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『A Private War / Marie Catherine Colvin, (12 January 1956 ~ 22 February 2012) 黒のアイパッチ、ジャーナリスト:メリー・コルヴィン伝記 』

Marie Catherine Colvin, (12 January 1956 ~ 22 February 2012) was a journalist known for her reportage in war zones. She lost her left eye in the Spring of 2001, struck by a blast by a rocket-propelled grenade by the Sri Lankan Army. / メリー・キャサリン・コルヴィン(Marie Catherine Colvin、

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1956年1月12日〜2012年2月22日)女性記者でもっとも多くの戦場を取材したジャーナリスト、メリー・コルヴィン女史、左目の負傷は2001年春、スリランカ内戦で政府軍の放ったロケット砲(RPG)の爆発に巻き込まれてのもの。彼女に会った時にはすでにアイパッチをされていた。(2007〜2010) PTSDを抱えた特有の低い声のトーンはサバサバとして短い。左眼失明後の「侵襲ストレス」による鬱もかなり重い症状だったと聞いている。『お元気で何よりです』じろ〜り、と上眼づかいこちらを見ると、=ご覧の通りよ、もう少し右によって!距離感がわるわ〜、海賊みたいでしょ?=、笑って冗談を飛ばすあたりがメリーさんらしい。中東情勢は、これからますます複雑になる、あの時から世界が大きく変わった。9・11テロを言っている。この読みは当たっていた。イラク戦争からアラブの春、チェニジア、リビア、シリアまで、メリー女史は紛争地を遁走する。=あなたは写真も撮ったわよね〜?=、こんな感じの写真が必要になるの、現地で会ったら同行できるかと言う。グリーン・ゾーン(米軍基地)かプレスセンター(ほぼ塹壕〜塹壕へ移動)にいる。ざっくりとした会話でしかない。指示をもらってその後どこへ行ったか分からない、メリー女史と同行した記者は皆クチぐちに言う。筆者は、この会話を最後にメリー女史との再会は実現しなかった。2011年3・11、日本は未曾有の大震災に襲われる。筆者も現場取材に明け暮れ、中東情勢まで手がまわらなかった。

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 原発事故での警戒区域取材も命の危険、戦場そのものだった。明け2012年、シリア情勢は泥沼化、2月22日、メリー女史はシリア・ホムスで反政府勢力を取材、砲弾と弾丸の雨のなか、衛星電話を介しNews 配信を決行。「今日、幼い子どもが死ぬ現場に居合わせました。爆弾の金属片が当たった本当に恐ろしい状況でした。彼は小さなお腹を波打たせながら死んで行きました」現状を伝えたこの数時間後、政府軍の砲弾を受けて死亡、享年56歳。この死は、のちに政府軍の暗殺と判明、報道への口封じだった。

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 この年の夏、8月20日、日本人女性ジャーナリスト・山本美香さん (1967.5.26〜2012.8.20) がシリア内戦取材中、政府軍の銃撃によって殺害された。この死も、メディアを標的としたあきらかな暗殺だった。「なぜそんな危ない場所へ行くのだ?」答えは簡単だよ、それが私たちの職業だから、私たちが選んだ職業だから、私の仕事だから、=我々は真実を見つけ、真実を伝える事だ、あとで知らなかったとは言わせない=。

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