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ぼくは恋人ができない

現代のとある有名な作家について、僕はその作家は同性愛者、っていうかゲイなのだろうと確信に近い予想を立てているのですが。
その作家の小説で、主要人物の一人としてゲイが登場するものがあります。めちゃ豪華なキャストで映画化もされた作品です。
そのゲイの登場人物の日常の記述のところに、「週末には携帯にあらゆる誘いが山のように入っているがほとんどを無視し~」うんぬんかんぬんの一文があって、僕はこれをとてもゲイ的な表現だと思いました。
ゲイはいつでも「自分はモテている」「自分は平均より上にいる存在だ」とアピールしたがるものです。mixiでもツイッターでもインスタでも、それはそれは熾烈なリア充アピール合戦が繰り広げられているのを見てきました。
この作家はゲイの登場人物を描写するにあたり、自身の経験を投影しているはずです。だからこそ、この登場人物(=自分)を「平均より上にいる存在」「選べる立場」に設定してしまったのだろう、キャラ造形にひとかけらのクソみたいなプライドが混ざっているんじゃないの、としか感じなかったのです(その作家が本当にそういう立ち位置の人だったらごめんなさいですが)。

むしろ僕のように、モテないことを正直に告白する方が、きっとゲイの世界においてはめずらしいのかもしれません。

過去に存在した「彼氏」

そもそも僕はモテたかったのでしょうか。

少し前までの僕の「恋人がほしい」は、「自分を優先してほしい」の言い換えだったように思います。
今よりもっと友達付き合いの多かったころ、友人と遊ぶ約束をしていたのに突然当日にキャンセルされ、「急に彼氏と会えることになったから☆仕方ないよね☆」と悪びれもせず去っていかれることがたびたびありました。はっきりと「だってあんたより彼氏の方が大切だから☆」と言ってくる輩もいました。そのたびにつらい想いをして、「いつかは自分も優先される側になりたい」と思うようになったのです(そこで「いつかは自分も彼氏を作って同じことをやり返してやるんだ」という発想にならないのは、僕のとてもいいところでもあるし、弱みでもあるんでしょう)。
ただ、「彼氏を優先するのは当たり前」「そのためなら友人に嫌な想いをさせてもいい」「だって好きなんだもん!」という価値観に対する違和感はずっと残るものでした。でもそれを理解できないのは、自分がきちんとした彼氏ができたことのないからなのかもしれない、とも思っていました。

「きちんとした彼氏」という言い方はアレですが、実は過去に「きちんとしてない彼氏」なら二度ほどできたことがあります。
一度目はHくん。mixiのマイミクさんが連れてきた彼氏とお互いに通じるものがあり、略奪に近い形で交際がスタートしました。当時僕は実家暮らしで、Hくんも実家だったため、夜の人気のない通りでこっそり手をつないだり、カラオケボックスでキスしたり、城崎温泉に旅行に行って部屋に入るなりがっつくようにキスをして僕の前歯が欠けたりw、といった形で順調に進んでいたのですが、一ヶ月ほど経ったある日、突然Hくんは「別れたいです」とだけメールを送ってきて、そのまま着信拒否に。さらに数日後、「やっぱり話したい」と連絡してきて、もう一度付き合いなおすことになったものの、またその3日後くらいに「やっぱり無理」と再び着信拒否。
当時の僕自身の感情は、10年以上が経った今ではもうまったく思い出せないのですが、その失恋(?)をきっかけに、それまで怖くて近寄らなかった堂山に通えるようになったので、今となっては結果オーライです。

二度目はQくん(名前すら憶えていない)。どういうきっかけだったかも忘れてしまいましたが、その頃には僕は大阪市内で一人暮らしを始めていたので、Qくんはしょっちゅううちに泊まりに来ていました。そのうちQくんが推し進める形で付き合うようになったものの、ものの10日ほどで「別れたいんやけど」という電話が来て、「なんで?」と聞いても「なんでも」と答えてくるような有様だったので、これはもう通りすがりのチャリに撥ねられたようなものだと、そこまで落ち込まなかったような気がします。

結局この二人が僕の何に惹かれ、そして何に失望して去っていったのか、それを話し合う機会も与えられず、結果として僕の人生には何の影響も与えてくれなかったのが事実です。
このような「ちゃんとしてない彼氏」との交際経験しかないので、僕自身、生涯で「彼氏はできたことがない」と考えています。

恋人ができない理由

「なんで彼氏ができへんのやろ」と問うと、決まって「好かれるための努力はしてる?」という答えというか、叱咤が飛んできます。
確かに、ジムには通っているものの見映えがするほどに身体を鍛えているわけでもなく、出会いの機会を増やすために社交的になる努力もしていないので、ここから先は見苦しい言い訳になるのかもしれないのですが、身体を鍛えていなくてもモテる人はモテるし、性格に難があってもモテる人はモテる、という事実ははっきりと存在すると思います。世の中には犯罪を犯しながらも愛される人だっています(飛躍)。

