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ソ連MSX物語⑤PCの黄金郷日本へ

「MSXを生んだ日本に行きたい!」
突然のソ連MSXチームの直訴に、父は思わずグルジアワインを吹き出しました。
「そ、そんな無茶な・・・」

ソビエトと言うとロシア料理を連想する方が多いですが、父の赴任先はアゼルバイジャンでトルコ系の料理。メインは香草串焼きのケバブ。トルコより優れている?のはイスラム教圏にもかかわらずソ連でお酒は飲み放題なこと!
グルジアと共にワインの名産地でもあり、ロシア風にウオッカもガンガン飲みます😋

ことの発端は父の昇進祝いでソ連MSXチームのメンバーと宴会をしていた時のことでした。
「工場でこれだけPCを活用しているのは俺たちだけだろうな」
彼らが自慢しているの聞いた父が
「君らは井の中の蛙だ。我が日本にはもっと優れたPC運用システムが山ほどあるぞ」
と、口を滑らせてしまったのです。
「同志、日本のPC技術がソ連を凌駕していることは薄々気が付いていた。我々はその現場をどうしても見てみたい」
そう答えると、彼らは父が差し入れたMSXマガジンの記事を指さしました
「この雑誌によるとMSXには外付けフロッピーディスクドライブを接続できるそうだな。我々はカセットテープで自作品質管理ソフトを運用しているが、FDDになれば作業効率は格段に向上するだろう。」

Mマガ85年10月号。この時期からMSXの本格的なFDD運用が始まった。
Mマガ85年12月号。世界的にFDDの規格は乱立していたが、MSXは後発だったこともあり、3.5インチ2DDと現在でも使用できる規格なのは大きかった。

父は驚きを隠せませんでした。労働意欲が限りなく低くサボる口実を常に探していたような彼らが、まるで生まれ変わったように新しい技術を欲しているのです。
父はパソコンには不得手だったのでこの心境を理解できなかったようですが、PC少年だった僕はソ連MSXチームの気持ちが良くわかります。それはもはやパソコンユーザーの本能と言うべきものだったのでしょう。

「あの時は気が大きくなってつい口が滑ってしまったが、彼らがやる気を出してくれたことが何より嬉しかった」と父は回想します

父は悩みました。時は1985年の冷戦真っ只中、それは一介のサラリーマンの父にはあまりにも無謀な懇願だったのです。しかし怠けるソ連人労働者に
「努力した人間が評価される時代が必ず来る。」
と常に叱咤激励してきた父には葛藤がありました。ソ連MSXチームの活躍でバクー工場は生産台数で首位になったにも関わらず、共産主義の悲しさで彼らの賃金は1ルーブルも上がらなかったのです。
「あまりにも不憫すぎる。私は西側の代表として、彼らにきちんとした対価を払う責任がある」
父はウォッカを一気に飲み干すと
「解った。私に任せておけ!」
「Ураааааааа!!!!ウラー 万歳!」
こうしてスムガイットの夜は更けていったのでした。

人気のあったストリチナヤ・ウォッカ。ソ連ではちびちび飲む男は軽蔑され、一気に飲み干しすのが礼儀。父のそうした積み重ねが信頼を勝ち得ていった。

「しまった、あんな安請け合いをするのではなかった・・・」
翌日二日酔いの頭痛の中で父はぼやきました。
東西冷戦の時代、父のような西側の人間がソ連に入国するにも一苦労でしたが、その逆はほとんど不可能な情勢でした。
一番の理由は亡命者が後を絶たなかったからです。日本では1976年のミグ25事件・ベレンコ中尉が有名ですが、多くの芸術家や学者がソ連体制を見限って西側に自由を求めてやってきました。
ソ連では亡命者を「非帰還者(ニュアンス的には非国民)」と呼び、祖国への裏切りとみなされ、財産没収、自由剥奪、そして最悪の場合には銃殺刑を宣告されるほどの重罪行為だったのです。

