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麻婆豆腐

昨年の冬、2月に告げられた人事異動で引越しをした。
前の家は一年と経たずに引き払うことになった。東南向きの大きい窓が一つある1Kのアパートだった。
トイレとお風呂場が廊下を挟んだ向かいにあって、脱衣所が広くて、浴室乾燥機があって、引き戸を開ければキッチンとリビングが繋がるような間取りだった。
キッチンも六畳と広めで、シンクの向かいにダイニングテーブルを置いてご飯を食べた。

このテーブル、白い家具が多い部屋に合わせて恋人と選んだ思い出がある。正方形で、脚がパイプになっていて、木目が暖かくて、そんなデザインのテーブルを二人で探した。
2つ年下の恋人は社会人になりたてのわたしを見かねて、遠くから飛行機で会いに来てくれた。わたしは入社に先立って行われた新人研修でくたくたになってしまって、恋人はそんなわたしの帰りをまだ家具も少ないワンルームで待っていてくれた。
「ねえ、今晩何食べたい?」
その日も新人研修に出かけるべく支度をするわたしに、まだベッドの中でぬくぬくと眠そうな恋人が声をかけた。顔と同じくらい眠そうな声だったと思う。
「おれはねぇ、麻婆豆腐の気分だなぁ」
化粧をしながら曖昧に返事をするわたしを余所に、恋人は自分の中でどんどん話を進める。わたしは辛いのが苦手で、麻婆豆腐なんてもう五年近く食べていなかった。
「あ、辛いの苦手だっけ?」
ようやくベッドから身体を起こして、そのまま滑り落ちるように布団から這い出してくる。ようやくアイラインにたどり着いたわたしの背にのしかかるようにしてくっついてくる恋人。正直ちょっと邪魔くさかったけど可愛かったなぁ。
「ちゃんと甘口を買ってくるから安心してね」
行ってらっしゃいの時は毎回のハグとキスが暗黙の了解だった。初めての就職で不安ばかりのわたしは、それだけでだいぶ救われていた。
帰ってきて玄関のドアを開けるといい匂いがしたので、そそくさと靴を脱いでキッチンに向かった。わたしより二十センチ以上背の高い恋人は、少し窮屈そうにシンクで洗い物をしていた。
「あ、おかえり〜」
ただいまの時のハグは難しそうだったので、朝のお返しとばかりに後ろから抱きしめてうなじにキスをした。危ないでしょ〜ちょっとまってて!と言った恋人はくすくすと笑って楽しそうだった。わたしが研修に行っている間、きっとたくさん寂しかったんだと思う。ごめんね、の気持ちを込めてもう一回抱きしめてからそっと離れた。

「いただきます」
恋人が初めて作ってくれた麻婆豆腐をこのテーブルで向かい合って食べた。辛いのが苦手なわたしに合わせた、お子様向けの味がした。少ししょっぱくて、ひき肉がたっぷり入っていて、豆腐が半分くらい崩れている麻婆豆腐は今まで食べた中でいちばん美味しかった。

あれから麻婆豆腐は食べていない。
市販の素を使っていたし、多分自分で作っても似たような味にはなるんだと思う。だけれど、自分で作ろうとはどうしてもならなかった。恋人が作ってくれたから、あの麻婆豆腐はあんなに美味しかったんだと思うし、わたしの中の麻婆豆腐はもうあの時のもの以外受け入れられないとも思う。
五年も食べてなかったんだから、きっとこれからも食べずに生きていけるんだとは思う。けれど、いつかわたしが前に進めるようになったら、自分のために作ってみようと思う。あのちょっとしょっぱくて、ひき肉がたっぷり入っていて、豆腐が半分くらい崩れている麻婆豆腐を。

いつかの恋人へ

あの時一緒に食べた麻婆豆腐美味しかったね。
わたしを待っている間にちょっと冷めちゃってたよね。
猫舌だからちょうどいいの!って言っていた貴方が愛おしくて仕方なかったよ。

わたしがお礼に作ったカップケーキ、いっぱい食べてくれてありがとね。
隠し味なんてないよ〜って言ったのに、いや絶対なにか入れたでしょ!!!って最後まで疑っていたの、可愛かったよ。
本当に何も入れてなかったけれど、もしなにか入っていたのだとしたら、きっと愛とかそういうのなんじゃないかなって思うよ。……ちょっと恥ずかしいね。

わたしは今でも、あのダイニングテーブルでご飯を食べているよ。
向かいの席にあなたがいないことにも慣れてきたよ。
わたしは一人でも平気だよ。平気なふりが上手くなったよ。

あの時の麻婆豆腐が貴方の中にも残っていますように。いつかわたしも、自分のために麻婆豆腐を作ってあげられますように。
貴方の中の思い出がずっとそのままでありますように。
あの日々の思い出が、お互いの糧になっていますように。

いつかの恋人より


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