ソ連MSX物語⑦暗黒の日を越えて・障害に屈しなかったMSXユーザー
1985年のバクー、父が密かにソ連に運び込んだヤマハMSXは6台。問題は誰に割り当てるかです。
父の右腕ゲンナデ曰く
「グセイノフしかいない、奴は間違いなく数学の天才だ」
ユダヤ人の天才数学者であるゲンナデが言うのですからその言葉には重みがありました。彼は以前工業高校の数学教師を務めており、グセイノフはその時の教え子だったのです。
「よしウチの部署に引っ張ろう。どこの所属だ?」
「街の清掃員だ。」
父は耳を疑いました。
「何故だ、そんな優秀な男が?」
彼は真顔で答えます。
「ここはソ連だからさ。」
グセイノフは工業高校を優秀な成績で卒業しました。しかし父親が独ソ戦で捕虜になった経歴が問題視され、コムソモール青年共産党員に入党できず大学進学を断念。その後電気工事作業員として働いていましたが、高所での作業中転落事故により足に障害を負い清掃員に甘んじていたのでした。
足を引きずりながらの過酷な労働でしたが拒否すれば施設という名の収容所送り。
政府が「ソ連に障害者はいない」と豪語する実態は残酷だったのです。
「足に障害があるなら経理などの頭脳労働担当に何故させなかったのだ?」
「経理などは女性枠で一杯だ。ソ連では障害者労働は清掃員と相場が決まっているのさ。」
「何とバカなことを…」
(注意・清掃員や障害者を侮蔑している訳ではありません。ご了解ください)
父は外国人特権により品質管理部門にグセイノフを引き抜き、MSX担当に抜擢します。父はグセイノフにこう告げました。
「これが君に託すMSXと言う日本の新型計算機だ。しかし私はコンピューターの知識を持っていない。したがって君は全て独力でMSXを解析し、実用化しなければならないことになる。難しい仕事になるが出来るか?」
「やってみます。いや、やらせてください!」
そう答えるグセイノフの瞳の輝きに父は賭けてみることにしたのでした。
数学に天賦の才を持つ彼は寝食を忘れMSXの解析に没頭します。瞬く間にZ80の機械語・アセンブラを習得し、品質管理部門のMSXチームのエースとなるのでした。そして独自の品質管理ソフトの開発に成功し、工場の生産能力拡大の原動力になった過程は前回の物語で説明した通りです。
グセイノフは85年末の日本への研修旅行の参加を熱望しましたが、ここでも障害者差別で審査が通りませんでした。ソ連は対外的に「心身ともに健康な労働者の楽園」という幻想をプロパガンダしていたからです。
しかし彼はめげませんでした。「パソコンの黄金郷日本へ」の渇望は更なる品質管理ソフトの開発に繋がり、バクー工場はソ連国内でも屈指の優良工場として認定されるまでになりました。この実績を盾にグセイノフは再び日本への研修旅行を申請、ついに執念で89年に来日を果たすことになります。
その後師匠格で品質管理部門の責任者だったゲンナデがイスラエルへの亡命を考えるようになると、グセイノフはその後任に就くことになります。最終的にグセイノフは工場のNO4にまで昇進することになりました。
彼にとってMSXは「暗黒の日々」から救ってくれた特別な存在だったのでした。
そして別れの日、グセイノフは父に深く感謝したと言います。
「今の私があるのは貴方とMSXのおかげだ」
しかし静かに父は微笑みました
「違う、それは努力した君の正当な権利なのだ。私の世界では当たり前のことだ。」
父は握りしめた手に力を込め、こう述べました。
「そして君の国も必ずそうなる」
感極まった彼は父を抱きしめ、熊の如く嗚咽するのでした。
「ありがとう友よ」
時は1991年、ソ連は崩壊しアゼルバイジャンは独立を宣言。世界は大きく動き出そうとしていました。
ソ連社会で障害者は「二級市民」と位置づけられ、施設に隔離されるシステムが確立されていました。労働者の楽園を謳っていたソ連では「働けない物」は人間として扱われない過酷な現実があったのです。
障害を持つグセイノフは足の状態が悪化し、清掃員として働けなくなることを何より恐れていたと言います。障害者施設と言う、実態は強制収容所送りになることを危惧していたのでした。
モスクワは街中にKGBの監視網がひかれ、ホテルでも盗聴の危機があるため父も言動には気を使っていました。
しかしアゼルバイジャン・バクーは油田があるため現地政府の権限が強く、KGBの影響は小さかったのでした。そのため宴会では平然とソ連共産党批判が行われたと言います。父はこうしてソ連社会の現実をまざまざと見せつけられたのでした。そんな折、酔った勢いで父は演説をぶちます
「実力のある人間が評価される時代が必ず来る。我々MSX軍団はその先兵になるのだ!」
「ダヴァイ Давай!(いいぞいいぞ!)」
今振りかえるとそれは非常に危険な行為でした。ソ連での政権批判は「命がけの遊戯」と言われていたのです。しかし父は
「暗黒のソ連社会の中でひたむきに努力する彼らは、私に希望と勇気を与えてくれた。」と当時を振り返ります。
父はその体験上、ソ連共産主義体制に極めて批判的です。しかしその恐怖政治にも屈しなかった、名もなき技術屋達がいたことを伝えたかったと語るのでした
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