わたしが「日記」に惹かれる理由
小鳥書房で店主落合さんとおしゃべりしていて、ふと投げられた質問に言葉が詰まった。
「どうして日記が好きなの?」
例によってよくわからないというようなことをよくわからないことばで濁して返した。落合さんはちゃんと訊いてくれる。でもたいてい、そのちゃんと訊いてくれたこと、自分で結論の出ていないことがらばかりだから、ろくな会話にならない。
そもそも、なんとなく生きすぎなわたしが悪いのだけれど。
最近読んでいるデザインの本にもことあるごとに出てくる。なんとなくやるなって。ごめんなさい。
*
さて、日記。
この1年くらいで日記だとか、エッセイだとか、そういう語りに強く惹かれるようになってしまった。自分でもそんな雰囲気のものを書くようになった。
ずっと、どうしてだろうと考えていた。
考えるけれど、うまくことばにできなかった。
おそらくそれは、同じように考えているけれど一向に結論の出ない、わたし自身のクリエイティヴに対するひとつの指針とも、かなり関係することなのだとおもっている。だから余計に知りたかった。
そんな折、出逢った。
日記だ。
昨日の日記。
色んな人の、昨日の日記。
読む読む。
うわァ最高だなァとにやにやしながら片っ端から読んだ。
今のところいちばんすきなのはやっぱりこの、最初に読んだ米山ミサさんの日記。
目が覚めて、
何をつくって、食べて、
どこへ行って、
だれと会って、
それぞれの瞬間になにをおもって、
どんな余韻でその日が閉じたのか。
それらが語られすぎることなく詰まっていて、なんておいしい一皿だろう。
と、そこまで味わっておっ、とおもった。
そういうことか。
わたしがひとの日記がすきな理由。
**
暮らしだ。生活だ。
しかもものすごく人間臭くて、なんでもないやつ。
その、断片をちょっとずつ、眺めるのがすきなんだ。
そしてそこから見えない部分をちょっと想ってみたり、その人の暮らしを通してみえるその土地の季節を感じたり。
そういうところなんだ。
例えばそれは、一人暮らしの友達の家に遊びにいって部屋を眺めるのが好きなことと、根っこはおんなじだろうとおもう。
全部は見えないけれど、色濃く感じる生活の匂い。台所まわりをどう整頓しているのかとか、しょうゆはどのメーカーのを使うのかとか、配線はどう工夫しているのかとか。みたい。たのしい。そう、部屋っていいよね。だいすき。
親しい人のふだんみえない暮らしの様子を垣間見るのもたのしいけれど、全然しらない、これまでもこれからも交わらないであろう人たちの生活をちょっとだけみるのがいちばん、たのしいかもしれない。
連綿と続く日常のたった一日だから、そのひとの全体像はほとんどわからない。でも、ちょっとずつ確かなものが読み取れて、それをひとつひとつ手にとりながら、書かれていない色んなことを想像するだけでもすごくわくわくする。
もちろんもっと具体的に、あっこのレシピ今度やってみたいな、とかもある。そういう直接的な出会いとか響きあいもたのしい。でも、第一義ではない。
もっと視点をもち上げて、そのひとの思考の奥の奥をいっしょになぞるのもいい。ん? 持ち上がるというか、潜る、のか。思考に潜って、日常の具体から抽象の次元に持ち上がる。
日付がある。その一日に対応する何らかのなにかが綴られている。それさえ守っていれば、あとは自由。だれにでも、はじめられる。そんな語りはじっくり磨いていけば、下手な小説よりずっと味わい深いものになる。ちいさく紡ぐ、そのひとにしか書けない文学。どんなひとのどんなことばでも、世界でただ一つの芸術になりうる。
***
生活だ。暮らしだ。
朝何時に起きる。あるいは起きない。ごはんをつくる。あるいはつくらない。何を食べたか。あるいは食べない。仕事をする。遊ぶ。あるいは、なにもしない。
空の色は? どんなにおい? どんな音が鳴った?
その時々、何を思う?
動くこころ。あるいは、死んだこころ。その震え方、あるいはその死に方。
美しい日も、全く美しくない日も、すべて。
美しいだけの日記は嫌だ。
「丁寧な暮らし」、みたいな、あまりに空想に流れすぎたものには鼻白んでしまう。ダメだったり、ぐちゃぐちゃしていたり、ちょっとの絶望がいつも流れていたり。
生きた人間のにおいのする、ワンシーンをみたい。
ただその日々を綴るだけで、そのひとそのものが、全部ではないけれど色濃くにじんでくる。
切りとり方、あてることば、想いの乗せかた。
そのひとの目を通して、そのひとにしかできないやり方で、日常を、季節を、世界をみることができる。わたしにはわたしに見える、感じとれるやり方でしか世界を味わえないけれど、日記を読めば、幾万・幾億通りのやり方で、見つめなおすことができる。
こんなに面白いことってない。
エキサイティング! っていうのじゃない。
ドキドキする感じ。
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同じ一日を、季節を、時代を生きていても、十人いれば十人分の世界がある。違いを楽しんで、おどろいて、ちょこちょこ出逢える近しい感性によろこんだりして。そういうものを、これからもたくさん集めていきたい。いっぱい読んで感じたい。想像したい。
そして、自分でも細々と紡いでいきたい。
何でもない日々がたからもの、とか、そんなうすら寒いきれいごとを言いたいわけじゃない。でも、どうせきょうも目が覚めてしまったなら、あきらめて目の前のものを、自分自身のこころを、しっかり見逃さずに過ごしたいとおもう。
そのために、わたしはきょうも日々を書く。
綴られた、だれかの日々を読む。
ぼんやりした「好き」が、やっとすこしまとまった実体になってすっきりした、そんなわたしのひとり言でした。
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