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ソ連MSX物語⑧ついにPCの聖地秋葉原へ!

プロレスなら後楽園ホール、ムエタイならルンピニー・スタジアム、ゲームセンターなら巣鴨キャロット・・・それではパソコンユーザーが目指すべき聖地はと言えば、やはり秋葉原に他ならないでしょう。
MSXの魅力に取りつかれたソ連技術者たちが日本へやってきたときに、真っ先に向かったのはやはり秋葉原でした。
時は1985年という冷戦真っ只中、東西が完全に分断されていた時代のお話です。MSXを世界最強のPCと信じて疑わなかった彼らは一体何を見たのでしょうか。

1986年の秋葉原。懐かしいロケット5号店前
この時期の秋葉原には異様な熱気が街中に漲っていた。

秋葉原の改札を降りると5秒で狂気のパソコン販売の洗礼を受けます。
ラジカン前の広場で「パソコン安いよ~」と叫ぶハッピ姿の客引きと、ずらりと並んだ展示用PCが彼らの度肝を抜きました。
「おい、ここは国営のPC生産拠点なのか?」
「いや、これは売り物らしいぞ」
「まるでパソコンのバザールじゃないか!信じられん」

マイコンのメッカ・ラジオ会館。
ラジカン前に降り立つと「秋葉原に来た!」と言う興奮に包まれました。

そもそもソ連の商売は全て国営で利益を追求していませんでしたから、極めて無愛想で事務的なものでした。後述しますがソ連での買い物とは市役所の手続きと大差なかったのです。そんな世界しか知らない彼らが日本でも有数の「鉄火場」である秋葉原に来た衝撃は大きかったのでした。

1970年年代バクーのバスターミナル前スーパー。
品物も少なく買い物の手順が煩雑だったのでいつもガラガラだった。
例外的に活気があったのは黙認されていたバザール市場だけ。
日本でいえば闇市に近い。

パソコンの博物館の如くの威厳を保つラオックス。
「お客様、ありがとうございました」と出口まで丁寧に頭下げてくれるオノデンや石丸電気。
安さ爆発を前面に出すサトームセン。
妖しい香りを放つ元祖バッタ屋マヤ電機…
まさにそれらは彼らにとってに「異世界」そのものでした。

僕の中でPCショップと言えばラオックスのイメージが強い。店員さんも超優秀。
石丸電機は接客に定評があった。
マヤ電機は元々闇市から発展した秋葉原の面影を残してきた。
魚市場のようにPC9801が山積みに。

そうこうしているうちに80年代の秋葉原名物、安売り王のマヤ電機の客引きオヤジがやってきました。
「今日は何をお探しで?何でも安くしまっせ!」
「いや、今日は女はいらん。」
父は苦笑しながら答えました。
「彼はポン引きじゃないぞ。」

秋葉原名物マヤ電機の客引きオジサン。秋葉原に行くたびにご挨拶していました。
「モスクワまで」ソ連にも売春は存在した。シングルマザーが多く、報酬は外貨ドルや海外の家電製品だった。父は多分使用してませんよ!(願望)

そんな中で特に彼らの目を引いたのが16bit機で運用され始めていたCADシステム。建築技師が食い入るようPC100の画面をのぞき込みます。
「まさかPCの中で設計図を構築しているのか!」
「なんてことだ、俺達は文房具だけが頼りだって言うのに。」
「もしかしてこれをMSXでも再現できるのか?」
それを聞いた店員さんが笑い出します。
「PC100は腐ってもIntel8086搭載の16bit機です。Z80の8bit機MSXと比べるのは可哀そうですよ。」
「同志、君はMSXを日本で最高のPCだと言ったじゃないか、騙したな!」

1985年の秋葉原ではPC100のCADシステムデモが盛んに行われた。
PC100は西和彦先生の提案で開発された。GUIを日本で初めて搭載した野心的なPC。

父は憮然とした表情で応えます。
「私は最新のパソコンと言ったんだ。」
「このパソコン一体幾らなんだ?これさえあればどんな設計図だって作れそうだぞ。」
残念ながら彼らが一生働いても購入することは適わない金額なのでした。
しかしめげずにPC少年丸出しの気分ではしゃぎまくるソ連MSXチーム御一行。仕方ありません、80年代の魔境秋葉原はパソコンユーザーを熱狂させる要素をすべて兼ね備えていたのですから。

真光無線の広告。秋葉原では様々なショップがしのぎを削っていた。

そんな彼らを父が一括しました。
「私達にはバクーで待っているグセイノフや仲間達の為にもやらなければならないことがあった筈だ。それを忘れたのか。」
神妙な面持ちで頷く一行。そうです今回の遠征にはソ連MSXチームにとって重要な任務が課せられていたのでした。
メンバー達はとある有名店のMSXブースに急ぐのでした。

85年になるとMSXの専門のブースも登場するようになった。

ソビエトでは物を買うための行列が有名でした。これは品不足に起因しているものでしたが、買い物のシステムにも問題があったのです。

金鳥どんとのCMソ連編。父が爆笑しながら「こんな感じだった」と言っていた。ダンプ松本さんが登場。

現存する国立百貨店の全景。手前が赤の広場
国立百貨店の内部。しかし利用できるのは一部の特権階級だけだった。

まず恐ろしいことに自由に商品に触わることはできません。客との間には必ずカウンターがあり、その後ろに商品が山積みになっているという構図です。買い物の手順は

①まずカウンターに取り付いて、店員をつかまえることから始まります(大体数回は無視される)
②つかまえた店員に後ろの棚にある商品を指示して、値段を書いた伝票をもらいます。
③伝票をКАССАと書いてあるレジに持って行って、代金を払いレシートを貰います。
④最初のカウンターに行き、また店員をつかまえて、レシートを見せて商品を受け取ります。
⑤これを繰り返す。

店員の接客態度は世界最低で「笑ったら負け」とでもばかりこちらを睨みつけてきます。これは売り上げが上がっても給料に反映されないということもありましたが、盗難のペナルティが大きいのが理由なのだそうです。つまり店員が一番集中しているのは万引き防止で、客は「お客様」ではなく監視対象なのでした。

ケージに物が無くなると店員は帰ってしまう。カウンターの裏に商品が山積みになっていても買うことが出来ず途方に暮れる少年。

このようにソ連では楽しいはずの買い物は一種の苦行のようなものでした。父はソ連共産主義体制を「人間の本能をすべて抑圧したシステム」と評しています。そのような世界からやってきたソ連技術者が秋葉原で見た光景は、まさにパソコンのエルドラド・黄金郷だったのではないでしょうか。

1984年バイトショップの室内展示。この頃のPCショップには夢が詰まっていた。
僕もナイコン少年の頃からお世話になってました。


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