【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第53話-春、修学旅行3日目〜旅の終わり、恋の終わり
如月中学校ご一行様を乗せたバスが、河口湖畔のホテルを出発する。
理美は最後にホテルのエントランスを、道を挟んだ湖畔の庭園を目に焼き付けた。
さようなら。私の初恋が終わった場所。
きっとこのホテルの事を、私はずっと忘れないだろう。
ちゃんと悟志と向き合う決意が出来た場所。
いつかまた、この景色を見たい。曇りのない気持ちで、大切な人と。
もう間違わない。誰かを好きでいるということは、その人を想い、その人を愛し、その人の幸せのために気持ちを向けるということ。もう独りよがりの気持ちには、振り回されたりしない。
バスは河口湖を周回する。湖を挟んで向こう側に、富士山が蒼くそびえている。その頂上は誇らしげに冠雪していた。
今朝貴志と見たときはまだ輪郭しかわからなかった富士山の雄々しい姿に裕は心が震えていた。
オレ…富士山に負けないくらいでっかい勇気出して、瑞穂に告白したんだよなあ。
恋には破れてしまったけれど、心は河口湖のように碧く澄んでいる。
瑞穂を好きになって、本当に良かった。友達として瑞穂の応援がしたいと、本当に心から思える。瑞穂がそんな人で、本当に良かった。
バスは河口湖大橋を渡り、富士吉田方面に向かっている。富士山登山口に至る3つの道路のひとつ。
富士スバルラインがそこにあった。
「貴志、窓際変わろうぜ」
裕が立ち上がり貴志と席を入れ替える。貴志は絶対に見たい景色のはずだから。
20キロメートル以上続く緩斜面を延々と登ると、その標高差は1200メートルにも達する。その先に待つ富士五合目駐車場をゴールとする自転車レース。
貴志がいつか出たいと思っているレースだった。
そうだな…。来年高校に入ったら出場してみるか。今から体を作れば間に合うかな。
紗霧を忘れる努力をする。
忘れることなんて、できやしない。紗霧の心を解放するためだけに送った「さようなら」の言葉だった。
言葉だけで心がなくなるわけがない。自分で言葉の通りにしなくては。
とりあえず受験とレースに集中してみよう。
そう心に刻んで、貴志はスバルラインの景色を目に焼き付けていった。
富士五合目駐車場。登山道前とは思えないほど広大な、広場に連なる売店や神社。
バスから降り立ったそこは、肌寒かった。全員が上着を羽織って歩いている。
隼人が富士山型のメロンパンを買って、瑞穂に写真を撮ってもらっていた。
それを横目に、
「返事はあったのか?」
裕がボソリと貴志に聞いた。
「既読がついた。でも返事はない」
貴志もボソリと返す。二人は富士山ソフトクリームを、ガタガタと震えながら食べている。5月と言えど標高2000メートルを超えている。気温は一桁だった。それでも二人は震える手でソフトクリームを貪っていた。
好きなんだから、寒いことは食べない理由にならない。そして、旨い。
「もし坂木さんがお前を忘れられないままで、お前を想い続けるって返事をしてきたらどうする?」
この質問は貴志にとって最も酷な質問だろう。それでも裕には聞いておかないといけない理由があった。
瑞穂の心に芽生えたかも知れない、小さな恋心。その相手が貴志だと、裕は確信していた。
貴志の心に本当の意味での決着がつかなければ、瑞穂の背を押すことができない。
「俺ってさ、何様でもないんだよ。この修学旅行にもお小遣いで来てるんだ。
遠距離恋愛なんてできる甲斐性はないよ」
裕の真意に対して、返事にはならない答えを返す。貴志自身、その時の答えはわからない。
紗霧を好きな気持ちに変わりはないのだから。
でも、もう不毛な期待はしない。忘れるための努力をすると決めたんだから。
五合目駐車場を出発し、バスは長い下り坂をゆっくりと降りてゆく。
さすがに観光地。その間に何回もバス同士ですれ違う。その中に、坂木紗霧の乗ったバスがいた。
ハッと紗霧が息を飲んだ。向かいのバス。窓ガラスの向こう側の、その通路を挟んでさらに向こう側に長髪の少年を見つけた気がした。
五合目駐車場に降り立った紗霧は、寒さに身を固くした。その姿はまるで自分自身を抱きしめているようだった。
寒い。貴志の傍からいなくなり、貴志の思い出の中にすらいられなくなった。
富士五合目の遮るもののない冷たい風が、胸に空いた穴を吹き抜けていく。
居場所を失った自分自身を抱くように、紗霧はずっと一人。寒さに震えていた。
貴志たちを乗せたバスは甲府を目指し走っていく。
二人の距離が…離れていく。
紗霧は富士山頂を見上げた。今日は貴志と同じ場所、同じ目線で。
だけどもう二人の時間は重なる事ない。
標高2000メートルの風は冷たく、紗霧の心を凍りつかせていった。
甲府市に入り、如月中学校の生徒たちはほうとうで有名なチェーン店で昼食を取り始めた。
これがこの旅の本当の終わり。あとはバスに揺られて学校まで帰るのみだ。
「ほうとうって、マジで美味しいから、本当が訛ってほうとうって言うらしいぜ」
嘘である。
「ほんとう?」
瑞穂が裕の冗談を真に受ける。
「そうとう素直だな」
貴志が我慢できずにツッコミを入れてしまう。
「山村くんの伝家のほうとう…だね」
理美まで加わってしまった。
このやり取りは俺もやらないといけないのか?隼人はため息交じりに、どうやってこの言葉遊びのラリーを続けようか考え始めた。
「ナンちゃん、ボケるつもりがもうとうないなら無理しなくて良いんだよ」
瑞穂が隼人に告げたことで、今度は裕がこめかみを押さえる。
「ぼうとしてるからだよ、隼人。とうとう思いつかないままだな。それはノーノーだぞ」
裕の言葉の暴投。
「はい、ナンちゃんの負けね。帰りのサービスエリアでジュース奢ってね」
不意打ちでジュースを奢らされる隼人の哀れなこと…。
今日も平和だなあ。
瑞穂は一人静かにため息をついた。
裕がしてくれた告白。それを瑞穂は断った。心に芽生えかけている感情の答えは、まだ見つけていない。
あれから貴志と、ゆっくり話せていない。
2日目の夜に見てしまった、貴志と理美の抱き合っている姿。どう考えても不穏な関係に見えたのだが、二人の態度には甘い関係を匂わせるものが見えてこない。理美を問い詰めたものの、実は納得のいく説明は受けていない。
ただひとつ今朝納得したことがあると言えば、理美の胸のサイズが、ほっそりとした見た目によらず、けしからんという事くらいか。
裕も、貴志も、理美もどこかやりきったような雰囲気を醸し出している。人生の一大事を乗り越えたような空気が漂っているのだ。
私だけが…何もなく修学旅行を終わろうとしてる?