ではなぜ自分が恋愛的な意味で誰にも好かれないのかを考えると、単純に人間として(恋愛対象的な)魅力がないのでしょう。
思い当たる節はあります。

思い当たる節① 過去のふるまい

昔の僕を知っている人ならすぐに理解してもらえると思いますが、数年前まで僕はかなり感情の起伏が激しく、またそれを隠そうともせず、堂々と周りをネガティブの渦に巻き込んでしまう人間でした。mixiやツイッターなどを通した出会いがあふれるように存在した時代に、そのような人格であったことは、僕自身、人生の中で最大の失敗だったように思います。何より周りの人をみんな傷つけてきた自分が恋愛を求めている時点で、めちゃくちゃな話だったのです。
今は年も取り、また過去の傍若無人な振る舞いの報いも大いに受け、すっかり身も心も丸くなってしまいましたが、贖罪の意識は生涯消えることはないでしょうし、その影響で自分に自信を持つこともできないと思います。自信を持てず、過去を悔いてばかりの人間に魅力などあるはずがないんです。

思い当たる節② 先天的なもの

そして「持って生まれたもの」。また責任転嫁になりますが、生まれつき、もしくは幼児期の環境や経験を通して、「人とうまく関われる人」「人にうまく気に入られる人」「人にうまく好かれる人」に育つことは大事だと思います。そういう人を間近で何人も見てきましたが、自分にはその要素が全くないと感じます。

思い当たる節③ 性格

さらには性格、というか性質。そもそもマイナス思考で、あまり自分が何かをうまくやれるというイメージが描けない性格です。学校の成績だけはそれなりに良かったので、褒められることも少なくなかったのですが、それよりも体育ができないがために責められること、身体が大きいのにナヨっていてオカマっぽいと責められることばかりを心に刻み、「自分はダメ人間だ」と苦しみ続けました。この、否定されることばかりを集めてしまう癖は大人になっても治りません。自分で自分を否定ばかりしているのに、他人に魅力を感じてもらえないのも当然です。ただ、その結果として今では心療内科に通うようになってしまいましたが、ネットでメンヘラ系の読み物を見ると、ほぼ100%の確率で「こんな私でもなぜか理解してくれる恋人がいて…」というクソ展開になるので、これは彼氏ができない理由としては成立しないのかもしれません。

思い当たる節④   色気やフェロモン

「男としての色気やフェロモンを感じない」とよく言われてきました。
知らんがな

こうして並べてみるに、実に恋人ができない理由がよくわかる気がしますw。

愛されるより愛したい

「なんで彼氏ができへんのやろ」と問うと、「まだ出会っていないだけ、いつかきっと出会えるよ」と言ってくれる人もいます。

僕の大好きな脚本家・坂元裕二氏が書いた『anone』というテレビドラマでこのようなシーンがあります。

「何にもいいことないんだよ!!」
『それはいつか、』
「いつか、いつか、でもう四十五だ!もう死んでもいい!」

直後、この登場人物はピストルで頭を撃ち抜いて自殺します(なんちゅう話を書いとんねん大好きw)。自分も四十五を過ぎ、「いつか」なんて言葉に希望を託すこともできなくなりました(かと言って銃口を自分に向けられないほどには厚かましいのですが)。

ただ、冒頭でも述べたように、昔の僕は「恋人」というものについて「自分を優先してくれる存在」という定義を立てていたのですが、時が経つにつれて、自分の中で「心から愛することができて、その人のために何かをしてあげたいと思える存在」に変化している気がします。
それはたぶん、過去に傍若無人な振る舞いをしてきた僕を大目に見て、僕が自分から内面を変えていけるよう努力するのを待ち続けてくれた、今の友人たちのおかげだと思っています。
だから今度は、僕が誰かに何かをしてあげられるような存在になれればいいな、とぼんやりと考えたりするのです。そんな大それたことが自分にできるのかは未知数ですが。

そもそもあんたゲイ好きなの?

ここまで書いておいて今さらなのですが。
ゲイの人たちのいやらしい裸だったり、タンクトップ姿だったり(これは性癖なので軽くスルーしてください)を見ると、性的な興奮を覚えるのは確かです。
ただ、これまでの自分の人生を振り返って、本気で、それこそ狂おしいくらいに恋い焦がれた相手は、よく考えればノンケばかりでした。
前回の記事でも書いたとおり、僕は「普通の岸和田の男」に強烈なコンプレックスを抱いているので、

本気で好きになる対象もだいたいノンケのクラスメイトだったり、ノンケのバイト仲間だったり、ノンケの会社の同僚だったりでした。
もちろんそんな人たちを好きになったところで何もならないし、ただ破滅に向かうだけです。実際、うっかり好きになってしまったばっかりに修羅を見る羽目になったことも一度や二度ではありません。
ゲイの世界には「ノンケ喰い」という恐ろしい言葉もありますが、僕にはとてもそんな技量はありません。

もしかしたらこの先もずっと「普通の男」にあこがれ続けて、そのまま死んでしまうのかもしれません。
これまで生きてきて、ちょっといいなと思うゲイは何人かいたものの、狂おしいくらいに恋い焦がれたゲイはいなかったのだから、これから都合よく現れるとも思えません。
だからほぼあきらめてはいますが、生きている限りは、誰かとしっかり向き合って、心を通わせ、やさしさを分け合う、そんな世界を見ることができるかもしれない、と想像する自由だけは与えられているはずです。

いつか、いつかで。

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