航空ファン76年12月号。ベレンコ中尉亡命事件の記事。ミグ25はマッハ3を超える超高速戦闘機であり電子機器は米国を凌駕しているのではと恐れられていたが、実際には真空管が多く使われていることが露呈してしまった。ソ連は最後まで高性能の半導体を生産出来なかった。
航空ファン91年9月号。ソ連の軍用機は西側にない異様な威圧感がある。
珍しいMiG-25の複座型

唯一と言える方法は入国先から入国ビザを受領する…つまり日本政府が入国ビザを発行するケースです。この場合は日本側が在留中の責任を担保する形になるので、亡命の危険性が少なくなるからでした。
幸運なことに父の所属する日本電気精器では、ソ連技術者の日本研修が定期的に行われていました。しかしこの人選はソ連側の本丸であるロシア工場の共産党員エリート枠が優先されています。研修にバクー工場のMSXチームを潜り込ませるには、日本政府が発行する入国ビザの割り当てを増やすしか方法が無かったのでした。

社内広報より。1971年から30名程度のソ連技術者を研修として来日させていた。
74年父も参加したソ連技術者の日本研修。相手も共産党のエリートで緊迫感があった

父は日本電気精器と契約していた技術通訳の第一人者、小林満利子先生(ロシア語通訳協会副会長)に相談し、ソ連とパイプを持っていた社会党の議員さんを紹介してもらいます。
父は社会党の支持者でも何でもなかったのですが、ありがたいことに「日ソ友好のために不可欠」という父の熱弁に賛同してくれることとなりました。この働きかけにより、渋る外務省も渋々OKを出してくれたのです。

国会議員に陳情に行った時の物。
ハッタリをかますために母上が秘書役として同伴。ムチャなことを💦
便宜を図ってくれたのは衆議院副議長を務めた戦前からの重鎮、三宅正一氏だった。
父と窓口になったソ連通商代表部の職員二名
二人は日本の国会議事堂に入ることが出来て大感激。これ以降父は国会議員の後ろ盾があると勝手に誤解され?一目置かれるようになったとか。

こうして何とか3名分の入国ビザの申請には成功したのですが問題はここからです。今度はソ連政府がこの3名を審査し外国旅行用パスポートを発行してくれなければ、すべてはご和算になってしまうのです。この審査には泣く子も黙るソ連の秘密警察「KGBソ連国家保安委員会」が深く関与しているのでした。
 まず結婚していない人物や子供のいない物は除外されます。これは亡命を防ぐため、人質として家族を確保するためでした。また疾患を抱えている人物も審査が通りません。ソ連は対外的に「心身ともに健康な労働者の楽園」という幻想をプロパガンダしていたからでした。

ルビャンカ広場KGB本部。ソ連時代の恐怖政治の総本山だった。その後民主派のデモで引き倒されてしまった初代長官のジェルジンスキーの銅像が見える。
「健康でいたければ、鍛えろ」政府広告。ソ連の実態は病人に極めて冷酷だった。

このためMSXチームでもっとも日本行を熱望していた、MSXの自作品質管理ソフト制作者であるグセイノフは審査が通りませんでした。彼は高所での作業中に転落事故により足に大怪我を負い、障害者として認定されていたからです。
「私の分まで頼むぞ、日本のPC技術を出来る限り学んできてくれ」
天才的数学者だったグセイノフは涙ながらに仲間達を見送ったと言います。
こうした紆余曲折の末、1985年の12月ついにソ連MSXチームのメンバー3人がPCの黄金郷たる日本へ降り立ちました。
「鉄のカーテン」は強固に共産主義陣営を世界から隔離していたのですが、MSXユーザーの熱意には前には無力だったのです

ゴルバチョフ・冷戦終結をめぐる秘話からのカット映像。生産報告の偽造はもはや常態化していた。

1985年に開始されたペレストロイカの一環で来日することが出来た彼らですが、既にソ連経済は破綻寸前でした。労働者の意欲は停滞し、社会の活力が失われていく様を父は体感しています。
その中でも己の向上心を失わないMSX軍団は異端の存在でした。
この物語は爛れゆく赤い帝国に抗い、技術者の矜持を忘れなかった男たちの記録なのです。

1985年11月IOのラオックス広告
この時期まさに日本ではパソコン黄金時代が幕を開けようとしていた。


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