「ジュース奢れって言ったくせに、福原は俺の事を忘れていないか?」
エスパー?瑞穂はビクッと肩を震わせて隼人の顔を見つめた。
配膳されたほうとうは、一人一鍋。かなり巨大だった。
それをぺろりと平らげ、瑞穂は甘い吐息をもらした。
「ほんとうにおいし〜!そうとうお腹いっぱ〜い。とうとう修学旅行も終わりだね〜」
お腹をさすりながら韻を踏み続ける。
それを愛おしそうに見つめる裕。友達として…それは裕が決めたこと。決める…と、気持ちは必ずしも同じではない。
瑞穂を好きな気持ちは今も同じだ。
瑞穂の心に芽生えた感情を、裕は応援している。
好きな人が幸せでいること。それを支えるのが裕の愛情表現だった。
今のところ、瑞穂の気持ちがはっきりした様子はないな。それに…。
貴志の顔をじっと見つめてみる。前髪が目を隠しているので顔の半分は見えない。それにしても…。最愛の恋人に「さよなら」を告げるメッセージを送信した直後に、この男ときたら。
落ち着いてほうとう食べてる場合かよ。人前で感情を爆発させない彼のことが心配でたまらない。
泣いてもいいんだぜ。オレが、オレたちがお前の泣きたい気持ちくらい受け止めてやるから。
貴志は無表情でほうとうの出汁をすすっている。裕にはそれが、泣きながら鼻をすすっている姿に見えた。
バスは甲府から中部縦貫自動車道に入り、静かに走る。都市部での渋滞に遭いながらも、ゆっくり確実に帰路を進んで名古屋駅に到着した。
ここから新幹線に乗換える。車内では疲れ切った生徒たちが、力を出し切るようにはしゃいでいる。
会えなかった恋人たちの心を乗せて、車体は揺れる。
伝えたかった想いを告げて散っていった者たちの心を包み込むように、夕焼けが新幹線を赤く照らしていた。
そして夕日がとっぷり沈む頃、如月中学校の修学旅行生達は学校に到着した。
点呼を終え生徒たちが散り散りになっていく。運動場に溢れる送迎の車たち。
貴志を出迎えたのは弟の悟志だった。いや、彼は貴志を出迎えたわけではない。
「理美さん、暗いから送っていくよ」
そう言って理美に駆け寄ると、彼女の荷物を抱えようとする。
戸惑いながらも理美は抱えていた荷物を手渡した。荷物と一緒に、胸に抱えてきた重荷も預けてしまおうか。
理美は首を横に振って苦笑した。もう過去の重荷は河口湖に下ろしてきたはずだった。
貴志ではなく、貴志の面影でもなく、彼を、悟志をちゃんと見よう。
「ありがとう」
目を細めて眩しそうに笑う理美の顔を、悟志は照れて直視出来なかった。
それは今までみた彼女の顔の中で、最も自然な笑顔だったから。
照れて反らした目を、再び彼女に向ける。その美しい笑顔は目に焼き付けないといけない気がした。
二人は並んで暗い夜道へ進んでいった。月明かりが優しく照らして、その道のりはほんのり明るく輝いて見えた。
さて…と。貴志が荷物を抱えて周りを見渡す。裕はどこに行った?
裕を探す貴志の視界いっぱいに浮かび上がったのは、瑞穂の顔。顔面。
丸くて大きい目をぱちくりと瞬かせながら、小首をかしげて貴志をじっと見つめている。
視界いっぱいに見えるくらいだから、相当近い。
貴志は思わずのけぞった。再び裕を探して頭を巡らせる。
しかし見えるのは瑞穂の顔ばかり。彼女は貴志の顔の動きに合わせて移動し、彼の視界から離れようとしなかった。
諦めてため息をつく貴志。
その彼に向って、瑞穂が口を開いた。
「北村くん、家まで送ってくんない?」
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