確認してからまな板の上に置く。
それは甘い湯気を立ち上らせる綺麗に焼けた背の高いパンケーキ。
それだけでもバターを乗せ、メープルシロップをかければ最高だろう。
しかし、今回はこれで完成ではない。
カゲロウはギザギザの刃の包丁を取り出すとパンケーキの側面に添えてゆっくりと切っていく。
柔らかいパンケーキはそれだけでふんわりとしなるがカゲロウはゆっくりゆっくり丁寧に切っていく。
半分に切られたパンケーキの上部分をどかし、下半分にクリーム丁寧に塗り、小豆をばら撒いていく。
ゆっくりと上半分を乗せて挟む。
そして最後に栗と芋を砕いたものを表面に綺麗に乗せていく。
「完成」
カゲロウは、にまっと笑うと持ち帰り用の紙の箱に入れて、キッチン馬車から降り、エガオのところに戻る。
「持ってきな」
カゲロウは、そっとエガオに渡す。
エガオは、箱を受け取り、目を丸くする。
満月がそこにあった。
栗と芋の砕いたものを全体に振り撒き、鮮やかな黄色になったパンケーキ。
それはまさに夜空に浮かぶ満月そのものだった。
「カゲロウ……」
エガオは、目を丸くしてカゲロウを見る。
「せっかくの親子水入らずのイベントだからな」
カゲロウは、口元に笑みを浮かべてエガオの髪を撫でる。
エガオは、気持ちよさそう目を細める。
「楽しんできな」
「……はいっ」
エガオは、小さく頷く。
しかし、その顔はやはりどこか浮かない。
「……やっぱそれじゃあ嫌か?」
カゲロウが顎に皺を寄せて言う。
エガオは、首を横に振る。
「そんなことないです。嬉しいです。ただ……」
エガオは、黒い空を見上げる。
「今日は……どうしても丸い月が見たかったんです……カゲロウと」
そう言って左手の薬指に嵌めた花の指輪を撫でる。
「俺と?」
エガオは、小さく頷く。
「だって今日は……カゲロウと初めてデートした日だったから」
カゲロウの動きが一瞬、止まる。
そして思い出す。
満月の日にまだ鎧を着ていたエガオを連れて街に出た日のことを。
そして空に浮かんだあの大きな満月のことを。
「覚えてたのか……」
「絶対に忘れないです」
エガオは、青い目を小さく細める。
「あの日がなかったら……今の私はないですから」
そう言ってエガオは、パンケーキを丸テーブルの上に置いてぎゅっとカゲロウを抱きしめた。
「私と……出会ってくれてありがとうございます。カゲロウ」
エガオは、カゲロウの固い胸に顔を沈める。
カゲロウは、呆然としながらもそっとエガオの細くて小さな身体に手を回す。
スーやんがじっとカゲロウの顔を見て、何かを訴える。
男を見せろと言わんばかりに。
(少しだけなら……いいか)
カゲロウは、エガオにバレないようにそっと髪を掻き上げ、黄金色の魔号の泳ぐ透明な右目を出す。
透明な目の中で泳ぐ魔号が重なり合い魔印となる。
カゲロウは、輝く魔印を浮かべた右目で空を見る。
空の上で風が吹き荒れ、分厚い雲破り、流していく。
そして……。
突然、明るくなった空にエガオは顔を上げる。
カゲロウは、腕を下ろして目を隠し、空を見上げて小さく笑う。
「ようやく顔を出したな」
夜の空に浮かぶ大きな満月。
それらまさにエガオの記憶に輝く美しい満月そのものだった。
エガオの青い目が揺れる。
薄い涙がゆっくりと流れ落ちる。
「月が綺麗だな」
「えっ?」
エガオは、カゲロウを見る。
その瞬間、カゲロウの唇とエガオの唇がそっと触れ合う。
それは一瞬のようであり、悠久のように感じられた。
カゲロウの唇が離れる。
「これが正しい月の言葉の使い方だよ」
カゲロウは、悪戯っぽく笑う。
エガオは、頬を赤らめ、呆然とカゲロウを見る。
「俺と出会ってくれてありがとう。エガオ」
カゲロウは、小さく微笑む。
エガオは、じっと青い目でカゲロウを見つめる。
そして……。
「はいっ」
にっこりと愛らしく微笑んだ。
「月が綺麗ですね。カゲロウ」
「本当にな」
二人は互いの身体をギュッと抱きしめあった。
満月の光りに照らされ、花の指輪が優しく煌めく。
二人の影が永遠を告げるように柔らかく混ざり合う。
月はいつまでもいつまでも二人を照らし続けた。