記事一覧
【短歌】
告白のなき信仰と目せれば容易く滑る汝が救済
洗礼とは形でなくて告白である神の名簿に命刻んで
文化の盗用 の線引き難しくシティポップがアメリカでウケる
バラバの如く解き放たれた我が身なれどキリストが我が罪にて死せる
【短歌】
革衣 寒の戻りに引き出せばいかにもアナクロの僕を見つける
アフロアメリカン 席を譲ってしばらくして老婆が座る微笑ましい文化
で、結局。何を言いたいのか問われれば十字架の主とトートロジーの如く
文化の盗用 の線引きに困るファッションのクロスにドクロ、行けカルバリへ
パウロはトゲを持っていた。
身体的な病だとかいろいろ考えられているが
とにかく、彼にとってそれは宣教活動に益にはならないと思っていたらしい。
しかし、主は「弱いときにこそ強い」と言われている。
ちなみにパウロはキリスト者の迫害者であった。
それが、悔い改めて伝道者になった
ところが主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
Ⅱコリント12:9
また、あまりに多くの啓示を受けたため、それで思い上がることのないようにと、私の体に一つの棘が与えられました。それは、思い上がらないように、私を打つために、サタンから送られた使いです。
IIコリント12:7
→
【役割語考】
女性の役割語、男性の役割語、後は老人の役割語「じゃ」とか赤ちゃん言葉も役割語だ
役割語=差別が、極端なのかもしれない。文芸は「修辞」の世界だ
差別となれば、それを用いて抗う表現が現れる世界だ
むしろ、役割語をしてしまう「おじさん」が排除される文化なのだろう
【役割語考】
役割語=差別となりやすいが
役割語は修辞でもあるという考えもあっていいのではないか。
私の場合は思想的に男性が女性はこう語れ、というマッチョイズムではない。むしろ、女性性を強調するための修辞として用いたいと思っている。
「だ」「ぜ」なんてのは男性の役割語だ→
【役割語考】
例えば「ごきげんよう」みたいな発話の場合、役割語に思えるが、あえて、その発話者が言うということもあるだろう。
だから、あえて「〇〇わ」「〇〇よね」と発話させることもあっていいはずだ。
ということは、役割語もまた一つの表現なのだと思える。逆手に取るという修辞。
コヘレト7:14
幸せな日には幸せであれ。
不幸な日にはこう考えよ。
人が後に起こることを見極められないように
神は両者を造られたのだ、と
ーーーーー
神は必ず、反対を与える。
それが、先なのか後なのかは分からない。
私においては、先だっただけ。
人はみな、罪人だということ。
【役割語考】
私が役割語を用いていたのが、独白に関する部分なのだが、過去を振り返るというものだから現在の女とその時の少女という対比も意識しなければな、と思っていたが
「わ」「よ」「ね」を一回でも用いたら役割語!ってなる気がしてしまう。
【役割語考】
男性が女性性を勘違いしている時に役割語になる。
具体的に男性が少女の発話をする時に、「わ」「ね」を使ってしまう。
解決法は、「中性化」なのだろう。
もっと、子ども(中性的)にすればいいのではないかと思う。
これは匙加減だから中性性が解なのだと思う。
【役割語考】
私の中で「〇〇わ」とか「〇〇ね」とかが役割語だと思っている
しかし、これは、大きな修辞を持っていたことが分かる
女性の言葉は「切れ」を作るのが難しいのではないかと思う
なんかずっと喋っているという印象になってしまう
そこで「わ」「ね」は、リズムを作る
役割語恐るべし
【役割語考】
それこそ「文体の創造」になるから
かなり高いハードル。
ちなみに短歌では役割語は稀だろう
私の場合は長歌だから実作でそれにぶつかる。
私は男性で自認も男性だ
しかし女性の目線で「語り」がしたい
その時にいわゆる「役割語」に縛られる
どうしても、それを使ってしまう
かといって、それなしで女性の言葉を男性が語るにはどうしたらいいのだろうか
それが課題だと思っている
しかもそれは現実の会話とイコールではない(らしい)