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大阪泉州・男の街でゲイが生き抜くために

2つめの投稿にして「僕はゲイです」というさっそくハードな話(プロフィールにしれっと書いていますが)。同性愛に本能的に嫌悪感を抱かれる方は閲覧をご遠慮ください(そんなグロいこと書いてないけど)。

老若男女が愛する祭りの片隅で

僕の地元・岸和田では誰もが知る、だんじり祭りをテーマにした楽曲の歌いだしにこんな歌詞があります。

大阪泉州 男の町で 遠い時代が蘇る
老いも若きも重なり合って声を出す

今の時代、「男の町」という表現はともすれば批判の対象になりそうなものですが、実際に今でもだんじり祭りの運営はほぼ男性が執り行っています。女性は祭りの間(準備から後片付けまで2ヶ月強)、徹底して男性のサポートに徹します。毎晩、青年団の寄り合いに出かけていく彼氏に「私と祭り、どっちが大事なん!?」と問い詰める女性は、岸和田では思いっきり野暮です。

ただ、実際、岸和田で暮らしていても、もちろん全員が本当に祭りが好きなわけではありません。かくいう僕も、今でこそ祭りの日は午前5時に起き、そのまま夜遅くまでだんじり見物にいそしむほどの熱狂ぶりではありますが、祭りが嫌いな時代がありました。

祭りに対する闇と光

僕は岸和田の産院で産声を上げたのですが、幼少期はちょっと離れた高石市というところに住んでいました。とはいうものの、母は岸和田の隣の市の生まれで、祭りが大好きな人間でした。親族も岸和田周辺に集まって暮らしていて、もちろん祭りに参加している親戚もいましたから、幼少期の僕も祭りの時期になれば母に連れられ、それこそ0歳の頃から岸和田の祭りを見ていたと思います。結果的に今、僕が祭りを好きでいるのは、母から受け継いだ血によるものだと思っています。

岸和田への引っ越し

ちょっとした事情があり、僕は高石市から岸和田へと引っ越すことになりました。ちょうど10歳、小学4年の秋のことです(この引っ越しの事情についてもいつか書きたいと思っています)。
高石と岸和田は、南海電車に乗れば15分ほどで着く程度にしか離れていないのですが、同じ泉州地方の街であるにもかかわらず、いろいろなものが違っていました。最たるものは言葉で、「ホンマけ!?(本当ですか)」「ちゃわしよ!!(違いますよ)」などの荒っぽいしゃべり方に僕はすっかりドン引きしてしまい、岸和田の小学校に馴染むのにかなりの時間を要しました。
背が大きいわりにナヨッとしていた僕は、岸和田の気性の荒いガキんちょたちにとっては恰好の標的となり、俗にいう「いじめられっ子」でした。ゲイにとっては“あるある”な話ですが、「おかま~!!」とからかわれるのが日常でした。
引っ越しによって「岸和田っ子」の肩書きを得た僕ですが、そのような環境でだんじりを曳く(ひく)気持ちにはなれませんでした。また、だんじりは行政区画の「町」ごとに分かれていたのですが、運の悪いことに、当時仲良くしていたクラスメイト(いじめられっ子仲間)たちはみんな別の「町」に住んでいて、僕の「町」は「いじめっ子」もしくは「いじめに興味を示さない子」ばかりだったため、自分の「町」の子ども会に入っていく機会もなかったのです。
当時から周りの目を気にする性格だった僕は、子ども心に「だんじりを曳かない罪悪感」みたいなものに苦しめられるようになりました。僕が学校でいじめられていることを知っていた母は何も言いませんでしたが、根っからのお祭り女でしたから「自分の子どもにはだんじりを曳いてほしい」と思っているはず、とわかっていました。また、祭りの日に我が家に来た親戚のおっさん(母の兄)が、家にいる僕に「お前何しとんや、だんじり曳かんかぃ」とキレてきたこともありました(そのおっさんはさっさと早死にしよったけど)。
「だんじりを曳かへんのは悪いこと」
そんな苦しみの中で、僕がだんだんと祭りを嫌いになっていくのは自然な流れだったように思います。

転機となる出会い

とはいえ、岸和田は(よく誤解されますが)祭りに参加しないからといって村八分にされるほど閉鎖的ではないので、僕は祭りに興味を持たないまま、(気持ち的に)ちょっと離れたところで青春時代を過ごしました。中高生の頃の僕が、祭りの日に何をしていたのか、今では思い出すことができません。

