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明治時代の文士さんの執筆具事情

物書きは執筆具にこだわりを持つ


 執筆具は物書きにとってはこだわりどころで、少し前まで長時間疲れず、日本語が書きやすく、インクがたっぷり入る万年筆を求めたものだ。当然、そうした万年筆は高価なため原稿料を稼げるようになったら買おうと決めて、それを目標に作家修行に頑張ったという話もある。
 作家・井伏鱒二氏はタイトル画像に使ったペリカンの万年筆が愛用だったと聞くが、日本の漢字、ひらがな、カタカナが混じる文章用に研究された国産の万年筆がおおかたの作家さんには、人気があるようだ。僕の敬愛する浅田次郎氏が使うのがセーラー万年筆という話もあるので、ちょっと欲しくなっている(笑)。
 昨今では若手の作家さんは、手書き派は少ないようだから。使い良いコンピュータにこだわっているかもしれない。時代が変わっても物書きが執筆具にこだわるということでは変わらないと思う、

 僕の場合、もっとも執筆を支えるのは万年筆でもコンピュータでもない。じつはあんまり恰好がいい話ではないかもしれないが、パイロットから販売されているフリクションボールなのだ。原稿の仕上げはWindowsでワープロソフトだが、下書き派なので手書きで書いたとき、くっきり見えてしかも消せるという点でフリクションボールに勝るものがないのだ。1㎜の太さの芯が登場して、太字好きの僕には今や外せない執筆具になっている。

明治時代の文士さんの執筆具


 ところで万年筆以前はペン、それ以前は筆となる物書きの執筆具だが、明治になってペンや万年筆が入ってきても、当時の文士さんたちは案外に筆派なのだ。
 例えば俳人で文筆家でもあった正岡子規は、俳句を収集して分類するということに取り組んでいたが小さな和綴じ帳に小さな筆書きの字で書いているのを資料館で見たことがある。残っている原稿類や手紙の類もすべて筆書きであったそうだ。
 子規は元来、新しもの好きで米国から伝わったベースボールを自ら楽しみ、野球という日本語を作った人物だが、執筆具に限っては筆が好みだったようだ。
 洋行帰りの夏目漱石は、英国に留学するときに親戚から餞別に万年筆を贈られたが、航海中に壊してしまう。以降、英国滞在中もペンは使ったが万年筆を使用した形跡はなく、万年筆を手にするのは大病を患った後の明治41、2年あたりからと思われる、この年代は明治45年に漱石が書いた一文「余と万年筆」からの推定と書かれた書物がある。つまり餞別に万年筆を贈るぐらいだから、明治33年には日本でも万年筆は入手できた。
 にもかかわらず正岡子規も夏目漱石も「金色夜叉」で知られる尾崎紅葉も万年筆を使わなかったのは興味深い事実だ。当時の人たちにとって、使い慣れた筆の方がよほど書きやすい執筆具だったのかもしれないね。

※タイトル画像はMarukimaruの自作ですが「しちゃうおじさん」プロデュースの「みんフォトプロジェクト」経由で自由にお使いいただけます。背景色のバリエーションも揃っています。その他にもMarukimaru作品が「みんフォトプロジェクト」にギャラリー展示されいます。



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