ソ連MSX物語④技術者たちの矜持
父の会社のソ連における担当工場は
アゼルバイジャン・バクー(スムガイット)
リトアニア・マジェイケイ
ウクライナ・ハルキウ
ロシア・クラスノヤルスク&エカテリンブルク
この5か所で、その報告書を父は東京で毎月受け取っていました。父が現地に長期滞在して工場の立ち上げから関わったのはアゼルバイジャン・バクー工場だったのですが、バクー工場の成績が悪ければ父の面子は丸潰れになります。前回紹介したように父が骨を折ってMSXをソ連技術者たちに贈ったことは、このような背景があったのでした。
工場の成績表は品質管理データです。この集計をPC8801mkⅡで行っていたと前回述べましたが、各工場に僅か一台の割り当てでした。
ひと月の生産量が万単位ですから半数以上がタイプライター、PC88が故障した時は全て手書きである時も珍しくなかったそうです。しかしバクーからの報告書は全てPC88から出力された完璧なものだったのでした。
父はまず「奴らインチキしてるな」と疑いました。そもそもソ連側の立場としては本丸のロシア工場の整備に最も力を入れていました。一方で実質上の衛星国、悪く言えばド田舎のアゼルバイジャンは現地政府に丸投げの状態だったからです。もっともそのおかげで、父のような外国人に決裁権が与えられたとも言えるのですが…
またソ連は伝統的に計画経済を行っていましたが、全く実態と合致しなかったため数値偽装が後を絶ちませんでした。更にこの85年は第11次五カ年計画1981年~1985年の最終年にあたり、最後の帳尻合わせのため大幅な改ざんが各地で行われていたのです。検査偽装は我が国の専売特許ではなかったのですね。
厳格な性格の父は怒り、即座にアポなしでのバクー出張に赴きました。いわゆる抜き打ち検査と言う奴です。初訪ソの69年から長い付き合いの経験で、それまで父は怠慢なソ連人を全く信用していませんでした。しかし現地で父が見た驚愕の光景とは‥‥
得意げにMSXのアセンブラで自作した品質管理ソフトを運用するソ連技術者達でした。他の工場がPC88一台で行っているのを、父寄贈の6台のMSXを追加して行っているのですから効率が上がる訳です。品質管理の向上は製品の質に直結します。検査技師だった父はソ連技術者の矜持と熱意を見出したのでした。
極論的には品質管理データとは不良品のデータのことなのだそうです。どの工程でどれぐらいの不良品が生産されたのか、その原因を精査することで工場全体の品質を改善していく…
日本の工業製品に極めて故障が少なく高品質を保てた背景には、血の滲むような努力があったという自負が父にはありました。
しかしソ連側からしてみれば不良品があろうとなかろうと、計画経済の帳尻を合わせることの方がはるかに重要なのでした。10年以上品質管理の専門家として現地業務に携わってきた父は、一向に改善しないソ連の技術者達に怒りを通り越してあきれ果てていたといいます。
しかしバクー工場のソ連MSXチームの面々の努力は目を見張るものがありました。正確かつ迅速な品質管理データは即座に生産現場にフィードバックされ、工場の生産能力は日に日に向上していったと言います。
日本電気精器が担当した5か所の工場の内、成績が万年下位だったバクー工場は85年末の生産台数で何と首位に立ちます。そして業務提携が終了する91年までその座を守り抜いたのでした。
85年は折しもゴルバチョフ政権が誕生した年でもあり、ペレストロイカ政策が88年から施行されるのあたって「モデル優良工場」として表彰を受けるまでになったと言います。
自分たちの努力が形となって現れる、その喜びを知ったことで「技術者の矜持を取り戻した」と父は回想しています。
「俺たちはソ連中の何処の工場にも負けない仕事をしている!」
マニュアルも何もない状況からMSXを解析し、自作の品質管理ソフトを作り上げた彼らの情熱は留まることを知りません。ソ連MSXチームの士気は上がり、強い結束で結ばれるのでした。
しかし一方でソ連共産主義の残酷な現実として、努力して結果を出しても賃金が上昇する訳ではないのでした。一方で父は社内での評価を上げ、課長に出世することになります。
「私だけ申し訳ない・・・」
その昇進祝いで父がソ連MSXチームのメンバーに詫びると
「実は同志、頼みがあるのだ…」
ソ連MSXチームのたっての願いとはいったい何だったのでしょうか?
タイトルの写真は舞台となったソ連アゼルバイジャン・スムガイト市1985年の革命記念日。レーニン像が見えます。
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