時は流れ、僕は大学4回生になりました。3回生までの間に卒業に必要な単位は取り、教職課程も済ませ、あとは週に一度ゼミに通うだけで大丈夫になっていたので(こういうところはマジメ)、それまでずっと通学途中のなんばでバイトをしていたのを、岸和田でのバイトに変えました。
飲食店でのホールの仕事が大好きだった僕は、ちょうどその時期に近所にオープンするしゃぶしゃぶと焼肉の店のスタッフ募集に応募し、合格しました。
そこで同じホールスタッフとして働く男の子2人ととても仲良くなり、バイト以外の時間はしょっちゅう遊びに行っていました。その2人以外もみんな仲が良く、自分の人生の中でも最良の夏でした(その後、その2人のうちの1人にガチ恋してしまい、夏の終わりとともに修羅を迎えるのですが、それはまた別の話)。

お盆を過ぎたころ、男子ホールスタッフに問題が起こりました。仲良くしていたその2人はどちらも青年団に属しているため、夜は寄り合いが毎晩あるので、全くシフトに入れなくなったのです。
そこで僕はごく自然に、「2人は祭りがあるんやから、だんじり曳いていない自分が何とかしないと」と考え、2人が抜けたシフトの穴をすべて自分が埋める、と店長に言いました(男子ホールはもう一人いたのですが、とくに協調性のないタイプだったので、他のメンバーに何があろうと自分のサイクルを変えないスタンス)。
2人は、夜に忙しくなる飲食店なのに1ヶ月以上 夜のシフトに入れないことに恐縮していましたが、僕が全部代わりにやる、と言うととても喜んでくれました。
その年の祭りの当日、僕は本当に久しぶりに祭りをしっかりと見物しました。2人はそれぞれ別の町の青年団に属していましたが、その町のだんじりが来るたびに写ルンですを構え、写真を撮っていました。

これは自分の中で大きな転機でした。
「祭りのせいで働けない2人のために自分がその穴を埋める」
自分には関わりのないもの、関われないものでしかなかった祭りに、こういう形で貢献できたのがうれしかったのです。
子どもの頃から悩まされてきた「だんじりを曳いていない」という罪悪感がスッと薄れていき、「自分も祭りを楽しんでいいんだ」と思えるようになりました。

「普通の岸和田の男」になりたかった

社会人になってから行われた高校の同窓会で、久しぶりに会った元同級生と祭りの話になり、お互い「祭りは好きだけど参加はしていない」という立ち位置なのがちょうど良く、それから毎年一緒に見に行くようになりました。それは令和になった今も続いています。

ただ、この数十年の間にその元同級生は結婚し、子どもを2人もうけました。コロナで混乱した数年を経て、令和4年の祭りにはその子どもたちに僕も会うことができました。
祭りは何年たっても変わらないけれど、それを取り巻く自分たちの環境は確かに変化してきている、と痛切に実感する出来事でした。
普段、仕事以外では一般社会と関わることはほとんどなく、ゲイの友人とばかり話していたため、価値観が少し麻痺していたことに気づいたのです。

これまでも会社の同僚の結婚式に参列したり、出産祝いを贈ったり、ベタな人生のイベントには立ち会ってきたのですが、祭りというフィルターを通すことで、ゲイである自分が鮮明に浮き彫りになった気がしたのです。

岸和田の祭りは男と女の祭り、そして家族の祭りです。
青年団の男と、彼を陰になり日向になり支える女、
昼間は走り続ける男と、無事を祈る女、
夜は二人手をつないで、ちょうちんのついただんじりのそばを歩く、
やがて結婚し、子どもを作る、
その子どももだんじりを好きになり、
命と、祭りのある街に生まれた誇りを
親から子へ、子から孫へと受け継いでいく。

そんな、岸和田ではごくありふれたものが、自分にはない。
母から受け継いだものを、誰にも渡すことができない。
“正しい”岸和田の男としての道を全うすることができない。

今さら自分の人生を悔いたりはしなくなったけれど、
祭りは大好きだけれど、
ちょっとだけ自分の生きている道が特殊だと思い知らされる、
そんな二日間でもあるのです。

僕はやっぱり「普通の岸和田の男」になりたかったのでしょう。
その想いを今でも断ち切れずにいる往生際の悪さには辟易しますが、僕にとってはきっと一生切り離せないものなのだと思います。
そしてその強烈なまでの「普通の岸和田の男」へのあこがれが、今の自分の性的志向に多大な影響を与えていると考えずにはいられないのです。

そんな想いを抱えて祭りを見ている人間が一人いること、それもまたこの街の現実として受け入れてもらえることを願います。


……とはいえ単純に祭りは楽しいし、きれいなやり回しを見たらやっぱり心が震えるし、そんな自分の中での後ろ向きなしょーもない思想も、だんじりが動いている間はすべて忘れさせてくれます。

岸和田の祭りは、いち市民のちょっとした個人の事情など吹き飛ばすほどの大きな力を持っているのです。
祭り大好き。

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