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石川キャミー 「行方不明」

ニュースの見方がたまに分からなくなる。


幼い頃から、ニュースをテレビで見るときは決まってNHKだった。

相撲中継を爺ちゃんが見て、その後すぐにニュースが始まり、それに合わせて夕飯が食卓に並ぶ。これが我が家の夕方ルーティーンだ。

ただ淡々と余計なコメントもなくその日あった出来事(もちろん北海道情報が多め)が読み上げられていく様は、幼い私にとっては色のない積み木をただ並べていくだけのようでつまらなかった。


テレビは華やかなものだ。フリップがあり、めくりがあり、芸能人が一つの出来事にあーでもないこーでもないと議論する。アナウンサーは綺麗で、司会者は歯切れよく溌剌としている。

片田舎で育った私にとって、都会の煌びやかな一端に触れられるのはテレビを見ているその一瞬だけだった。

だからこそ、私は民放のニュースが良かったし、ローカル感溢れるニュースにはどうしても惹かれなかった。



民放のニュースがワイドショーという類いなのを知ったのはもう少し大人になってからだ。

各テレビ局で考え方や報道の仕方があり、あるテレビ局ではあるスポーツを取り上げられないとか、スポンサーがどうとか、あそこの取材の仕方は良くないとか、そんな大人の事情というものも大人になる前に知った。

そんなこともあり、余計な他人の考えや議論を見るくらいならと結局私もワイドショーを見なくなった。

華やいで見えた遠くの街並みも、住んでみるとただの光の一粒でしかなかったと気付くようなものなのかもしれない。


ワイドショーを見られなくなったのには他にも理由がある。

ニュースの見方が分からなくなったのだ。


「正義」というものはあっていいもので、そして人それぞれで、善には善なりの、悪には悪なりの正義があると言うのは漫画の世界でも常識だ。

ワイドショーなんかは他人の「正しいと思っていること」を知るのにはうってつけで、色々な主張を見ることができるし、専門家の話も聞ける。一つのニュースにどう頷けばマジョリティでいられるのか勉強することができる。


しかし、その「どっちに頷くか」という2択をいつも間違えてしまう人間もいる。

「こっちが悪い」というのが分からなくなり、間違い続けると、ワイドショーというものは途端にクイズショーになってしまい、見るのに疲れてしまうのだ。


そんな感覚を言語化してくれたのが、私が愛聴している「オードリーのANN」での一幕である。

春日事件が発覚し、それについて言及する若林さんが「ワイドショーのオファーは全部断っている。自分の善悪の判断に自信がないから」

共感をした。今までワイドショーに感じていたモヤモヤがちゃんと言葉となり、「まともな人間じゃない」とまで言ってくれた清々しさで楽になった。

どんな傷のつく言葉でも、言語化されていないものを胸の内に抱え続けていく方がよっぽど辛い。

そんな考え方を知ったおかげで、ワイドショーは無理やり見なくなった。多分、夕方必ず流れていた我が家のNHKのニュースにもこんな意味があったのだろう。


石川キャミー 「行方不明」

今回は、動画を公開するに伴って、初めて自分の歌詞についてのエッセイを書くことにした。

以下全文

名前のない日々に僕は怯えている
探さないでくださいと書いた手紙
探してって意味なのに
突如として姿を消す あの子は
ニュースにもならず行方不明になる

歌が銃だとしたら弾丸は歌詞だろう
確実に君だけを仕留めて 楽にしてあげよう
バラバラに解体し 山の中 川の底に
君は行方不明になる

犯人探しはやめてくれ
あの子が あの子が生きているといいね
犯人探しはやめてくれ
あの子が あの子がまだ生きているといいね

続いてのニュースが明るくって嫌になる
最近のテレビはつまらないね
僕と君のようだね
「寂しいね」と僕が言うと「そうなんだ」と
君が言うから僕は行方不明になる

森に消えた少女は今どこで生きてる
本当は笑って泣いて死んでそれだけでいいのに
気づいてる 分かってる 知っている
僕はイかれてる 行方不明になる

犯人探しはやめてくれ
あの子が あの子が生きているといいね
犯人探しはやめてくれ
あの子が あの子がまだ生きているといいね
探さないでくださいと書いた手紙 探してって意味なのに

よく私はこの連載で書いていることだが、歌詞の素晴らしさはやはり冒頭に現れるものだ。

そして、この「行方不明」でも言いたいことは冒頭のこれが全てとも言える。


「探さないでください」なんて実際の生活では使うこともそんな手紙書くこともないが、ドラマや映画では家族を置いて田舎に帰る母ちゃんの常套句だ。

多分、そんな母ちゃんのだいたいは父ちゃんに「探してほしい」と思っているし、手紙の文字をそのまま母ちゃんの意思として受け取る父ちゃんなんて父ちゃん失格なのである。


何でこれを冒頭に私が書いたのかと言うと、この曲の言葉を表面的に受け取らず手紙の表から裏まで、縦でも横でも読んでよねっていうのをわかってほしいからである。

「行方不明」という曲は、表向きは「ニュースを見ている君と僕」という一場面だけを歌ったものだが、見方を変えればダブルミーニング、トリプルミーニングにもなっている。

「どこがそうなのか」とかの解釈は皆さんに発見して欲しいし、それこそ探してほしいし、私とはまったく違う見方をするというのも歌詞の醍醐味であるので、言及はしないでおこうと思う。

ここではあくまでも表面的な部分だけの話にしておきます。


犯人探しはやめてくれ あの子が あの子が生きているといいね

「死んでしまいたい」「消えてしまいたい」とGoogleさんに話せば、こころの健康相談統一ダイヤルを教えてくれる。そんな優しい話し相手がいてもニュースにもならないで消えてしまった知人が何人もいる。

「死んでしまいたい」まではなくとも、「消えてしまいたい」感覚というのは、案外みんなが抱えているものなんじゃないかとそんなときに気づいた。

失踪前のあいつに私が何をできたわけでもないし、自分の心の平穏を保ちたいがために「生きているといいな」なんて考えてしまうことに違和感もある。

だから言語化したかったのである。


この歌詞を私が大事にしている理由はそんなところだ。

故郷に帰った時にあいつが消えていった橋の上を車で通ると胸がすかすかになること。幾つもの人が消えていったあの展望台の夜は皮肉なほど星が綺麗なこと。あいつが飛び降りるのを躊躇してくれたベランダのこと。

犯人のいない行方不明事件というのがこの世にはわんさかある。それをどうか歌にして、若林さんのように私の考え方に共感することで誰かを楽にしたかったのかもしれない。



表面的な解釈はこのくらいだろうか。でもニュースを取り上げている歌詞であるから、色んな視点で聴けるというのと、答えがないということだけは気づいてあげてほしい。

あの子はどこへいったのか。そもそもあの子なんているのか。犯人は誰なのか。そもそも犯人なんているのか。ニュースで言っていることは本当なのか。にんにくを食べた後の臭いはりんごを食べると消えるというの豆知識は本当なのか。

この「行方不明」の真相にどうか迫ってあげてください。




あ、是非動画も見てあげてください。

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